3話 怨霊
(体が重い……出血のせいだけではないな)
全身に纏わりつく何かを確かめるように、ヴィオは周囲を見渡した。
天を翳らす黒々とした樹影が、陽の光を遮って空間を塗りつぶす。
耳鳴りのような音が絶えず響き、湿った腐臭が鼻をついた。
(亡国、名の知れた騎士団、それに……同業か)
樹海に足を踏み入れてから、点々と転がっていた残骸。
朽ちたものもあれば、辛うじて原型が残る人体と思しき亡骸。
その幾つかの身なりは、知識として知っている。
(獣の仕業ではない。明らかに殺られている)
怨霊の棲家――そう呼ばれても致し方ない光景だった。
(息もし辛い。相当強力な恩寵か)
歪に成長した大木や、空気の質の違い。
怨霊と呼ばれている存在かはまだ定かではないが、周囲に影響を及ぼすだけの何かは確実にいる。
(殺しに躊躇もない)
そう結論づけた理由は、亡骸の痕跡とその仕留め方。
一様に、綺麗に抉られた跡が胸に残っていた。
何故、という事に興味はない。
今知るべきは、手口が非常に慣れているという事だけ。
(……裂傷十三、うち深手四、骨折なし、体はまだ動く)
瞬間、ヴィオの両眼に鋭気が灯る。
木々の間の闇の中から、数匹の蠍が現れた。
鎧のような装甲、槍と見紛う鋭利な尾、凶悪な鋏は人間を軽く両断するだろう。
(デカいが――蟲は蟲だ)
ヴィオが仕掛けた。
間合いを一瞬で詰めると同時に、一匹の尾を掴む。
巨刃剣とは似ても似つかぬ軽さ。
横薙ぎに振り抜くと、蠍はバラバラに砕け散る。
手に残った尾を別の一匹に投げ付け、地面を踏み鳴らした。
生存本能が逃走を選び、蠍が去った瞬間。
ヴィオは咄嗟に腕を交差させ、攻撃を凌いだ。
(何だ……?)
それは、瞬きの隙。
未経験の現象に、ヴィオの反応が一拍遅れた。
先の風の刃が恩寵だというのなら、ヴィオに届く事はない。
だが、確実に。
視認出来た蒼い風刃は、ヴィオの胸――心臓を狙っていた。
『黒い鎧、殺す』
耳元で声が響いた直後、次の刃が迫り来る。
ヴィオは巨刃剣を突き立て、その陰に隠れた。
首元から黒と赤の二つの丸薬――強心薬と造血薬を抜き出す。
黒は半分、赤は一玉、口に放り込んで噛み砕いた。
「っ……ゔぅぅ……!」
心臓が燃える。
赤黒い血管が全身を走り、ヴィオは堪らず地面を毟った。
だが、相手も馬鹿ではない。
三撃目の風刃は巨刃剣を避け、ヴィオを正確に狙い撃ってきた。
『……化け物が』
高音が鳴り響き、全ての風刃が叩き落とされた。
二回目の攻撃で、風刃が質量を持つ事にヴィオは気付いた。
ならば、巨刃剣が死ぬ事はない。
(遠距離は、不利……詰める、しかない)
全身から熱気を迸らせたヴィオが、地面を蹴り抜いた。
足型に瓦解する一歩は、まさに神速。
飛来する風刃をものともせず、樹海の中を突き進んだ。
間合いに入り、一太刀に伏せる。
体が動かなくなる前に、決着を着けるにはこれしかない。
『身勝手な人間……いや、もはや獣か』
風刃が飛来する間隔が短くなっている。
殺す事には慣れているが、戦闘は素人。
自在に操作出来る筈の刃を、一定方向からしか投げてこない事実が、ヴィオに確信を持たせた。
もう、追い付く。
渾身の力を込めて、巨刃剣を振り上げた。
「殺せると思ったか」
眼前でピタリと止まった巨刃剣を見やりながら、冷たい声を落とす。
薄汚れたボロボロのローブ。
顔を隠すように被られたフード。
樹海の闇に紛れていた人型の何かが、風を操っていた。
「多少、な……」
驚愕も落胆もなく、ヴィオは風の壁を幾度も斬り付ける。
その一撃は重いという言葉では測れないほどだが、人型には気になる点があった。
この獣は、何故普通に動いているのか。
(嘗ての黒い鎧もおかしかった。でも、この男は異常だ)
息は上がり、血も流れ過ぎている。
だが、眼が死なない。
壁に幾度弾かれようとも、光がなくならない。
(……やはり危険)
細い手が翳された瞬間。
ヴィオは本能的に距離を取るが、それは全くの無意味だった。
視界全てを覆う竜巻が唸りを上げ、盾にした巨刃剣ごとヴィオを飲み込んでいく。
「ぐぅ……!」
大木を何本も貫通し、地面に打ち付けられたヴィオが漸く止まった。
近くの幹まで這いずり、背中を預けて座り込む。
近付いてくる影も、肩で息をしていた。
(竜巻、は、消耗……した、か……)
だが、ヴィオも限界をとうに超えている。
体のどこを動かしても、痛みが走る。
一歩、また一歩と迫るフードの奥に見えたのは、金と銀の瞳を携えた女の顔だった。
その時、再び息をするのが楽になった。
「怨霊、か……」
深い息と共に吐き出された呟き。
霊峰の変容、異様な力、その全てがそうだと告げる。
だが、女は違った。
足が止まり、ヴィオを睨み付ける。
「お前達人間が勝手にそう呼んだだけ。勝手に枷を嵌めて、勝手に疎んだだけ」
「……そう、か」
「確かに、最初は……迷惑もかけた。でも、どうしようもなかった。それだけで、ずっと命を狙われる。静かに生きてるのに、何百年もずっと……息をする事さえ、許されない――私はどうすればよかったんですか!」
細い手を握り締め、唇を震わせる。
口から血を垂れ流しながら、ヴィオは淡々と声音を紡いだ。
「知ら、ん……興味も、ない」
「っ! ならなんで私を狙った! 怨霊だから殺さなければならないのか!」
瞬間、ヴィオの腹に風の刃が刺さった。
細く槍のように作られたそれは、大木とヴィオを貫通して繋ぎ止めた。
もはや痛みも感じない体は、長くないだろう。
「……逆、だろ」
「は……?」
「仕掛け、たのは、お前だ……」
女は言葉を失った。
確かにそうだ。
いつもと同じように、危険だと判断して先手を打った。
この男は危険過ぎた。
それでも、もし――仕掛けなかったら、どうなっていただろう。
(いや……決まってる。そんな奴は何人もいた。上辺だけの言葉で、私の命を狙ってきた。この男も同じ……同じ筈……!)
長らく会話などしていなかったせいだ。
そう思い込み、女がヴィオの前に立つ。
小ぶりな短剣を取り出し、その首に突き付けた。
それでも、ヴィオは平坦なまま。
怒りも、憎しみも、忌避も、何もない。
ただ真っ直ぐに、こちらを見ていた。
「一つ、言って……おく」
「命乞いは無駄だぞ。危険は排除する。生きる為に」
「確実、にやれ……その後、は、燃やせ。俺も、鎧も、剣も、全て……痕跡が、残れば……部隊が、来るぞ」
「え……?」
「生きる、なら……結果を、委ねる、な……」
「お前は、イカれてる……! 絶対に生かしてはおけない……!」
危険という言葉では、到底足りない。
女の奥底で、警鐘が鳴り響く。
今、確実に殺さなければ。
冷たく光る金と銀の双眸。
短剣を振り上げた細い手。
遠のいていく意識の中で、ヴィオは瞬きでさえ眼を逸らさなかった。




