3
馬車が走り始めてから、どれくらい経っただろう。
マリアンヌは窓の外を眺めていた。
王都の街並みが遠ざかっていく。
見慣れた城壁。
何度も訪れた市場。
幼い頃、レオンハルトと一緒に歩いた大通り。
すべてが少しずつ小さくなっていく。
「……これで、本当に終わりなのね」
マリアンヌは小さく呟いた。
国外追放。
もう、この国には戻れない。
そう思うと胸が締め付けられる。
けれど、それ以上に苦しかったのは――
自分を信じてくれる人が、誰もいなかったことだった。
父も。
義妹も。
そして――レオンハルトも。
「……殿下」
無意識に、指先が首元へ伸びる。
そこには何もない。
婚約者だった頃に贈られたネックレスも、昨日のうちに没収されていた。
残ったのは、母の形見である小さな指輪だけ。
マリアンヌはそれを握りしめた。
「お母様……」
もし母が生きていたら。
きっと自分を信じてくれただろうか。
そんな考えが浮かんだときだった。
ガタンッ!
「きゃっ……!」
馬車が大きく揺れた。
マリアンヌは壁に手をつく。
「どうしたの?」
返事がない。
「……?」
耳を澄ます。
馬の蹄の音が、先ほどまでより明らかに速くなっている。
まるで何かから逃げているようだった。
「護衛の方?」
やはり返事がない。
嫌な胸騒ぎがした。
マリアンヌは扉に手を伸ばした。
その瞬間。
――ドンッ!
馬車が何かにぶつかった。
「きゃあっ!」
身体が宙に浮く。
激しい衝撃。
窓ガラスが砕ける音。
そして馬の悲鳴。
馬車が横転した。
「っ……!」
マリアンヌは床へ叩きつけられた。
頭を強く打つ。
何が起きたのか分からない。
耳鳴りがする。
身体を起こそうとした、そのときだった。
外から男の怒鳴り声が聞こえた。
「逃がすな!」
「護衛は全員殺せ!」
マリアンヌの血の気が引く。
「……え?」
国外追放ではなかった。
これは――襲撃だ。
慌てて扉を開けようとする。
しかし、外側から何かがぶつかり、扉が開かない。
「誰か……!」
声が震える。
「助けて!」
返事はない。
代わりに、馬車の外から剣がぶつかり合う音が響いた。
悲鳴。
怒号。
そして――
静寂。
マリアンヌは息を殺した。
やがて、馬車の扉がゆっくりと開く。
そこに立っていたのは、黒い服を着た男だった。
顔は布で隠されている。
「……誰?」
マリアンヌが震える声で尋ねる。
男は答えなかった。
ただ、彼女を見下ろした。
「こいつがローゼリア公爵令嬢か?」
「そうだ」
後ろから別の男が答える。
「間違いない。顔を見れば分かる」
マリアンヌは後ずさった。
「何をするつもりですか……?」
「安心しろ」
男が言った。
「殺しはしない」
「……え?」
「お前は、別の場所で使い道がある」
意味が分からない。
マリアンヌの背筋に、冷たいものが走った。
「私は国外追放になっただけです」
「知っている」
「なら……なぜ?」
男は少しだけ笑った。
「王都では、お前はもう死んだも同然だ」
「……」
「だったら誰も探しに来ない」
その言葉に、マリアンヌは絶望した。
この男たちは最初から知っていた。
自分が婚約破棄されたことも。
国外追放になったことも。
そして――
自分を助けてくれる人がいないことも。
「……嫌」
マリアンヌは震えながら後ずさる。
「嫌……来ないで」
男が腕を伸ばした。
その瞬間。
マリアンヌの視界に、男の腰に下げられた小さな袋が入った。
その袋から、透明な液体の入った瓶が覗いている。
「……何、それ」
男は一瞬だけ動きを止めた。
だが次の瞬間――
「連れていけ」
マリアンヌの腕を掴んだ。
「嫌っ!」
必死に抵抗する。
「離して!」
けれど、女の力では男には敵わない。
馬車から引きずり出される。
森の中。
護衛たちは倒れていた。
マリアンヌはその光景を見て、息を呑んだ。
「いや……」
足が震える。
「いやぁぁぁっ!」
その叫び声は、深い森の中へ消えていった。
そして――
王都では、誰一人として知らなかった。
マリアンヌを乗せた馬車が、国境へ向かう途中で襲われたことを。
そして彼女が、もう二度と帰ってこないと思われてしまうことを。
――この日から。
マリアンヌ・フォン・ローゼリアという令嬢は、世界から姿を消した。




