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第19話 王太子、月影館へ
月影館の入口に、一人の男が立っていた。
黒い外套。
深くかぶった帽子。
そして、王族とは思えないほど簡素な服装。
レオンハルト・アルヴェイン。
この国の王太子である。
しかし、今の彼を知る者はいない。
彼は王太子としてではなく、一人の商人――レオンとして、この場所へ来ていた。
「……ここか」
小さく呟く。
今回の目的は、マリアンヌではない。
最近、王都周辺で身寄りのない女性たちが相次いで姿を消している。
調べていくうちに、一つの商人組織が浮かび上がった。
その組織は、人身売買だけではなく、偽造された身分証や国外への密輸にも関わっているらしい。
そして、その取引場所の一つとして名前が挙がったのが――月影館だった。
「……ここに、何かある」
レオンハルトはそう確信していた。
だが。
まさか、この場所に彼女がいるなどとは思っていなかった。
◇
「お客様、お待ちしておりました」
月影館の女主人が笑顔で近づいてくる。
「初めてのお客様ですか?」
「ああ」
「お名前は?」
「レオンでいい」
「レオン様ですね」
女主人は愛想よく笑った。
「どのようなお相手を?」
「今日は酒だけでいい」
「まあ……珍しいお客様ですね」
「少し人を探している」
「人?」
「以前、この辺りで働いていた商人だ。名前は知らない」
レオンハルトは嘘をついた。
本当の目的を知られるわけにはいかない。
女主人はしばらく彼を見つめた後、にこりと笑った。
「でしたら、奥のお部屋へどうぞ」
レオンハルトは案内されながら、周囲を観察する。
豪華な内装。
上質な酒。
着飾った女性たち。
一見すると、ただの高級娼館だ。
だが。
廊下の奥に進むほど、空気が変わっていく。
客の姿が減る。
代わりに、鍵のかかった扉が増えていく。
「……」
レオンハルトは何も言わず、それを記憶した。
◇
その頃、二階。
「セレネ様の……侍女?」
マリーは扉の前で立ち尽くしていた。
聞き間違いではない。
確かに聞いた。
セレネ。
自分を陥れた女。
婚約破棄の原因となった女。
そして――。
自分がすべてを失うきっかけになった女。
「あなた……セレネ様の何を知ってるの?」
マリーが尋ねる。
「……私は……何も……」
「じゃあ、どうしてここに?」
「逃げようとしたの」
声が震えている。
「でも……捕まって……」
マリーは唇を噛んだ。
「何から逃げたの?」
しばらく沈黙が続いた。
やがて女は、小さな声で言った。
「……あの方は、最初から……あなたを消すつもりだった」
マリーの身体が固まった。
「……私を?」
「はい……」
扉越しの声が震える。
「婚約破棄だけじゃありません」
「……どういう意味?」
「国外追放になった後……あなたが生きていると困るって……」
マリーの手が震え始める。
「……そんな」
「だから……馬車を……」
そこで女の声が途切れた。
マリーは息を呑む。
「馬車を……何?」
「……」
「お願い。教えて」
「……あの馬車は」
女が言葉を続けようとした、そのときだった。
――ガチャ。
廊下の向こうから、鍵を開ける音がした。
「誰か来る!」
ミラが慌ててマリーの腕を掴む。
「隠れて!」
「でも、この人が――」
「今は無理!」
二人は急いで廊下の陰へ身を隠した。
足音が近づいてくる。
一人ではない。
二人。
三人。
「……まずい」
ミラが小さく呟いた。
そして、その足音の中に。
マリーは一つだけ、妙に聞き覚えのある音を感じ取った。
革靴が床を踏む音。
一定の歩幅。
静かで、迷いのない歩き方。
以前、王宮で何度も聞いた。
けれど。
そんなはずはない。
マリアンヌは目を閉じる。
いや。
もう閉じている。
それでも、胸の奥だけが騒いでいた。
「……まさか」
その頃、廊下の反対側。
レオンハルトもまた、足を止めていた。
「……この匂い」
かすかに漂ってきた花の香り。
ローゼリア家の庭で、マリアンヌが好んでいた花と同じ香りだった。
レオンハルトは眉をひそめる。
「……馬鹿な」
彼女はもう、この国にはいない。
そう思っていた。
だからこそ。
その先にいる女性を、まだ彼は知らない。
彼女の名が――
マリーだということも。
そして、その女性が。
自分が一度、信じることのできなかった唯一の女性だということも。
このときの二人はまだ、お互いがすぐ近くにいることすら知らなかった。




