第五話 王太子殿下には、最初から味方になっていただきます
パメラ・ルースと友達になってから、フィオレッタの周囲は少しだけ騒がしくなった。
といっても、侯爵家の令嬢として生活している以上、表面上は何も変わっていない。
朝は決められた時間に起き、身支度を整え、家族と食卓を囲む。午前中は家庭教師の授業を受け、午後は刺繍や音楽の稽古をこなし、合間に届いた手紙へ返事を書く。
傍から見れば、どこにでもいる貴族令嬢の日常だった。
ただし、その「手紙」の中身だけは少々物騒だった。
「お嬢様、こちらが昨日届いた分です」
ミレーヌが机の上へ数通の封筒を並べる。
「ありがとうございます」
フィオレッタは一通ずつ確認した。
家同士の付き合いに関するもの。
茶会への招待。
母宛てのもの。
そして、学院関係の話。
フィオレッタは最後の一通を手に取った。
「……またですのね」
差出人は、王立学院の関係者だった。
来年度の入学に関する案内。
フィオレッタにとっては、ただの入学案内にすぎない。
けれど、その紙を見た瞬間、前世の記憶が蘇る。
王立学院。
物語の舞台。
ここでパメラはヒロインとなり、攻略対象たちと出会う。
そして、ヴァレリオは悪役令息として少しずつ追い詰められていく。
最終的には、王太子テオヴァルトの前で断罪される。
「……まだ時間はありますわ」
フィオレッタは自分に言い聞かせるように呟いた。
まだ入学していない。
ならば、それまでにできることはすべてやっておく。
まずは、ヴァレリオの味方を増やす。
そしてパメラを孤立させない。
さらに、王太子テオヴァルトがヴァレリオを疑うような状況を作らない。
「でも……」
フィオレッタはペン先を唇に当てた。
最後の一つが、一番難しい。
王太子とヴァレリオは幼い頃からの知り合いだ。
決して仲が悪いわけではない。
けれど、ヴァレリオは王太子の前でも遠慮がない。
テオヴァルトも、ヴァレリオに対して特別甘いわけではない。
ゲームでは、ヴァレリオがパメラを傷つけたという証言を聞いた瞬間、テオヴァルトが彼を厳しく問い詰める。
その場面が、断罪へ向かう大きな分岐点だった。
だからこそ。
「テオヴァルト殿下には、今のうちに事情を知っていただく必要がありますわね」
「お嬢様」
ミレーヌが少し心配そうな顔をした。
「王太子殿下に、ですか?」
「ええ」
「……何をお話しになるおつもりで?」
フィオレッタは黙った。
もちろん、「私は前世でこの世界のゲームをプレイしていました」と話すわけにはいかない。
そんなことを言えば、頭がおかしくなったと思われる。
だから、伝えるのは事実だけでいい。
階段の細工。
根拠のない噂。
パメラへ届いた脅迫めいた手紙。
そして、ヴァレリオが何もしていないということ。
それを王太子自身に知ってもらう。
「それなら、どうにかなりそうですわ」
フィオレッタは立ち上がった。
その日の午後。
フィオレッタは父の執務室へ向かった。
「お父様、お願いがありますの」
「また何か思いついた顔をしているな」
「まあ。そんなに分かりやすいでしょうか?」
「娘を何年育てていると思っている」
父は苦笑した。
「それで、今度は何だ?」
「王太子殿下へ、少しお話を伺いたいのです」
父の表情が変わった。
「テオヴァルト殿下に?」
「はい」
「理由は?」
「ヴァレリオ様について、少し気になることがございますの」
父はしばらく娘を見つめていた。
そして、やがて小さく息を吐いた。
「お前は、ヴァレリオ殿のために動いているのだな」
「……はい」
「婚約者だからか?」
「それもありますわ」
フィオレッタは少しだけ視線を落とした。
「でも、それだけではありません」
「ほう?」
「私は、ヴァレリオ様が悪い方ではないと知っていますもの」
父は何も言わなかった。
ただ、しばらくしてから穏やかに笑った。
「分かった。手配しよう」
「本当ですか?」
「ただし、私も同席する」
「もちろんですわ」
こうして、フィオレッタは王太子テオヴァルトとの面会を取りつけた。
数日後。
王宮の小さな応接室。
王太子専用の執務室ほど格式張ってはいないが、王族が客人と話すには十分な場所だった。
フィオレッタは父とともに部屋へ入り、深く頭を下げる。
「お待たせしました」
聞き覚えのある声。
「テオヴァルト殿下」
「ヴェルナー侯爵、久しぶりですね」
「殿下もお元気そうで何よりです」
そして、テオヴァルトはフィオレッタへ視線を向けた。
「フィオレッタ嬢も」
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「構いませんよ」
テオヴァルトは微笑んだ。
その笑顔は穏やかだった。
けれど、王太子としての威厳も感じられる。
前世でゲームをしていたときも、攻略対象の中では人気が高かった。
柔らかな物腰と優れた判断力。
誰にでも公平で、王太子として申し分のない人物。
ゲームの中では、パメラを守る王子様として描かれていた。
――でも。
フィオレッタは知っている。
この人がヴァレリオを断罪する。
だからこそ、今のうちに変える。
「それで、今日はヴァレリオの件だと聞きましたが」
テオヴァルトが席へ座る。
「はい」
フィオレッタも向かいに座った。
「最近、ヴァレリオ様について妙な噂が広がっております」
「聞いています」
「……もうご存じなのですね」
「王太子の耳には、王都の噂がよく入りますから」
テオヴァルトは苦笑した。
「彼がある令嬢を威圧したとか、付きまとわれているとか、いろいろですね」
「その話ですわ」
フィオレッタは一枚の書類を取り出した。
「これをご覧ください」
「何ですか?」
「先日、学園の西棟で見つかった細工についての報告書です」
テオヴァルトの表情が変わった。
「細工?」
「はい」
フィオレッタは説明した。
階段の手すりに、人為的な細工がされていたこと。
それが見つかる前に、ヴァレリオがその場にいるという噂が流れていたこと。
そして、パメラへ「ヴァレリオに近づくな」という紙が残されていたこと。
テオヴァルトは黙って聞いていた。
最後まで話し終えると、彼は書類を手に取った。
「……これは確かな報告ですか?」
「父の部下を通じて確認しています」
「なるほど」
テオヴァルトは書類を机に置いた。
「つまり、誰かがヴァレリオとパメラ嬢を意図的に対立させようとしている可能性がある、と」
「私はそう考えています」
「証拠は?」
「まだありません」
フィオレッタは正直に答えた。
「だからこそ、殿下にお伝えしておきたかったのです」
「どういう意味です?」
「もし今後、ヴァレリオ様がパメラ様を傷つけたという話が出ても、その場の証言だけで判断しないでいただきたいのです」
テオヴァルトがじっとフィオレッタを見る。
「それは、王太子として公平に判断しろということですか?」
「はい」
フィオレッタは頷いた。
「ヴァレリオ様だけではありません。パメラ様についても同じです」
「……なるほど」
テオヴァルトはしばらく黙っていた。
やがて、ふっと笑った。
「あなたは面白い人ですね」
「え?」
「普通なら、自分の婚約者を守るために、相手を悪者にするでしょう」
「そんなことをしたら、余計に危険ではありませんか?」
「確かに」
テオヴァルトは楽しそうに笑った。
「だから私は、あなたの話を信じます」
フィオレッタは目を瞬いた。
「信じて……くださるのですか?」
「少なくとも、今の話を聞いてヴァレリオを疑う理由はありません」
テオヴァルトは静かに言った。
「それに、あなたはパメラ嬢とも親しくしているのでしょう?」
「はい」
「ならば、どちらか一方の味方になる必要もない」
フィオレッタは少し驚いた。
ゲームの中のテオヴァルトとは、少し違う。
いや。
もしかすると、ゲームでは描かれていなかっただけなのかもしれない。
王太子という立場にいる以上、彼は誰よりも慎重に物事を見ている。
「ありがとうございます」
「礼を言う必要はありません」
テオヴァルトは微笑んだ。
「ただ、フィオレッタ嬢」
「はい」
「一つだけお願いがあります」
「何でしょう?」
「あなた自身が危険なことをしないでください」
「……」
「あなたが何かを調べていることは、すでに私の耳にも入っています」
「まあ……」
「ヴァレリオのために動く気持ちは分かりますが、あなたまで巻き込まれては困ります」
その言葉に、フィオレッタは少しだけ目を伏せた。
「承知しました」
「本当に?」
「ええ」
フィオレッタは微笑んだ。
ただし。
心の中では、別のことを考えていた。
危険なことはしない。
それは約束できる。
けれど、根回しをやめるとは言っていない。
面会を終えて王宮を出ると、馬車の中で父が口を開いた。
「ずいぶん堂々としていたな」
「そうでしたか?」
「王太子殿下を相手に、あれほどはっきり物を言える令嬢はそう多くない」
「殿下が聞いてくださったからですわ」
フィオレッタは窓の外を眺めた。
王宮の門が遠ざかっていく。
「それに、テオヴァルト殿下なら、きっと分かってくださると思っていました」
「そうか」
父はそれ以上聞かなかった。
けれど、少しだけ笑っている。
フィオレッタも窓の外へ視線を戻した。
これで一つ、未来が変わった。
ゲームでは、テオヴァルトはヴァレリオを疑う。
けれど今回は、すでに「誰かが二人を利用している可能性」を知っている。
断罪の場で、いきなり証言を聞くのとは違う。
これだけでも大きい。
「あと一つ……」
フィオレッタは呟いた。
ゲームの中で、ヴァレリオが決定的に悪役令息と見なされる出来事。
それは、パメラへの嫌がらせ事件だった。
そして、その事件を起こす令嬢の名前が、フィオレッタにはどうしても思い出せない。
ただ、前回の茶会で聞いた「ゲームにいなかった令嬢」の名前が、妙に気になっていた。
翌日。
フィオレッタはその令嬢について、正式に調べることにした。
もちろん、自分で学園中を走り回ったりはしない。
侯爵家には人がいる。
信頼できる侍女もいる。
父の部下もいる。
そして、王太子にも話を通した。
あとは情報が集まるのを待てばいい。
「……根回しって、素晴らしいですわね」
フィオレッタは満足そうに紅茶を飲んだ。
ところが、その日の夕方。
思いもよらない人物から手紙が届いた。
差出人は――ヴァレリオ。
『明日の午後、学院の近くにある庭園へ来てほしい。どうしても君に話したいことがある』
フィオレッタは手紙を読み終えると、首を傾げた。
「一体、何でしょう?」
そして翌日。
指定された庭園で待っていたヴァレリオは、フィオレッタの姿を見るなり、珍しく困ったような顔をした。
「フィオレッタ」
「はい?」
「……僕のことを調べているだろう」
「まあ」
フィオレッタは扇を開いた。
「どうしてそう思われましたの?」
「君が動くと、なぜか僕の周囲の問題が片付いていくからだ」
「それは偶然ですわ」
「絶対に違う」
ヴァレリオは即答した。
「それに――」
彼は少しだけ視線を逸らした。
「僕のことを、そこまで心配してくれる理由も聞きたい」
フィオレッタは言葉を失った。
ゲームの未来を変えることばかり考えていた。
けれど。
目の前にいるヴァレリオは、もうゲームの中の「悪役令息」ではない。
自分の婚約者で、一人の人間だ。
「……理由なら、ありますわ」
「何?」
フィオレッタはゆっくり微笑んだ。
「あなたが、私の大切な人だからです」
ヴァレリオの目が見開かれた。
春風が、二人の間を静かに通り抜けていった。
フィオレッタ自身も、自分がそんな言葉を口にしたことに驚いていた。
けれど――。
その言葉だけは、未来を知っている転生者としてではなく。
一人の婚約者として、自然に出てきたものだった。




