三、界橋の戦い
明くる日、公孫瓚は部将の兵馬を左右の両隊に分け、羽翼の如き陣形を展開した。擁する五千余りの軍馬は大半が白馬であったが、これは公孫瓚が羌族との戦闘の折に白馬を厳選して為した先鋒部隊であり、故に公孫瓚は「白馬将軍」と号されていた。怖いもの知らずの羌族も、この白馬の兵団──「白馬義従」を見ただけで、尻尾を巻いて逃げ出すと云われていた程である。
袁紹側は顔良・文醜の二枚看板を先鋒に据えており、おのおの弓弩手一千ずつを引き連れ、こちらも同様に左右の両部隊に分かれていた。袁紹の左軍は公孫瓚の右軍に、公孫瓚の左軍は袁紹の右軍に相対、更に麴義が八百の弓手と一万五千の歩兵を統率して陣の中列に居り、騎兵と歩兵合わせて数万の袁紹の本隊がその後方に陣取るという布陣であった。
朔日趙雲の類い稀な武勇を目の当たりにしていた公孫瓚であったが、まだ加入したばかりでその腹の内までは知れぬと考えており、彼に一軍を与えはしたものの、その配置は陣の後方であった。
かくて大将の厳綱を先鋒に据え、公孫瓚自身は中軍を領するという布陣で橋上まで兵を進めた。傍らに真紅の布地に金線で「帥」と縫われた大旗が立てられ、辰の時に従いて雷鼓が打ち鳴らされ、巳の時まで至ったが、袁紹の軍は巌のように動かない。
麴義は命を下して弓手を矢盾の裏に潜ませていた。八百の射手らはじっくりと機を窺い、ただひたすらに攻撃の号砲を待つ。
痺れを切らした厳綱は吶喊鼓噪とともに攻め寄せ、麴義がこれを直に相手取る。しかし、その麾下は敵軍が去来してもなお微動だにしない。引き付ける、引き付ける、引き付けて──公孫瓚軍が至近距離まで至った所で号砲一声、八百の弓手による一斉掃射が行われた。
突如の矢雨に厳綱が慌てて馬首を返したその隙、見逃さない。麴義は拍馬して刀を舞い踊らせ、これをあっという間に斬り伏せる。
公孫瓚軍の先鋒が総崩れとなると、両翼が救援に駆けつけたが、そこへ顔良と文醜の弓弩部隊による二の矢が放たれた。袁紹軍は並進して公孫瓚軍を揉み潰し、やがて界橋の辺まで到達。先んじて旗を手にしていた将が斬られ、白馬将軍自慢の金線の旗も無残に薙ぎ倒されてしまった。
公孫瓚は軍旗が倒されたと見るや、馬首を巡らせて橋を駈け下った。麴義は手勢を率いてその後方の軍団を轢き潰し、公孫瓚を追走したが──そこに居合わせたのは趙雲! 馬を風の如くに疾駆させ、槍を扱いて麴義を直に迎え撃つ。そして、数合と打ち合わぬうちに趙雲の鋭き一閃が麴義を刺し貫いていた。
趙雲はそのまま単騎で袁紹の軍勢に突入すると、左手を衝き右手を突き、無人の野を行くが如くに駆け回った。趙雲の鬼神の如き武勇を目の当たりにして袁紹軍の兵士は萎縮してしまい、その間に態勢を立て直した公孫瓚が手勢を引き連れて殺到、先ほどのお返しと言わんばかりに敵兵を蹴散らしていった。
一方の袁紹はというと、斥候の騎馬を遣わして戦況を探らせていたが、「麴義が敵将を斬って旗を奪い取り、敗走した公孫瓚軍を追撃している」との報が告げられていたため、備えを全く設けていなかった。付き従っていたのは側近の田豊と、戟を手にした麾下の衛士数百人、そして弓手数十騎のみ。
馬に乗って様子を見ながら、
「口ほどにもない! 公孫瓚は無能の輩だのう!」
と呵々大笑していたが、そんな折に趙雲が見参。先鋒部隊を薙ぎ倒して、忽ちに袁紹の眼前に現れたのである。
仰天する袁紹。弓箭手が慌てて応射しようとする間に、趙雲の刺撃が数人を立て続けに屠り去っていた。残る弓手らは皆そのただならぬ槍捌きに怖じけて逃げ出してしまい、後方からは公孫瓚の軍勢がどっと押し寄せてきていた。
田豊は袁紹へ向かって声を張り上げる。
「我が君、一旦陣までお戻りくだされ!」
しかし、敵前逃亡などは名家の誇りが許さない。袁紹は地面に兜を叩きつけると、毅然と言い放った。
「大丈夫ならば陣に臨み、戦場に散るは本望よ! どうして退却に活路を見出そうか!」
大将の闘志に衛士たちも奮い立ち、心を一つにし、死を賭して向かってきた。その気迫を前にしてはさしもの趙雲も突き崩す事が出来ず、やがて袁紹の大隊が掩護に現れ、顔良もまた手勢を引き連れて到着した。
二手からの敵兵の殺奔を見るや趙雲は反転し、公孫瓚を護衛しながら血路を開く。重囲を突破した趙雲と公孫瓚が界橋まで回帰したそこへ、逃すものかと袁紹が兵を駆動させて大進してきた。橋を越えての猛追を受けた公孫瓚軍の兵士達は河へと投げ出され、数えきれないほどの水死者が出た。
もはや死に体の公孫瓚軍に止めを刺さんと袁紹は更に五里ほど進軍したが、そこへ、山陰から喚声とともに一団の兵馬が颯爽と現れた。袁紹がその先頭を行く三人の将を見やれば、これぞ劉玄徳・関雲長・張翼徳! 公孫瓚と袁紹が相争っていると聞き付けた劉備三兄弟が、平原から加勢に現れたのである。
三騎は駆け下り、劉備は雌雄一対の双股剣、関羽は青龍偃月刀、張飛は蛇矛をそれぞれ振るって眼前の兵士を薙ぎ倒し、飛ぶが如き速度で袁紹の下へ直接向かってきた。
呂布と互角に戦った劉・関・張の出現に、袁紹は魂が飛び出さんばかりに仰天、手にしていた宝刀を地に落とすほどに取り乱し、恥も外聞も捨ててその場から逃げ出していった。顔良以下袁紹の軍勢も死に物狂いで橋を通過し、公孫瓚もまた軍をまとめて帰陣した。
公孫瓚は劉備三兄弟から次第を聞くと、
「そなたが救援に駆けつけてくれなければ、今頃どうなっていたか」
と安堵の声を漏らし、趙雲を紹介した。
劉備と趙雲は言葉を交わすうちに意気投合し、お互いに俄かには離れがたいと思うほどの敬意を抱いたのであった。
袁紹は劉備達が現れてからというもの、守りを固めて出撃してこなかった。両軍の睨み合いが一ヶ月余り続いたが、この状況を長安の董卓に告げる者があった。そこで李儒が董卓に言うよう、
「袁紹、公孫瓚はともに当代の豪傑にございます。磐河にて交戦状態にあるようですが、ここは一旦天子の詔として人を差し向け、蟠りを解いてやるべきかと。両雄が徳に感じ入れば、必ずや董太師に帰順いたしましょうぞ」
大いに喜んだ董卓は、翌日ただちに太傅の馬日磾と太僕の趙岐を使者に立て、詔勅を両陣営のもとへ齎させた。
かくて河北を訪れた馬日磾と趙岐を、袁紹は百里の外で出迎え、再拝して詔を奉じた。明くる日に両者は公孫瓚の陣営へ向かいて説諭を宣べる、公孫瓚はそこで使者を遣わして袁紹のもとへ書状を送り、こうして和睦が成立したのであった。
二人の使者は京へと回帰して復命。公孫瓚は即日のうちに軍を返し、一方で上表して劉備を平原県の相に推薦した。
そして劉備と趙雲は──別れる段に及び、ともに手を取り合って涙を流していた。相離れる事堪え難く、趙雲は慨嘆する。
「某日は公孫将軍が英雄であると見誤っておりましたが、今になって鑑みますに、彼もまた袁紹と同等の徒にございます。もっと……もっと早くにあなた様にお会いしとうございました」
劉備は言う。
「子龍よ、足下が身を屈めて拍珪兄上に事えておれば、再び会える日が来るであろうよ」
かくて、涙を灑ぎて両者は別れたのであった。




