第一話 私の婚約者は、将来悪役令息になる
目を覚ました瞬間、フィオレッタ・ヴェルナーは、自分がとんでもない場所にいることを思い出した。
白いレースの天蓋がかかった大きな寝台。朝の光を柔らかく取り込む、淡い青色のカーテン。磨き上げられた木製の家具に、銀細工の鏡台。その上には、見覚えのない香水瓶と髪飾りが几帳面に並べられている。
どこを見ても、前世の自分が暮らしていた六畳ほどの部屋とは似ても似つかない。
けれど、そんなことは今さら問題ではなかった。
「……そうだった」
フィオレッタは、ふかふかの枕へ顔を埋めた。
昨夜、というよりも前世の最後の日。
彼女はいつも通り仕事を終えて帰宅し、夕食を済ませたあと、寝る前にお気に入りだった乙女ゲームを少しだけ遊んでいた。
何度も周回したゲームだった。
美しい王太子や騎士、魔術師たちとの恋愛を楽しむ、いわゆる王道の学園恋愛ゲーム。その中でも、彼女が特に気に入っていたのが、王太子テオヴァルトのルートだった。
攻略対象との恋愛だけではなく、個別ルートによって事件の真相が変わるのも面白かった。
ただし、どのルートにも共通して登場する人物が一人いる。
公爵令息、ヴァレリオ・グランツ。
主人公パメラ・ルースの恋路を邪魔し、陰湿な嫌がらせを繰り返し、攻略対象たちを妨害し、最後にはすべての悪事を暴かれて断罪される。
典型的な悪役令息だった。
そして彼には、ゲーム開始時点ですでに婚約者がいる。
ヴェルナー侯爵家の令嬢。
ただし、名前は設定されていない。
立ち絵もない。
会話もない。
ただ一度だけ、ゲームの序盤でヴァレリオの婚約者として説明文に登場する。
――ヴァレリオ・グランツ公爵令息には、ヴェルナー侯爵家の令嬢との婚約が決まっている。
それだけ。
プレイヤーからすれば、完全なモブだった。
フィオレッタは、その文章を思い出して、ゆっくりと顔を上げた。
「……まさか」
鏡台へ駆け寄る。
そこに映っていたのは、見たことのない少女だった。
淡い金色の髪。大きな青灰色の瞳。まだ少女らしさの残る顔立ちなのに、どこか気品がある。
そして、昨日までの自分とは明らかに違う。
「フィオレッタ……」
鏡の中の少女を見つめながら、名前が自然と口からこぼれた。
「フィオレッタ・ヴェルナー」
それが今の自分の名前だった。
侯爵令嬢。
そして、悪役令息になる男の婚約者。
「……嘘でしょう」
フィオレッタは額を押さえた。
転生したこと自体には、もう驚くしかない。
けれど問題は、そこではなかった。
「よりによって、そこですの?」
ゲームの世界に転生する話なら、主人公やヒロイン、あるいは攻略対象になることを期待してもいい。
少なくとも、自分が物語の中心に関わる立場なら、まだ分かる。
ところが自分は違う。
ゲーム本編に名前すら出てこない。
攻略対象でもない。
ヒロインでもない。
重要人物ですらない。
ただの「悪役令息の婚約者」。
しかも、その悪役令息は――。
「卒業パーティーで断罪される……」
フィオレッタの顔から血の気が引いた。
ゲームの終盤。
攻略対象との恋が実り、主人公パメラが卒業を迎える頃。
華やかな卒業記念パーティーの会場で、王太子テオヴァルトが立ち上がる。
そして、大勢の貴族たちが見守る中、ヴァレリオ・グランツの罪を告発する。
パメラへの嫌がらせ。
他の令嬢への脅迫。
学園内での権力乱用。
さらには王家への反逆につながる証拠まで提示される。
ヴァレリオは反論するものの、証拠はすべて揃っている。
最後には婚約者である侯爵令嬢との婚約も破棄され、公爵家は大きな打撃を受ける。
ヴァレリオ自身は領地へ送られるか、場合によっては国外追放。
それがゲームにおける彼の結末だった。
「……待って」
フィオレッタは鏡の前で、ふと眉を寄せた。
何かがおかしい。
ゲームを何度も遊んだ彼女だからこそ分かる。
ヴァレリオは、確かに嫌な奴として描かれていた。
けれど――。
「本当に、あの人が全部やったのかしら?」
思えば不思議だった。
ヴァレリオがパメラを階段から突き落としたという事件。
証拠はあった。
ヴァレリオがパメラを侮辱したという証言もあった。
学園内で令嬢たちを脅したという噂もあった。
だが、ゲームを遊んでいた当時のフィオレッタは、それを深く考えたことがなかった。
なぜなら、物語としては「悪役令息がヒロインを虐める」という分かりやすい構図になっていたからだ。
攻略対象たちが主人公を守り、悪役令息が追い詰められる。
それだけの話だと思っていた。
しかし今、自分がその世界にいる。
しかも、ヴァレリオの婚約者として。
「……一度、本人を見てみないと分かりませんわね」
フィオレッタはそう呟いた。
ちょうどそのとき、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか?」
「ええ。入ってちょうだい」
扉が開き、侍女が二人入ってくる。
彼女たちは手際よく朝の支度を整え始めた。
フィオレッタは鏡の前に座り、髪を梳かされながら、今後について考えていた。
ゲーム開始まで、まだ時間がある。
ヴァレリオが断罪される卒業パーティーまでは、数年。
つまり――。
「時間は、ありますわね」
「はい?」
侍女が不思議そうに首を傾げた。
「何でもありませんわ」
フィオレッタは微笑んだ。
数年ある。
それなら、どうにかできるかもしれない。
ゲームのストーリーを知っている。
事件が起きる時期も分かる。
誰がどんな場面で関わってくるのかも、おおよそ覚えている。
ならば、断罪される未来を回避すればいい。
問題は、その方法だ。
「……学園中を走り回って証拠を集めるのは、無理ですわね」
侯爵令嬢が廊下を走る。
想像しただけで頭が痛くなる。
そんなことをすれば、ヴァルナー侯爵家の教育方針まで疑われてしまう。
それに、社交界での信用は侯爵令嬢にとって重要な武器だ。
無闇に動けば、かえって怪しまれる。
だったら――。
「走らなければいいのですわ」
侍女が髪を結いながら、また首を傾げた。
「お嬢様?」
「何でもありません」
フィオレッタは鏡の中の自分へ微笑みかけた。
証拠を集める。
事件を防ぐ。
関係者を味方につける。
そして、そもそもヴァレリオが罪を着せられる状況を作らなければいい。
「……根回しですわ」
それなら侯爵令嬢らしい。
お茶会を開いてもいい。
手紙を書いてもいい。
父の人脈を借りてもいい。
教師や他家の令嬢たちと交流してもいい。
誰か一人に不自然なほど近づく必要もない。
少しずつ。
目立たないように。
それでも確実に。
未来を変える。
「ふふっ」
フィオレッタは、少しだけ楽しくなってきた。
そう考えているうちに朝食の時間になり、フィオレッタは両親と食卓を囲んだ。
侯爵家の朝食は静かだった。
焼きたてのパンに、温かなスープ。季節の野菜と果物が並び、窓の外では庭師が花壇の手入れをしている。
前世の生活とはあまりにも違う。
けれど、父も母も、フィオレッタにとっては初めて見る人だった。
父親であるヴェルナー侯爵は新聞代わりの王都報を畳み、娘へ目を向ける。
「フィオレッタ。今日は午後からグランツ公爵家との茶会だったな」
「はい、お父様」
「ヴァレリオ殿も来るそうだ」
「まあ」
フィオレッタの手が止まった。
母親が小さく笑う。
「あなた、嬉しそうね」
「そ、そう見えますか?」
「ええ。昔からあの子の話になると、少しだけ表情が柔らかくなるもの」
フィオレッタは返事に困った。
前世の記憶が戻る前から、この身体の中にはフィオレッタとしての記憶がある。
ヴァレリオとは幼い頃から婚約者として交流してきた。
だからこそ分かる。
彼は少なくとも、自分が知っているゲームの悪役令息とは違う。
フィオレッタが幼い頃に体調を崩したとき、薬草を届けてくれた。
社交界で緊張していた彼女に、誰にも気づかれないよう話題を振ってくれたこともある。
誕生日には、派手な宝石ではなく、彼女が以前「綺麗」と言っていた花を贈ってきた。
その記憶は、この身体にちゃんと残っている。
「……お父様」
「何だ?」
「ヴァレリオ様は、その……評判があまり良くありませんか?」
父は少し考えた。
「確かに、口数は少ない。愛想もいいとは言えないな。だが、グランツ公爵から聞く限り、領地経営の勉強にも熱心だそうだ」
「そうですか」
「何か気になることでもあるのか?」
「いいえ。ただ……」
フィオレッタはスプーンを置き、静かに笑った。
「婚約者のことを、もう少し知っておきたいと思っただけですわ」
父は満足そうに頷いた。
「それは良いことだ。婚約者なのだから、これからも長い付き合いになる」
フィオレッタは胸の内でそっと答えた。
――そうですわね。
できれば、その長い付き合いを最後まで続けたい。
断罪なんて、させない。
その日の午後。
ヴァルナー侯爵家の庭園には、柔らかな風が吹いていた。
白い薔薇の咲く東屋で、フィオレッタは婚約者を待っていた。
しばらくして、庭園の向こうから一人の少年が歩いてくる。
黒に近い濃紺の髪。
涼しげな灰青色の瞳。
年齢の割に落ち着いた雰囲気を持つ少年だった。
公爵令息、ヴァレリオ・グランツ。
ゲームの中では、ヒロインを虐げる悪役令息。
そして――。
今のフィオレッタにとっては、大切な婚約者。
ヴァレリオは東屋まで来ると、丁寧に一礼した。
「待たせたか?」
「いいえ。今来たところですわ」
「そうか」
短い会話。
けれど、フィオレッタは彼の顔をじっと見つめていた。
ゲーム画面の向こう側から見ていた彼と、実際に目の前にいる彼は違う。
当たり前のことなのに、妙に胸へ響いた。
「……何だ?」
「え?」
「さっきから、ずっと僕を見ている」
「まあ……」
フィオレッタは慌てて扇を開いた。
「失礼いたしました。少し考え事をしていただけですわ」
「僕の顔を見ながら?」
「……そうなりますわね」
ヴァレリオの眉がわずかに上がる。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「変な婚約者だな」
「それはお互い様ですわ」
思わずそう返すと、ヴァレリオが目を瞬いた。
次の瞬間、彼は小さく笑った。
ゲームの立ち絵では見たことのない表情だった。
フィオレッタは、その笑顔を見つめながら思う。
やっぱり。
この人は、私が知っている「悪役令息」とは違う。
だったら。
フィオレッタは紅茶のカップへ手を伸ばした。
未来が決まっているというのなら、その未来を変えてしまえばいい。
ただし、侯爵令嬢が学園中を走り回るわけにはいかない。
優雅に。
静かに。
誰にも気づかれないように。
まずは最初の断罪フラグから、潰していこう。
「ヴァレリオ様」
「何だ?」
「少しお願いがありますの」
「……何を企んでいる?」
「まあ。企むだなんて、人聞きの悪い」
フィオレッタはにっこりと微笑んだ。
その笑顔を見て、ヴァレリオはなぜか嫌な予感を覚えた。
「ただ、婚約者として少々、あなたのお役に立ちたいだけですわ」
このときのフィオレッタはまだ知らなかった。
これから数年にわたって、自分がどれほど大規模な「根回し」を始めることになるのか。
そして、その根回しによって、ゲームでは交わることのなかった四人の運命が、大きく変わっていくことを。
もちろん――。
フィオレッタが学園を走ることは、一度もなかった。




