17
月影館の中は、夜になると昼間とはまるで違う空気になる。
笑い声。
グラスの触れ合う音。
廊下を行き交う人々の足音。
そのすべてを、マリアンヌは以前より鮮明に感じ取っていた。
「マリー」
ミラが小声で呼ぶ。
「なに?」
「さっきのお客さん、やっぱり変だよ」
「……そう?」
「うん」
ミラは周囲を気にしながら言った。
「普通のお客さんなら、もっと周りを見て歩くのに」
「その人は?」
「足音が一定なの」
「一定?」
「うん。まるで、誰かを探してるみたい」
マリアンヌは少し黙った。
「……誰かを?」
「そう」
その言葉に、胸がざわついた。
誰かを探している。
自分も、昔はそうだった。
大切な人を探すこと。
今では、もうできない。
マリアンヌは小さく首を振った。
「きっと気のせいよ」
その頃。
アルベルトは一階の酒場に座っていた。
目立たない場所から、館の様子を観察している。
セレネの侍女がこの館にいるという確証はまだない。
だが、ここには何かがある。
そう感じていた。
「お兄さん」
隣の席から声がした。
「何だ?」
「この店は初めてかい?」
「ああ」
「なら、あまり奥には行かないほうがいい」
「どうして?」
男は声を潜める。
「ここは普通の娼館じゃない」
アルベルトの目が細くなる。
「どういう意味だ?」
「貴族相手の裏取引もあるって噂だ」
「裏取引?」
「人身売買とか、偽造証明書とか……まあ、噂だけどな」
アルベルトはグラスを置いた。
人身売買。
その言葉が引っかかった。
「最近、若い女性が何人か行方不明になっている」
「……それも、この館が?」
「さあな」
男は肩をすくめた。
「ただ、消えた女の中には貴族の娘もいるらしい」
アルベルトの表情が変わる。
これは単なる侍女探しではないかもしれない。
その頃。
二階では、マリアンヌが一人で廊下を歩いていた。
「……」
何となく、誰かの視線を感じる。
見えない。
だから余計に怖い。
マリアンヌは足を止めた。
「誰か……いる?」
返事はない。
けれど、数メートル先から男の足音が聞こえた。
コツ。
コツ。
一定の間隔。
その音を聞いた瞬間。
マリアンヌの胸がざわついた。
「……この歩き方」
知っている。
どこかで聞いたことがある。
けれど、思い出せない。
男が近づいてくる。
マリアンヌは壁際へ避けた。
そして。
二人がすれ違った。
一瞬だけ。
マリアンヌの手が男の服に触れる。
「……!」
アルベルトが足を止めた。
マリアンヌも止まる。
「……申し訳ありません」
「いや」
アルベルトは彼女を見る。
近くで見ると、やはりただの娼婦には見えない。
姿勢。
言葉遣い。
立ち方。
どれも異様なほど上品だった。
「あなたは……」
アルベルトが口を開く。
「はい?」
「……いや、何でもない」
アルベルトは言葉を飲み込んだ。
マリアンヌも何も言わない。
そのまま通り過ぎる。
アルベルトは振り返った。
彼女の背中を見つめる。
「……貴族?」
そんな疑問が浮かぶ。
しかし、彼女は盲目だった。
そして娼館にいる。
まさか、公爵令嬢などとは思わない。
一方。
マリアンヌも歩きながら考えていた。
「……あの声」
何かを思い出しそうだった。
けれど、思い出せない。
ただ――
あの男から、王宮の騎士たちが使う革製品と同じ匂いがした。
「……変なの」
そう呟いた。
その夜。
アルベルトは女主人に尋ねた。
「この館には、どれくらいの女性がいる?」
「どうしてそんなことを?」
「気になっただけだ」
女主人は笑う。
「たくさんいますよ」
「最近入った子は?」
「何人か」
「その中に、貴族出身の者は?」
女主人の笑顔が、一瞬だけ消えた。
「……いませんよ」
アルベルトは見逃さなかった。
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
だが、確信に近いものが生まれていた。
この館には、何か隠されている。
そして――
二階の盲目の女性。
あの女性も、ただの娼婦ではない。
アルベルトは翌日もここに残ることを決めた。
その頃、王宮では。
レオンハルトが窓の外を見ていた。
「アルベルトから報告は?」
「まだありません」
「そうか」
レオンハルトは小さく息を吐いた。
なぜか、胸騒ぎがする。
まるで――
もうすぐ何かが分かるような。
そんな予感だけが、消えなかった。




