4話 決壊
(体は動く、痛みなし、呼吸も……しやすいな)
ヴィオが目を開けると、木造りの天井が見えた。
ベッドから起き上がって指を握り込むが、違和感はない。
地獄なんてものを信じた事はないが、もしそうなら随分と手厚い。
全身に巻かれた拙い包帯に視線を落とすと、横から声が聞こえた。
「何かあれば、聞きますけど」
ベッドとは反対側の壁際に背を預け、あの女が立っていた。
漆黒の長髪は床に届きそうなほど長く、初雪のような純白の一房が耳元に混じる。
ヴィオから外さないその視線は、警戒の色を隠す事はなかった。
「問題ない」
「いや、そうではなくて」
「どれぐらい寝ていた?」
「二刻ほどですが、そう言う事でもなくて」
「なんだ」
「なんで生きてる、とか。ここはどこだ、お前は誰だ、とか。そういうのですよ」
ヴィオは周囲を一瞥した。
しっかりした造りの部屋に窓はなく、簡素だが家具や調度品が置かれていた。
一つだけの出入り口らしき扉の横には、巨刃剣が立てかけてある。
「お前は賢い」
「……え?」
「生きてる事は見れば分かる。手当の跡があり、お前がこの場にいるなら、やったのはお前だろう」
「えぇ、まぁ」
「室内の物を見る限り、住んでいるか頻繁に使っているかだ。そんな事はわざわざ聞くまでもない」
「……だから、体も動くし問題ないと?」
「そうだ」
淡々とした答えに、女は少し拍子抜けした。
想定していたものとまるで違う。
この男は、今も自分の心臓を狙う蒼い風を確実に見ていた。
それでも、気にする素振りもない。
何を考えているのか、まるで掴めなかった。
「……賢いというのは?」
「お前が欲しているものは情報だな」
「何故、そう思うんですか?」
「でなければ、わざわざ俺を持ち帰る必要はない。死なれたら困るから手当をし、武器と装備は離し、拘束はしなかった。ただ、警戒も怠っていない」
ヴィオが胸の前で漂う蒼い風を指差すと、女は肩を竦めた。
「その喋り方が、お前の素だな」
「……えぇ、まぁ」
「口を割らせる方法は幾つもあるが、お前は対話を選んだ。相手につけ入る上で、事実を織り交ぜるのは常套手段」
極僅か、ヴィオの口角が上がった。
「お前の行動は、信用出来る」
「……そう、ですか」
分からない。
嘗て投げ付けられた言葉は、よく覚えているのに。
『霊峰に巣食う忌まわしき怨霊を討伐せよ!』
『俺らの名声の為に死んでくれよ。生きてても無意味だろ?』
『穢らわしい! ぶっ殺してやれ!』
疎まれ、脅かされ、忌み嫌われてきた幾千の日々。
行き場もなく、霊峰から動けず、ただ息を潜めて生きてきた。
いつしか怨霊と呼ばれ、壊そうとする者は全て壊すようになった。
今度も同じだった筈なのに――男の言っている事が分からない。
「情報が欲しいのは俺も同じ。だが、その前に二つ言う事がある」
「なんですか」
ヴィオはベッドの端に座り直し、女の方を向いた。
「樹海での呼び方は俺が間違っていた。無礼を詫びる」
「え……」
「もう一つは礼だ。手当や諸々、命を拾った事に感謝する」
ヴィオの視線が、女から完全に外れた。
両膝に手を置き、頭を下げている。
「……あれ、なんで……」
目の前で起きている事が、理解出来ない。
怨霊と蔑まれ、命を護る為に、孤独に生きてきた。
相手を狩るからには、どんな悪感情を向けられても平然としていた。
それなのに何故、この男はこんな風に頭を下げているのか。
何故、少しずつ視界が曇っていくのか。
「なんで?」
ヴィオが僅かに首を傾げた。
「理由はどうあれ、お前に命を救われた。恩人に礼を言うのは、当然だろう」
「とう、ぜん……」
その言葉は、胸の奥を容易く通り抜けた。
静かに、ゆっくりと。
女の頬を雫が伝う。
「どうして……なん、で……!」
女は床に座り込み、頬に両手を擦り付ける。
だが、拭えば拭うほど、涙が溢れてくる。
殺意なら分かる。
呪詛も吐かれた。
刃を向けられた数など、もう覚えていない。
だからこそ、その言葉の意味が分からない。
「何故泣く」
「分かり、ません……」
「そうか」
「あなた、が変な、事……言う、から」
見えないように沈めて。
漏れないように蓋をして。
一日ずつ、一言ずつ、一回ずつ。
『誰か……! 助けて……!』
見知らぬ場所で一人。
ただ救いを求めた。
『分かりま、せん……! やめて、やめて……!』
救いは訪れず、怨嗟と暴力が降り注ぐ。
『どう、して……私は、生きてちゃ……いけないの……?』
命を護る為、初めて人を壊した。
転がる亡骸の顔を、恐怖と憎悪に染まる顔を。
一日として、忘れた事はない。
「だから、ずっと……」
削れていく存在を檻に閉じ込めた。
そうしなければ、生きていけなかった。
それなのに、意味の分からない言葉が入り込んでくる。
「なん、で……」
女は床に付し、肩を震わせた。
流れ落ちる雫が溜まっても、止め方なんて分からない。
「――うわぁぁぁぁぁ!」
堰を切ったように、慟哭が吐き出された。
溢れ出す何かを払うように。
閉じ込めた何かを取り戻すように。




