第三話 悪役令息の婚約者、茶会を開く
西棟の階段に仕掛けられていた細工が見つかってから、数日が過ぎた。
幸いなことに、学園側は大きな騒ぎにはしなかった。まだ入学前の生徒を巻き込むような事件ではなく、手すりの不具合として処理されたからだ。
けれど、フィオレッタは知っている。
あれは偶然ではない。
誰かが、意図的に仕掛けた。
そして、ゲームの中ではその階段からパメラが転落する。
つまり、最初の断罪フラグは、すでに動き始めている。
「……では、次ですわね」
朝食を終えたフィオレッタは、自室の机に広げていた紙を一枚めくった。
そこには、前世で覚えているゲームのイベントが書き出されている。
もちろん、ゲームの攻略情報を完全に覚えているわけではない。
何周もしたとはいえ、数年前のことだ。
細かな台詞や選択肢までは曖昧になっている。
けれど、大きな流れは覚えている。
そして次に起きるのは――。
「ヴァレリオ様による、令嬢への嫌がらせ事件」
フィオレッタはため息をついた。
ゲームでは、ヴァレリオが学園内である令嬢を呼び止め、周囲の令嬢たちが見ている前で厳しく叱責する。
その理由は「自分に近づくな」というもの。
その一件がきっかけとなり、ヴァレリオはますます「冷酷な悪役令息」という印象を持たれるようになる。
ところが、今になって思えば不思議だった。
「どうして、そんなことをする必要がありますの?」
ヴァレリオは確かに愛想がない。
けれど、無意味に他人を傷つけるような人物ではない。
フィオレッタが知っている彼は、むしろ面倒事を避けるタイプだ。
そんな彼が、わざわざ人目のある場所で令嬢を叱責する。
どう考えても不自然だった。
「つまり、これも誰かに仕組まれた可能性がありますわね」
フィオレッタはペンを置いた。
ただ、今回は階段事件とは少し違う。
前回は設備を修理すれば防げた。
けれど今回は、人間同士の噂が絡む。
誰が嘘をついているのか。
誰が噂を流したのか。
それを突き止めるには、学園内の人間関係を知る必要がある。
しかし、フィオレッタはまだ学園へ入学していない。
「……さて、どうしましょう」
考え込んでいたフィオレッタのもとへ、侍女のミレーヌがやってきた。
「お嬢様、お父上がお呼びです」
「お父様が?」
「はい。応接室へ来るようにとのことです」
フィオレッタは立ち上がった。
まさか、階段の件について何か分かったのだろうか。
そんな期待を胸に応接室へ向かうと、そこには父と母が揃っていた。
さらに――。
「あら」
ソファには、見覚えのある少女が座っていた。
淡い栗色の髪。
柔らかな茶色の瞳。
年齢はフィオレッタとほとんど変わらない。
けれど、その少女を見た瞬間、フィオレッタの心臓が大きく跳ねた。
「フィオレッタ、こちらへ」
母に呼ばれ、フィオレッタは席へ向かう。
「今日、お前に紹介したい方がいる」
父がそう言った。
「こちらはルース男爵家のご令嬢、パメラ嬢だ」
「パメラ・ルースと申します」
少女は緊張した様子で立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、来てくださって嬉しいですわ」
フィオレッタは笑顔を返した。
けれど心の中では、別のことを考えていた。
パメラ・ルース。
ゲームのヒロイン。
自分が何度も画面越しに見てきた少女。
そして――。
ヴァレリオを悪役令息へと追い込んでいく、物語の中心人物。
「……まさか」
フィオレッタは、ほんの少しだけ視線を落とした。
ゲーム開始まで、まだ時間がある。
パメラが学園へ入学するのも、もっと先だったはず。
それなのに、もう出会ってしまった。
これが何を意味するのか。
フィオレッタには分からない。
「フィオレッタ?」
「はい?」
「どうしたの?」
パメラが心配そうにこちらを見ていた。
「いえ、少し考え事をしていただけですわ」
「そう?」
「ええ」
フィオレッタは微笑んだ。
それから、パメラの前に置かれている紅茶へ目を向ける。
「お茶はお好きですか?」
「はい。母が好きなので、よく一緒に飲みます」
「まあ。では、こちらの焼き菓子も召し上がってくださいな。今日届いたばかりなのです」
「ありがとうございます」
パメラが嬉しそうに笑う。
その笑顔を見た瞬間、フィオレッタは少しだけ肩の力が抜けた。
ゲームの中では、ヒロインという「役割」しか見ていなかった。
けれど実際に会ってみれば、ただの一人の少女だ。
緊張しながら侯爵家へ来て、出されたお菓子を嬉しそうに見つめている。
悪役令息を破滅させるために生きているような人物には、とても見えなかった。
「フィオレッタ」
母が穏やかに声をかける。
「パメラ嬢は今年から王都の学院へ通うことになるでしょう?」
「はい」
「あなたも同じ学院へ通う予定なのだから、仲良くしてあげてちょうだい」
「もちろんですわ」
フィオレッタは笑った。
そして、その瞬間に思いつく。
そうだ。
これならいい。
自分がパメラと仲良くしていれば、彼女の周囲で何が起きているのかを自然に知ることができる。
しかも、わざわざ怪しい調査をする必要がない。
友人として話を聞けばいい。
「パメラ様」
「はい?」
「もしよろしければ、今度また我が家へいらしてくださいな」
「えっ?」
「お茶を飲みながら、学院のお話を聞かせていただきたいのです」
パメラは目を丸くした。
どうやら侯爵令嬢から直接誘われるとは思っていなかったらしい。
「私でよろしいのでしょうか?」
「もちろんですわ」
「でも……」
パメラが少し迷う。
フィオレッタは、その理由を察した。
男爵家の令嬢が侯爵家の令嬢と親しくする。
身分差を気にしているのだ。
「パメラ様」
「はい」
「お茶会に身分は必要ありませんわ」
フィオレッタは穏やかに笑った。
「美味しいお菓子と、楽しいお話があれば十分ですもの」
パメラの表情がふっと明るくなる。
「……はい!」
その返事を聞いたとき、フィオレッタは確信した。
この子を守ろう。
パメラも、ヴァレリオも。
誰かが二人を利用して未来を作ろうとしているなら、その未来ごと変えてしまえばいい。
それから数日後。
フィオレッタは、本当に小さな茶会を開いた。
参加者は数人だけ。
パメラと、学院へ進む予定の令嬢が三人。
もちろん、ヴァレリオは呼んでいない。
今回の目的は、男の話をすることではない。
女同士の会話を聞くことだ。
庭園の東屋には、春の風が吹いていた。
「この学院のお菓子、すごく美味しいんですよ」
令嬢の一人が楽しそうに話している。
「特に昼休みの時間に出る焼き菓子が人気ですわ」
「まあ、楽しみです」
パメラも笑う。
フィオレッタは紅茶を飲みながら、会話を聞いていた。
特に口を挟まない。
誰かが何を好きなのか。
誰と仲がいいのか。
学院でどんな噂があるのか。
何気ない会話の中に、情報はたくさん転がっている。
「そういえば、最近グランツ公爵家のヴァレリオ様が、ある令嬢をかなり警戒しているという噂を聞きましたわ」
その言葉に、フィオレッタの指が止まった。
「まあ?」
「誰のことですの?」
「名前までは知りませんけれど、何でもヴァレリオ様の周囲をしつこくうろついているとか」
フィオレッタは笑顔を崩さなかった。
だが、心の中では鐘が鳴っている。
――ゲームには、こんな噂はなかった。
「それは、どこから聞いた話なのかしら?」
「従姉から聞きましたの。学院に通っている方ですわ」
「そう……」
フィオレッタは静かに紅茶を口へ運んだ。
ヴァレリオが誰かを警戒している。
それ自体はあり得る。
けれど、「しつこくうろついている令嬢」という話が、すでに広まっている。
そしてゲームでは、この後にヴァレリオが令嬢を人前で叱責する事件が起きる。
もし、その「しつこくうろつく令嬢」が、ゲームでヴァレリオに嫌がらせされたと証言する令嬢なのだとしたら――。
「……少し早すぎますわね」
「何かおっしゃいました?」
「いいえ。こちらのお菓子、美味しいと思いませんこと?」
フィオレッタは笑顔で話題を変えた。
茶会が終わったあと、パメラが帰るため馬車へ向かう。
フィオレッタは玄関まで見送った。
「今日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ楽しかったですわ」
「侯爵令嬢って、もっと怖い方なのかと思っていました」
「まあ」
フィオレッタは思わず笑った。
「それは随分な誤解ですわね」
「すみません!」
「謝らなくていいのですよ」
二人で笑う。
そのとき、パメラがふと真面目な顔になった。
「フィオレッタ様」
「はい?」
「実は、私も一つ気になっていることがあるんです」
「何かしら?」
パメラは少し迷ったあと、声を落とした。
「ヴァレリオ様のことです」
フィオレッタの笑顔が、一瞬だけ固まった。
「……ヴァレリオ様が、どうかしましたの?」
「私、直接お話したことはないんです。でも……」
パメラは困ったように眉を寄せた。
「最近、私の周りで、ヴァレリオ様の悪い噂をよく聞くんです」
「どんな噂ですの?」
「私を嫌っているとか。私を学院から追い出そうとしているとか……」
フィオレッタは黙って聞いていた。
「でも、変なんです」
「何が?」
「ヴァレリオ様に何かされた覚えが、私にはないんです」
フィオレッタは息を呑んだ。
「……一度も?」
「はい」
パメラは首を横に振った。
「だから、どうしてそんな噂が広がっているのか分からなくて」
フィオレッタは、ゆっくりと微笑んだ。
やっぱり。
おかしい。
ゲームでは、パメラはヴァレリオを恐れていた。
けれど現実のパメラは、彼を知らない。
それなのに、周囲だけが「ヴァレリオはパメラを嫌っている」と言っている。
「パメラ様」
「はい」
「一つだけ、お願いがありますの」
「何でしょう?」
「もし今後、ヴァレリオ様について何か言われても、すぐに信じないでくださいませ」
パメラは少し驚いた。
「どうしてですか?」
「まだ何も起きていないからですわ」
フィオレッタは穏やかに答えた。
「実際にご本人から何かをされたわけでもないのでしょう?」
「はい」
「でしたら、誰かの噂より、ご自分の目で見たものを信じればいいのです」
パメラはしばらくフィオレッタを見つめた。
そして、ゆっくり頷いた。
「……分かりました」
馬車が走り去る。
フィオレッタはその姿を見送りながら、胸の奥で決意を固めた。
階段の細工。
ヴァレリオの悪い噂。
パメラの周囲で広がる根拠のない話。
そして、ゲームには存在しなかった出来事。
「誰かが、動いている」
フィオレッタは庭園へ戻った。
すると、そこには見覚えのある人物が立っていた。
「ヴァレリオ様?」
「やはりここにいたか」
「まあ。どうなさいましたの?」
「君に聞きたいことがある」
ヴァレリオはフィオレッタへ歩み寄った。
その表情はいつになく険しい。
「最近、僕について妙な噂が流れている」
「……ええ」
「君も聞いたか?」
「少しだけ」
「なら、話が早い」
ヴァレリオは低い声で続けた。
「僕は、誰も脅していない。誰かを追い払おうともしていない。それなのに、まるで僕が学院中の令嬢を怯えさせているような話になっている」
「でしょうね」
「でしょうね?」
「……いえ」
フィオレッタは扇で口元を隠した。
どうやら、ゲーム開始よりもずっと前から、何かが始まっている。
「ヴァレリオ様」
「何だ?」
「しばらくの間、何か気になることがあっても、私に教えてくださいませんか?」
「君に?」
「ええ」
「なぜ?」
「婚約者ですもの」
フィオレッタは微笑んだ。
「それに、私は噂話が好きですの」
「……絶対に別の理由だろう」
「まあ、失礼ですわ」
ヴァレリオは呆れたように息を吐いた。
けれど、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
その日から、フィオレッタは本格的に動き始めた。
もちろん、走ったりはしない。
まずは人の話を聞く。
噂の出所を探る。
誰が最初にその話をしたのか。
どこから広まったのか。
そして、ヴァレリオが本当に何かをしたのか。
その一つ一つを、丁寧に確かめる。
侯爵令嬢の武器は、剣でも魔法でもない。
人脈と信用と、少しばかりの頭脳。
そして――。
「お茶会というのは、便利なものですわね」
フィオレッタは紅茶を飲みながら、手元の小さなメモへ視線を落とした。
そこには、今日の茶会で聞いた名前がいくつか記されている。
その中の一つに、フィオレッタは赤い線を引いた。
「この方……どこかで聞いた覚えがありますわ」
前世のゲームには出てこなかった名前。
それなのに、妙に引っかかる。
フィオレッタはしばらく考えたあと、メモを閉じた。
まだ、証拠はない。
だからこそ、焦ってはいけない。
未来を変えるなら、一つずつ。
静かに。
優雅に。
誰にも気づかれないように。
――そのつもりだった。
けれど、フィオレッタが知らないところで、すでに誰かが彼女の名前を口にしていた。
「ヴァルナー侯爵令嬢が、グランツ公爵令息の周囲を嗅ぎ回っている?」
薄暗い部屋の中で、誰かがそう呟く。
「……面倒な娘だ」
ゲームには存在しなかったはずの人物が、静かに動き始めていた。




