第四話 ヒロイン・パメラと友達になる
フィオレッタ・ヴェルナーが開いた茶会から、十日ほどが過ぎた。
王都には春の気配が濃くなり、侯爵家の庭園でも、冬の間じっと蕾を閉じていた花々が少しずつ咲き始めている。
フィオレッタは午後の庭園で、侍女のミレーヌとともに刺繍をしていた。
もっとも、刺繍そのものに集中しているわけではない。
膝の上に広げた布には、まだほとんど模様がない。
フィオレッタの頭の中を占めているのは、先日の茶会で聞いた噂だった。
ヴァレリオ・グランツは、誰かを脅してなどいない。
パメラ・ルースにも何もしていない。
それなのに、「ヴァレリオはパメラを嫌っている」という話だけが、少しずつ広がっている。
さらに、あの茶会で耳にした名前。
ゲームには登場しなかった令嬢。
彼女が、どうしても気になっていた。
「お嬢様」
ミレーヌが刺繍枠から顔を上げた。
「先ほどから、同じところを何度も縫っていらっしゃいますが」
「まあ」
フィオレッタが自分の手元を見る。
確かに、同じ場所に糸が重なっている。
「……考え事をしていたようですわ」
「最近、ずっとそうですね」
「そうかしら?」
「はい。以前は刺繍をしているとき、もっと楽しそうでした」
フィオレッタは苦笑した。
転生する前なら、まさか自分が刺繍をしながら未来の断罪イベントについて考える日が来るなんて、想像もしなかった。
「ミレーヌ」
「はい」
「少し聞いてもよろしい?」
「もちろんです」
「ヴァレリオ様について、最近何か噂を聞いたことはありますか?」
ミレーヌは少し考えた。
「グランツ公爵令息ですか?」
「ええ」
「特には……。ただ、使用人たちの間でも、最近少し妙な話を聞きます」
「どんな?」
「ヴァレリオ様が、学院である令嬢に付きまとわれているという話です」
フィオレッタの手が止まった。
「その令嬢というのは?」
「そこまでは……。ただ、以前お茶会でお嬢様がおっしゃっていた、あの方ではないかと」
「そう」
フィオレッタは刺繍枠を置いた。
やはり同じ話が広がっている。
ただの噂なら、ここまで早く侯爵家の使用人にまで届くはずがない。
「……誰が流しているのでしょうね」
「調べますか?」
「いいえ」
フィオレッタは首を横に振った。
「まだ必要ありませんわ」
「では?」
「まず、パメラ様にもう一度お会いしましょう」
フィオレッタがそう決めた翌日。
ルース男爵家から、侯爵家へ一通の手紙が届いた。
差出人はパメラだった。
そこには、短い文章が綴られていた。
――先日は楽しい時間をありがとうございました。もしご迷惑でなければ、またお話をさせていただけませんでしょうか。
フィオレッタは思わず笑った。
「まあ。こちらから誘おうと思っていたところでしたのに」
さっそく返事を書き、二人だけのお茶会を開くことになった。
今度は大勢の令嬢を呼ばない。
庭園の奥にある小さな温室。
色とりどりの花に囲まれた場所で、二人だけで話すことにした。
「フィオレッタ様、本当にありがとうございます」
席に着いたパメラは、何度も頭を下げた。
「どうしてお礼を?」
「先日の茶会のあと、少し気持ちが楽になったんです」
「そう?」
「はい。ヴァレリオ様の噂を聞いても、すぐに信じないようにしています」
パメラは少し恥ずかしそうに笑った。
「それに、私がヴァレリオ様について何も知らないことにも気づきました」
「それは大切なことですわ」
フィオレッタは紅茶を一口飲んだ。
「人は、知らない相手ほど噂で判断してしまいますもの」
「フィオレッタ様は、ヴァレリオ様を信じていらっしゃるんですね」
「婚約者ですもの」
「それだけですか?」
「……」
思わず言葉に詰まる。
パメラは困ったように笑った。
「すみません。変なことを聞きました」
「いいえ」
フィオレッタは少し考えてから答えた。
「私は、ヴァレリオ様が優しい方だと知っていますわ」
「優しい……?」
「ええ。確かに口は悪いですし、愛想もありませんけれど」
「ふふっ」
「笑わないでくださいませ」
「ごめんなさい。でも、フィオレッタ様がヴァレリオ様のお話をするとき、少し楽しそうなので」
フィオレッタは頬が熱くなるのを感じた。
「そうでしょうか?」
「はい」
「……困りましたわ」
扇を開いて顔を隠す。
パメラが楽しそうに笑った。
その笑い声につられて、フィオレッタも笑う。
その瞬間だった。
温室の外から、何かが落ちる音がした。
ガタン、と鉢植えが倒れたような音。
二人は同時に振り返った。
「何でしょう?」
パメラが立ち上がろうとする。
「お待ちになって」
フィオレッタが手を伸ばした。
「私が確認しますわ」
侍女を呼べばいい。
そう思ったけれど、その前に温室の扉が開いた。
「申し訳ありません、お嬢様!」
庭師の少年が慌てて入ってくる。
「何があったの?」
「鉢植えが一つ倒れまして……」
少年が指差した先には、大きな鉢植えが転がっていた。
フィオレッタは少しだけ眉を寄せる。
鉢植えが倒れただけ。
それなら問題ない。
そう思った。
けれど、パメラがしゃがみ込んだ。
「これ……」
「どうしました?」
「鉢の裏に、紙が挟まっています」
フィオレッタは目を細めた。
紙を取り出して広げる。
そこには、乱れた文字で一言だけ書かれていた。
――ヴァレリオ・グランツに近づくな。
「……」
温室の空気が、一瞬で変わった。
パメラの顔から血の気が引く。
「これ、私に……?」
「そう考えるのが自然でしょうね」
フィオレッタは紙を折りたたんだ。
「ですが、怖がらなくて大丈夫ですわ」
「でも……」
「あなたが何か悪いことをしたわけではありませんもの」
フィオレッタはパメラの手をそっと握った。
「それに、誰かがあなたを利用しようとしているなら、私はそれを放っておきません」
「フィオレッタ様……」
「大丈夫ですわ」
そう言いながらも、フィオレッタの心は冷静だった。
これは明らかにおかしい。
ゲームには、こんな場面はなかった。
そして何より、誰かがパメラとヴァレリオを意図的に近づけようとしている。
いや。
正確には、二人を敵対させようとしている。
「……ゲームと違う」
フィオレッタは小さく呟いた。
「え?」
「いいえ。何でもありません」
フィオレッタは紙を封筒へ入れ、侍女に渡した。
「この紙は燃やさず、保管してください」
「承知しました」
「それから、温室周辺の出入りについて、今日の記録を確認してちょうだい」
「はい」
侍女が動き出す。
フィオレッタはパメラへ向き直った。
「パメラ様」
「はい」
「今日は、このことを誰にも話さないでいただけますか?」
「分かりました」
「そして、もし似たようなことがあれば、必ず私に教えてください」
「はい」
パメラはしばらく迷っていた。
そして、そっとフィオレッタの手を握り返した。
「……ありがとうございます」
「お礼なんて必要ありませんわ」
「でも」
パメラは笑った。
「私、フィオレッタ様と友達になりたいです」
その言葉に、フィオレッタは目を丸くした。
「友達?」
「はい」
パメラは少し恥ずかしそうに頷いた。
「侯爵令嬢の方に、こんなことを言うのは失礼かもしれませんけど……。私、フィオレッタ様と話していると楽しいんです」
フィオレッタは胸の奥が温かくなるのを感じた。
前世のゲームでは、パメラは「ヒロイン」だった。
自分は「名前のない婚約者」。
交わることなどなかった。
けれど今は違う。
「私もですわ」
フィオレッタは笑った。
「私も、パメラ様とお話するのが楽しいです」
「では……」
「ええ」
フィオレッタは頷いた。
「友達になりましょう」
二人は顔を見合わせて笑った。
その日の夕方。
フィオレッタは父の執務室へ向かった。
「お父様」
「どうした?」
「少しお願いがありますの」
「何だ?」
「ルース男爵家について、少し調べていただけませんか?」
父の眉が上がる。
「パメラ嬢の家か?」
「はい」
「何かあったのか?」
「今のところ、大きな問題はありませんわ」
「今のところ?」
フィオレッタは一瞬迷った。
けれど、すべてを話すことはできない。
「パメラ様の周囲で、少し妙な噂があるのです」
「具体的には?」
「ヴァレリオ様との関係についてです」
父はしばらく黙っていた。
やがて、静かに頷く。
「分かった。調べておこう」
「ありがとうございます」
「ただし、フィオレッタ」
「はい」
「お前が何か危険なことに首を突っ込んでいるのなら、必ず私に話しなさい」
フィオレッタは父の顔を見た。
その眼差しには、侯爵としての厳しさだけではなく、娘を心配する父親の優しさがあった。
「……はい」
フィオレッタは小さく笑った。
「ありがとうございます、お父様」
その夜。
フィオレッタは自室で、今日起きたことを一つずつ整理していた。
階段への細工。
ヴァレリオへの噂。
パメラへの警告。
そして、ゲームには存在しない出来事。
これまでフィオレッタは、未来を知っていることが最大の武器だと思っていた。
けれど、違う。
未来を知っているからこそ、知らないことが増えている。
ゲームには描かれなかった出来事。
ゲームには登場しなかった人物。
そして、ゲームには存在しなかった感情。
「……私が知っている物語は、全部ではないのですね」
フィオレッタは窓の外を見た。
月明かりに照らされた庭園は静かだった。
その静けさの中で、フィオレッタは一つの決断をする。
もう、ゲームのシナリオをなぞるだけでは駄目だ。
自分でこの世界を見なければならない。
そして、誰かがヴァレリオとパメラを利用しようとしているのなら、その企みを見つけ出す。
もちろん、走り回るつもりはない。
侯爵令嬢として、できることはたくさんある。
人に話を聞く。
信頼できる人を増やす。
記録を残す。
情報を繋ぐ。
そして、必要ならば家の力も借りる。
「優雅に、ですわ」
フィオレッタは小さく笑った。
その翌朝。
王都の別邸では、ヴァレリオ・グランツが一通の報告書を読んでいた。
「……パメラ・ルース?」
そこには、ルース男爵家の令嬢が最近フィオレッタと親しくしていることが記されていた。
ヴァレリオは眉を寄せる。
そして、その紙の端に書かれていた一文を見つけた。
『ヴェルナー侯爵令嬢は、パメラ・ルース嬢を庇っている様子』
「……フィオレッタ」
ヴァレリオは椅子へ深く腰掛けた。
自分の婚約者が何を考えているのか。
ますます分からなくなってきた。
ただ、一つだけ分かることがある。
彼女は自分が知らない何かを知っている。
そして、その「何か」が、どうやら自分とパメラに関係しているらしい。
「……僕にも話してくれればいいのに」
そう呟いたヴァレリオの表情は、どこか寂しそうだった。
その頃フィオレッタは、次のお茶会の日程を侍女と相談していた。
もちろん、学園を走るためではない。
未来を変えるための、次の一手を打つために。
そして、その一手がやがて王太子テオヴァルトを巻き込み、四人の運命を大きく変えていくことを、まだ誰も知らなかった。




