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王宮を出た馬車の中で、マリアンヌは一言も話さなかった。
窓の外を流れていく景色を、ただぼんやりと眺めている。
つい数時間前まで、自分は王太子の婚約者だった。
それなのに今は――罪人。
公爵令嬢としての身分も、婚約者としての立場も、すべて奪われた。
「……私、本当に何もしていないのに」
呟いた声は、誰にも届かなかった。
馬車はやがて、ローゼリア公爵家の屋敷へと到着した。
扉が開く。
けれど、出迎える者はいなかった。
いつもなら使用人たちが整列し、父も出迎えてくれるはずだった。
今日は違う。
玄関ホールには、父――ローゼリア公爵が一人立っていた。
「お父様……」
マリアンヌは少しだけ安堵した。
父なら分かってくれる。
幼い頃から自分を厳しく育ててきた人だけれど、まさか娘がそんな罪を犯したと本気で思うはずがない。
「お父様、私は――」
「部屋へ戻れ」
「……え?」
「荷物をまとめろ」
父の声は冷たかった。
「国外追放の命令が出ている。明日の朝には屋敷を出てもらう」
マリアンヌは言葉を失った。
「待ってください」
一歩、父へ近づく。
「私は何もしていません」
「王宮から証拠が出ている」
「でも、あれは偽物です!」
「証拠が偽物だと証明できるのか?」
「それは……」
「ならば、何を言っても同じだ」
冷たく突き放された。
「お父様……」
マリアンヌの目に涙が浮かぶ。
「私のことを、信じてくださらないのですか?」
父は答えなかった。
その沈黙が、何よりも苦しかった。
「……分かりました」
マリアンヌは俯いた。
涙を見られたくなかった。
そのときだった。
「お姉様」
階段の上から声がした。
顔を上げる。
そこには義妹のエレノアが立っていた。
そして、その隣には――セレネ。
「……どうして、あなたがここに?」
マリアンヌが尋ねると、セレネは悲しそうな顔を作った。
「ごめんなさい、マリアンヌ様」
「何が?」
「私のせいで……こんなことになってしまって」
「……あなたのせい?」
マリアンヌの眉が僅かに動く。
「私は殿下に何もお願いしていません」
セレネは胸元に手を当てた。
「でも……私が証言したから」
「そうね」
マリアンヌは静かに答えた。
「あなたが嘘をついたからよ」
その瞬間、セレネの顔から悲しげな表情が消えた。
ほんの一瞬だった。
けれどマリアンヌは見逃さなかった。
「……何ですって?」
「私はあなたを殺そうとしてなんかいない」
「でも証拠がありました」
「だから、それが偽物なのよ!」
思わず声を荒らげる。
しかし――
「もうやめなさい」
父の声が響いた。
「これ以上、騒ぎを起こすな」
「お父様……」
「明日の朝、お前を国境まで送る」
それだけだった。
マリアンヌは唇を噛んだ。
何を言っても無駄なのだ。
誰も信じてくれない。
誰も味方してくれない。
それでも最後に、マリアンヌは一つだけ尋ねた。
「……私の部屋にあるものは、どうなりますか?」
「すべて処分する」
「……そうですか」
もう何も言えなかった。
自分が十数年間暮らしてきた部屋。
母の形見。
幼い頃にレオンハルトからもらった小さな髪飾り。
全部、捨てられる。
マリアンヌはゆっくりと階段を上った。
自分の部屋へ向かう。
扉を開ける。
見慣れた景色が広がっていた。
机。
本棚。
ドレス。
窓辺に置かれた花瓶。
どれも明日にはなくなる。
マリアンヌはベッドの端に腰を下ろした。
「……レオンハルト様」
名前を口にするだけで、胸が痛んだ。
どうして信じてくれなかったのだろう。
どうして一度も、私の言葉を聞いてくれなかったのだろう。
そして――
どうして私は、最後まで彼を信じていたのだろう。
マリアンヌは目を閉じた。
その夜。
彼女は一睡もできなかった。
翌朝。
一台の質素な馬車が、公爵家の前に停まった。
護衛は二人。
荷物は、小さな鞄が一つだけ。
公爵令嬢だった頃のマリアンヌが持っていたものとは、とても思えないほど少なかった。
マリアンヌは振り返る。
屋敷を見る。
ここが自分の帰る場所だと思っていた。
けれど――
もう違う。
「……さようなら」
誰も見送りに来ない屋敷へ向かって、そう呟いた。
馬車の扉が閉まる。
ゆっくりと走り出す。
マリアンヌは知らなかった。
この馬車が向かっているのは、国境ではない。
そして――
彼女を待っているのは、国外追放という結末ですらなかった。
馬車の後方。
森の木々の間から、一頭の黒い馬が静かに姿を現した。
その背に乗る男が、走り去る馬車をじっと見つめていた。
「……予定通りだ」
男は小さく呟いた。
「これで、あの女は誰にも見つからない」
そして黒い馬は、森の奥へと消えていった。




