第二話 最初の断罪フラグは、階段から
ヴァレリオ・グランツと婚約者として向き合った翌朝、フィオレッタ・ヴェルナーは自室の机に向かっていた。
窓の外には、朝靄の残る庭園が広がっている。夜の間に降った露が薔薇の葉を濡らし、朝日を受けた雫が小さな宝石のように輝いていた。
侯爵令嬢の朝は早い。
身支度を整え、朝食を済ませ、家庭教師からの課題を確認し、その日の予定を侍女と相談する。それだけなら前世のフィオレッタが想像していた貴族令嬢の生活と大きく変わらない。
ただし、今朝のフィオレッタには、それらとは別にどうしても確認しなければならないことがあった。
机の上に置かれているのは、一枚の紙だった。
そこには、前世で遊んでいた乙女ゲームの記憶をもとに、フィオレッタが書き出した出来事が並んでいる。
ゲームの開始時期。
ヒロインであるパメラ・ルースが学園へ入学する時期。
攻略対象たちとの出会い。
そして――。
ヴァレリオが最初に「悪役令息」として認識される事件。
「……入学してから、二週間目」
フィオレッタは指先で紙をなぞった。
ゲームの序盤で起きる、パメラの階段転落事件。
学園の西棟へ続く階段。
昼休みの終わり頃。
人の往来が増える時間帯。
パメラが階段を下りている途中、突然足を滑らせて転落する。
幸い命に別状はない。
けれど、目撃者の一人が「ヴァレリオが階段の上にいた」と証言する。
そこから、すべてが始まる。
パメラはヴァレリオを恐れるようになり、攻略対象たちは彼女を庇うようになる。
そしてヴァレリオは、自分が疑われていることに腹を立て、さらに態度を硬化させる。
結果として、彼の評判はますます悪くなる。
「最初の一歩……ですわね」
フィオレッタは小さく息を吐いた。
ゲームのシナリオでは、ここでヴァレリオがパメラを突き落としたことになっている。
けれど、実際にヴァレリオがそんなことをするとは思えない。
昨日、庭園で話した彼の姿を思い出す。
ぶっきらぼうで、口数も少ない。
けれど、人の話をきちんと聞いている。
フィオレッタが紅茶をこぼしそうになったときには、何も言わずにテーブルクロスを押さえてくれた。
帰り際には、庭の石畳が濡れているから足元に気をつけろ、と声をかけてくれた。
そんな人が、何の理由もなく少女を階段から突き落とすだろうか。
「いいえ。ありえませんわ」
フィオレッタはペンを取った。
ならば、事件そのものを起こさせなければいい。
いや。
それだけでは駄目だ。
もし事件が起こらなかったとしても、別の形でヴァレリオに罪を着せようとする人物がいるのなら、また同じことになる。
「だったら、原因から潰しましょう」
フィオレッタは紙に新しい文字を書き加えた。
西棟の階段。
そこまで書いて、ふとペンが止まる。
「……そういえば」
ゲームの中では、階段が古いという描写はなかった。
けれど、パメラが転落したとき、彼女は「突然、足元が揺れた」と言っていた。
当時はゲーム上の演出だと思っていた。
しかし、今になって考えてみればおかしい。
普通の階段で、何の前触れもなく足元が揺れるだろうか。
「確認しなくては」
フィオレッタは椅子から立ち上がった。
そして、部屋の扉へ向かいかけて――止まった。
侍女のミレーヌが、こちらを見ている。
「お嬢様?」
「……何でもありませんわ」
「西棟へ行かれるおつもりでは?」
「まあ、どうして分かったのかしら?」
「お嬢様がその紙を三回も読み返していらっしゃいましたので」
フィオレッタは少しだけ目を細めた。
「ミレーヌ」
「はい」
「侯爵令嬢が学園の廊下を走ったら、どう思います?」
ミレーヌは真面目な顔で考えた。
「お嬢様らしくないかと」
「そうですわね」
「ですが、急いでいる理由があるのでしたら――」
「駄目ですわ」
フィオレッタはきっぱりと言った。
「侯爵令嬢が走るなんて、はしたないでしょう?」
「……そこなのですね」
ミレーヌが小さく笑った。
フィオレッタも笑い返した。
「ええ。ですから、走らずに済む方法を考えます」
それから三十分後。
フィオレッタは父親であるヴェルナー侯爵の執務室を訪れていた。
「学園の西棟について、少しお聞きしたいことがございます」
「西棟?」
書類に目を通していた父が顔を上げた。
「ええ。以前、修繕が入ったと聞いたことがありましたの」
「確かに、昨年の冬に一度、階段の手すりを修理したはずだ」
「手すりを?」
「そうだ。大きな問題ではなかったが、老朽化していたらしい」
フィオレッタは内心で息を呑んだ。
ゲームの中では、そんな設定はなかった。
けれど、現実のこの世界では、西棟の階段には修繕歴がある。
「現在は問題ないのでしょうか?」
「学園からは問題ないと報告を受けているが……」
父は少し考えた。
「気になるのか?」
「はい。少しだけ」
「ならば、確認しておこう」
フィオレッタは目を瞬いた。
「よろしいのですか?」
「娘が気にしていることを放っておくほど、私は薄情ではないつもりだ」
「お父様……」
「ただし、何か危険があると分かったとしても、フィオレッタが自分で見に行く必要はない」
父は少し厳しい顔をした。
「分かりましたか?」
「はい」
「学園は侯爵家の庭ではない。何かあれば教師に知らせればいい」
「承知しましたわ」
フィオレッタは素直に頷いた。
そして心の中で、そっと拳を握る。
第一段階、成功。
これなら自然だ。
侯爵令嬢が学園の設備について直接調査するのは不自然でも、侯爵家から学園へ問い合わせるだけなら何の問題もない。
あとは――。
フィオレッタは父の執務室を出た。
その日の午後。
侯爵家から学園へ正式な問い合わせが入った。
西棟階段の安全確認を求める内容だった。
数日後、学園から返ってきた報告書には、意外な事実が記されていた。
階段そのものには問題がなかった。
ただし、手すりの固定部分にわずかな緩みが見つかったという。
「……やっぱり」
フィオレッタは報告書を読みながら呟いた。
しかも、その緩みは自然に生じたものではないらしい。
工具で触れたような跡が残っていた。
「誰かが、細工した?」
背筋に冷たいものが走った。
ゲームの中では、この事件は単純だった。
ヴァレリオがパメラを突き落とした。
だから断罪される。
けれど現実は違う。
誰かが階段に細工をしていた。
それも、パメラが落ちるように。
「では、ヴァレリオ様は……」
フィオレッタは唇を結んだ。
彼は犯人ではない。
それどころか――。
「最初から、誰かに嵌められていた?」
その可能性に気づいた瞬間、フィオレッタの中で、これまでぼんやりしていたゲームの記憶が一つにつながった。
階段事件の直後。
ヴァレリオはパメラに近づいたとされていた。
ゲーム画面では、彼が「余計なことをするな」と冷たく言い放っている。
だが、その前後に何があったかは描かれていなかった。
「……そういうことですの?」
フィオレッタは報告書を握りしめた。
ヴァレリオがパメラを突き落としたのではない。
誰かがパメラを狙い、その現場にヴァレリオが居合わせるよう仕組んだ。
もしそうなら、ゲームの「悪役令息」という役割は、最初から誰かに作られていたことになる。
それでも、まだ確証はない。
フィオレッタは報告書を封筒へ戻した。
「焦ってはいけませんわ」
まだ事件は起きていない。
パメラも学園へ入学していない。
そして、ヴァレリオも何も知らない。
今なら間に合う。
そう思った。
ところが、その日の夕方。
フィオレッタが庭園で読書をしていると、使用人が一通の封筒を持ってきた。
「お嬢様、グランツ公爵家からございます」
「まあ」
封蝋には、グランツ公爵家の紋章。
フィオレッタは封を切った。
中には短い手紙が入っている。
差出人はヴァレリオだった。
『明日の午後、少し時間をもらえないだろうか。話したいことがある』
「……話したいこと?」
フィオレッタは首を傾げた。
その翌日。
指定された場所へ行くと、ヴァレリオはすでに待っていた。
学園ではなく、王都の公園にある小さな噴水の前。
人目もあるが、貴族同士が話していても不自然ではない場所だった。
「突然呼び出して悪かった」
「構いませんわ。それで、お話というのは?」
ヴァレリオはしばらく黙っていた。
そして、少し困ったように視線を逸らす。
「昨日、父から聞いた」
「何をですの?」
「君の家から学園へ、西棟の階段について問い合わせがあったことを」
フィオレッタは一瞬だけ固まった。
グランツ公爵家にも伝わっていたらしい。
「……ええ」
「何か気になることがあるのか?」
「少し、学園の設備が心配になっただけですわ」
「それだけ?」
「それだけですわ」
ヴァレリオがじっとフィオレッタを見る。
その視線には、疑っているというより、確かめようとしている色があった。
「フィオレッタ」
「はい」
「君は、僕に何か隠していないか?」
心臓が跳ねた。
フィオレッタは扇を開き、口元を隠した。
「まあ。どうしてそのようなことを?」
「昨日から様子がおかしい」
「いつも通りですわ」
「いや」
ヴァレリオは首を横に振った。
「君は何かを決めたときだけ、妙に静かになる」
「……」
「それに、僕のことをいつもよりよく見ている」
フィオレッタは返事に困った。
昨日からずっと考えていた。
この人を救わなければならない。
そう思っている。
けれど、未来の話をするわけにはいかない。
転生したことを告げるわけにもいかない。
だったら――。
「婚約者ですもの」
フィオレッタは微笑んだ。
「あなたのことを気にするのは、当然ではありませんか?」
ヴァレリオは黙った。
やがて、ほんの少しだけ頬を緩める。
「……そういうことにしておく」
「ええ。それでお願いしますわ」
そこで話は終わるはずだった。
けれど、ヴァレリオは帰ろうとするフィオレッタへ声をかけた。
「フィオレッタ」
「はい?」
「ありがとう」
「……何がですの?」
「分からない。でも、何となく」
そう言って、ヴァレリオは歩き出した。
フィオレッタはその背中を見送りながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
ゲームでは、彼はいつも一人だった。
誰も彼の言葉を信じない。
誰も彼の弁明を聞こうとしない。
だから、彼は次第に心を閉ざしていく。
けれど今は違う。
少なくとも、自分がいる。
「……絶対に、断罪なんてさせませんわ」
フィオレッタは小さく呟いた。
その頃、フィオレッタが調べている西棟の階段では、修繕作業が始まっていた。
職人が手すりを取り外す。
固定金具を確認する。
そして――。
「旦那様」
学園の管理責任者へ、職人が一つの部品を差し出した。
「これは、自然に緩んだものではありません」
「何?」
「細工された跡があります」
管理責任者の顔が強張る。
「誰が、何のために……」
誰にも、その答えは分からなかった。
ただ一つ確かなことがある。
まだ誰も知らない場所で、未来の断罪劇を支える最初の糸が、静かに切れた。
そしてフィオレッタは、そのことすら知らないまま、次の一手を考えていた。
彼女はまだ気づいていない。
ゲームのシナリオでは「最初の事件」とされていたこの出来事が、実は――。
もっと大きな何かの始まりだったことを。




