16
翌日の昼。
月影館は、いつもより少し慌ただしかった。
「今夜、客が多くなるわ」
女主人の声が廊下に響く。
「部屋を整えておいて」
使用人たちが慌ただしく動き始める。
マリアンヌは花瓶を抱えながら、壁に手を添えて歩いていた。
「マリー、そこ右」
「こっち?」
「そう。そのまま真っ直ぐ」
ミラの声を頼りに進む。
以前なら一人でできたこと。
今では誰かの助けが必要だ。
それでも、マリアンヌは少しずつ慣れていた。
「ここでいい?」
「うん」
花瓶を置く。
「ありがとう」
ミラが笑う。
「最近、歩くの上手になったね」
「そうかな」
「うん。前は壁にぶつかってたじゃん」
「……それは言わないで」
二人で小さく笑った。
そのときだった。
「……ん?」
マリアンヌが突然、顔を上げた。
「どうしたの?」
「今、誰かが外で話してた」
「何て?」
「分からない。でも……」
マリアンヌは耳を澄ませる。
「男の人が二人」
「よく分かるね」
「声が違うから」
ミラが窓のほうへ向かう。
「……誰もいないよ」
「もう行ったのかも」
マリアンヌはそう言った。
けれど、胸の奥には妙な違和感が残っていた。
その頃。
月影館から少し離れた宿屋。
アルベルトは鏡の前で服を整えていた。
騎士服ではない。
普通の商人の服だ。
腰に剣もない。
顔も少し変装している。
「これなら王宮騎士だとは分からないだろう」
侍女の足取りを調べるために、今夜、月影館へ入る。
目的は一つ。
セレネの侍女を見つけること。
それだけだった。
マリアンヌの存在など、まだ知らない。
同じ頃。
王宮ではレオンハルトが一人の男と向き合っていた。
「本当に間違いないのか?」
「はい」
男は商人だった。
数日前、西の森で不審な馬車を見たという。
「護衛らしき男たちがいました」
「何人だ?」
「四人……いや、五人だったと思います」
「馬車には?」
「女性が一人」
レオンハルトの表情が変わる。
「顔は見たか?」
「いえ。ただ……」
「何だ?」
「女性が叫んでいました」
レオンハルトの手が止まる。
「何と言っていた?」
「……『助けて』と」
胸の奥が冷たくなった。
「その馬車はどこへ向かった?」
「西の街です」
「西の……」
レオンハルトは地図を見る。
そこには、一つの街の名前が記されていた。
「……この街か」
「はい」
レオンハルトはすぐに決断した。
「アルベルトに伝えろ」
「すでに向かわせております」
「そうか」
少しだけ安心する。
だが、それでも胸騒ぎは消えなかった。
そして夜。
月影館の入口に、一人の男が現れた。
「いらっしゃいませ」
女主人が笑顔で迎える。
「初めてのお客様ですね」
「ああ」
男は偽名を名乗った。
「レオナルドだ」
もちろん本名ではない。
アルベルトは館内を見渡す。
客。
従業員。
階段。
廊下。
そして――
「……」
二階から、誰かが降りてくる。
杖を使いながら、ゆっくりと。
白いドレスを着た女性。
その隣には少女が付き添っている。
「マリー、ここ段差あるよ」
「ありがとう」
アルベルトは何気なく視線を向けた。
女性の顔が一瞬だけ見える。
長い髪。
整った顔立ち。
どこか気品がある。
だが、目は閉じられていた。
「……盲目か」
アルベルトはそう思っただけだった。
その女性――マリアンヌも、男の気配に気づいた。
けれど、特に気に留めなかった。
彼女にとって、客はもう珍しい存在ではない。
「マリー」
ミラが小さな声で言う。
「今日のお客さん、なんだか変じゃない?」
「そう?」
「うん。普通のお客さんと違う気がする」
マリアンヌは少し考える。
「……足音が静か?」
「そう」
「確かに」
二人は知らない。
その男が王宮から来た騎士だということを。
そしてアルベルトも知らない。
目の前を通り過ぎた女性が――
レオンハルトが探している、
マリアンヌ・フォン・ローゼリア本人だということを。
ただ一つ。
アルベルトは、彼女が通り過ぎたあとに残った香りに、妙な既視感を覚えていた。
「……どこかで、嗅いだことがある」
けれど、その記憶が何なのかまでは思い出せなかった。




