4
どれくらい歩かされたのか、マリアンヌには分からなかった。
森を抜けても、男たちは止まらない。
何度も転びそうになりながら、それでも腕を引かれて歩き続けた。
「お願い……」
声は震えていた。
「家に帰して……」
返事はない。
「私は何もしていないの……」
誰に言っているのか、自分でも分からなかった。
ただ、怖かった。
何が起こるのか分からないことが、一番怖い。
やがて森を抜けると、一台の馬車が待っていた。
粗末な荷馬車だった。
「乗せろ」
「嫌!」
マリアンヌは初めて強く抵抗した。
「私は公爵令嬢よ!」
その言葉を口にした瞬間、男たちが笑った。
「まだそんなこと言ってるのか」
「……え?」
「もう公爵令嬢じゃない」
胸を刺されたような気がした。
「王太子との婚約も破棄されたんだろ?」
「……」
「爵位も剥奪された」
「……やめて」
「お前はもう、誰にも必要とされていない」
「やめて……!」
マリアンヌは耳を塞いだ。
けれど男は構わず続ける。
「だったら、お前に残っている価値は何だと思う?」
答えられなかった。
「顔だよ」
その言葉に、身体が凍りついた。
男はマリアンヌを荷台へ押し込んだ。
扉が閉められる。
暗闇。
マリアンヌは震える身体を抱きしめた。
「……誰か」
小さな声が漏れる。
「誰か、助けて……」
けれど返事はない。
馬車が動き始める。
揺れるたびに、涙が頬を伝った。
どれくらい経っただろう。
やがて馬車が止まった。
扉が開く。
「降りろ」
外へ出ると、そこには大きな建物があった。
夜の街の中でもひときわ目立つ、豪華な建物。
入口には美しい女性たちが立っている。
その女性たちは、マリアンヌを見ると何かを察したような顔をした。
「新入り?」
「ああ」
「どこの子?」
「元公爵令嬢らしい」
「……へえ」
女性の一人がマリアンヌをじっと見る。
そして小さく息を吐いた。
「そりゃ高く売れそうね」
その言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「……売る?」
マリアンヌが呟く。
男が答えた。
「そうだ」
「……何を?」
「お前を」
世界が止まった。
「……嫌」
マリアンヌは後ずさった。
「嫌です」
もう一歩。
「私は……そんな場所に……」
女が冷静に言った。
「ここは月影館よ」
月影館。
王都でも最高級と噂される娼館。
その名を知らない貴族はいない。
マリアンヌも知っていた。
けれど――
自分がそこへ入るなど、考えたこともなかった。
「違う……」
首を横に振る。
「私は、ここに来る人間じゃない……」
「そうね」
女は静かに答えた。
「あなたは昨日まで、そういう人間だったのでしょうね」
その言葉が痛かった。
昨日まで。
たった一日で、何もかも変わってしまった。
「王太子殿下に愛される公爵令嬢だったんでしょう?」
「……」
「でも、ここへ来た以上、過去の身分なんて意味はないわ」
マリアンヌの目から涙が落ちる。
「……殿下」
誰にも聞こえないほど小さな声で、名前を呼んだ。
助けて。
そう言いたかった。
けれど、声にはならなかった。
レオンハルトはもう、自分を婚約者とは思っていない。
きっと自分は、もう捨てられた。
マリアンヌはその場に座り込んだ。
膝を抱える。
「……帰りたい」
誰も答えない。
「お家に帰りたい……」
それでも誰も来てくれない。
その夜。
マリアンヌは小さな部屋に一人で閉じ込められた。
窓には鉄格子。
扉には鍵。
鏡に映った自分を見る。
乱れた髪。
汚れたドレス。
泣き腫らした目。
そこにいるのは、昨日までの公爵令嬢ではなかった。
「……私、誰?」
自分でも分からなくなる。
マリアンヌは鏡に手を伸ばした。
指先が冷たいガラスに触れる。
「私は……」
言葉が続かない。
やがて、廊下から声が聞こえた。
「この子、名前は?」
「マリアンヌだそうよ」
「長いわね」
少しの沈黙。
「今日から『マリー』でいいでしょう」
その名前が、静かな廊下に響いた。
「マリー」
マリアンヌは小さく呟く。
そして――
初めて、自分の名前を奪われた。
マリアンヌ・フォン・ローゼリア。
その名前は、月影館ではもう誰にも呼ばれなかった。




