18
第18話 月影館の秘密
月影館の夜は、いつもより騒がしかった。
笑い声。
酒を注ぐ音。
廊下を行き交う足音。
目の見えないマリーにとって、夜は以前よりもずっと情報に満ちている。
誰がどこを歩いているのか。
誰が苛立っているのか。
誰が何かを隠しているのか。
最近では、声や足音だけで人の違いが少しずつ分かるようになっていた。
「……ミラ?」
「どうしたの?」
「さっきから、裏口のほうが騒がしい」
マリーが小さく首を傾げる。
「裏口?」
「うん。男の人が何人か出入りしてる」
ミラは少しだけ黙った。
「……今日、変なんだよ」
「何が?」
「店の人たちが、私たちに近づかないようにしてる場所があるの」
「近づかないように?」
「うん。二階の奥の部屋。そこだけ、いつも鍵がかかってる」
マリーは眉を寄せた。
「何の部屋なの?」
「分からない。でも……」
ミラの声が小さくなる。
「前に、そこで泣いてる女の人の声を聞いたことがある」
マリーの指が止まった。
「女の人?」
「うん。でも翌朝にはいなくなってた」
「……その人は?」
「知らない」
ミラは俯いた。
「聞いたら怒られるから」
マリーは何も言えなかった。
ここに来てから、何人もの女たちが消えていった。
最初は、自分が目の見えないせいで気づかなかっただけだと思っていた。
けれど。
違う。
この館には、自分たちが知らない何かがある。
「ミラ」
「なに?」
「……その部屋、一度行ってみよう」
「えっ?」
「誰かが助けを求めていたなら、見過ごしたくない」
「でも、マリーは目が……」
「だからこそ、音なら分かるかもしれない」
マリーは立ち上がった。
その姿は、かつての公爵令嬢とは思えないほど細くなっていた。
それでも。
その声には、少しだけ以前の強さが戻っていた。
◇
同じ頃。
月影館の裏手では、レオナルド――そう名乗っているアルベルトが一人、建物を見上げていた。
「……妙だな」
彼が探しているセレネの侍女。
その足取りは、確かにこの街まで続いている。
だが、姿が見つからない。
そしてもう一つ。
この館について調べれば調べるほど、不自然な話が出てくる。
身寄りのない女性。
借金を抱えた女性。
そして――突然姿を消す女性。
「ただの高級娼館じゃない……」
アルベルトは小さく呟いた。
そのとき。
「お兄さん」
背後から声がした。
振り返ると、月影館の裏口で働く男が立っていた。
「ここで何してる?」
「ちょっと探し物を」
「何を?」
「昔、世話になった女がこの辺りにいるらしくてね」
アルベルトは笑って誤魔化した。
男はじろりと彼を見る。
「……女探しなら表へ行けよ」
「そうするよ」
アルベルトが歩き出そうとした、その瞬間。
「ただし、二階には行くな」
足が止まった。
「二階?」
「客が入る場所じゃない」
「そうなのか?」
「ああ。余計なことを知ると、帰れなくなる」
男はそれだけ言って去っていった。
アルベルトは目を細めた。
「……ますます怪しいな」
◇
その頃、二階。
マリーは壁に手を添えながら、ゆっくり廊下を歩いていた。
一歩。
また一歩。
目は見えない。
けれど、ミラの足音がすぐ後ろにある。
「マリー、本当に大丈夫?」
「大丈夫」
「でも……」
「怖いよ」
マリーは正直に答えた。
「怖いけど……誰かが閉じ込められているなら、放っておけない」
その言葉に、ミラは黙った。
やがて二人は、問題の部屋の前にたどり着く。
鍵がかかっている。
マリーは扉に手を触れた。
「……誰かいる?」
返事はない。
耳を澄ます。
――カタン。
小さな音。
マリーの表情が変わった。
「いる」
「え?」
「中に誰かいる」
ミラが扉に耳を近づける。
「……本当だ」
すると突然。
中から、小さな声がした。
「……助けて」
マリーの心臓が大きく跳ねた。
「誰?」
「お願い……」
震える女の声。
そして次の瞬間。
女が呟いた。
「……私、あの人の侍女なの」
「……え?」
マリーは息を呑んだ。
「誰の侍女?」
返事はない。
だが。
扉の向こうから、震える声が続いた。
「……セレネ様の……」
マリーの指先から力が抜けた。
その名前を聞いた瞬間。
忘れようとしていた王宮の日々が、胸の奥から蘇る。
そして同じ頃。
月影館の入口では、一人の男が馬車から降りていた。
黒い外套。
顔を隠す帽子。
周囲には、誰も気づいていない。
男は月影館を見上げる。
その正体は――。
レオンハルト・アルヴェイン。
かつてマリアンヌの婚約者だった、王太子だった。




