2話 撤退戦
それから七日。
追手を躱しながら、ヴィオは大陸の西の果てまでやってきた。
目的地はとある霊峰。
常に深い霧に覆われた、忌避された秘境だ。
(重大な傷なし。小瓶二本、丸薬あり。鎧装に不備なし)
大木を背に周囲を見渡しながら、銀灰の髪に付いた血を拭う。
追手はしつこく、無駄にしぶとい。
流石は大陸随一の傭兵部隊。
そう認めるだけの疲労が、精悍な顔に滲む。
ただ、差し迫った問題はそこではなかった。
(……聞くと見るでは、大違いだ)
霊峰の方角――通称【怨霊の棲家】へ視線を向ける。
古来より悪しき何かが棲まうとされ、一度足を踏み入れれば生きては帰れない。
ガキの躾に使うような、酒の席の与太話のような、そんな類の伝承。
まるで信じていないヴィオにとって、都合のいい隠れ場所――その筈だった。
(確実に、何かいる)
麓の樹海から漂ってくる異質な気配が、そう告げていた。
漆黒の鎧装を纏う巨躯を起こし、ヴィオは小瓶を取り出した。
中身を喉に流し込み、指先を握り込みながら、小さく息を吐く。
(だが、先ずは……)
頭上を見やり、僅かに揺れた枝葉の影を捉える。
背に収めた巨刃剣の柄を握り、重心を落とした。
(こいつらだ)
その瞬間。
狂気を孕んだ追手の声音が、遥か先の樹上から降り注ぐ。
「ヴィオぉぉぉ! 見ぃつけたぁぁ!」
赤髪の獣人が一直線に飛来した。
鉤爪を突き出し、口角を吊り上げながら。
殺意と歓喜を混ぜた、獣じみた眼光をギラつかせながら。
「お互い様だな」
巨刃剣を振り抜き、人型に戻った女を鉤爪ごと弾き飛ばした。
「――ホントさぁ!」
身を翻して幹に着地したと同時に、女の視界を巨刃剣が覆う。
その瞬間、頭上で交差させた腕ごと、重圧が叩き込まれた。
女の体が幹に沈み、木肌と共に血が弾ける。
「ぐっ! 〈不能〉とか……やっぱズル過ぎ……!」
「お前も大概だろ」
だが、骨が軋むような衝撃を受けてなお、女は妖しく笑みを零した。
「でぇも、だから楽し――ぐあっ!」
「面倒だ」
死角からの蹴りが、装甲の隙間を正確に捉える。
呼気を吐き出した女は、別の大木へ叩きつけられた。
ヴィオは直ぐに反転し、逆方向へ地面を蹴り抜く。
見上げた先。
黒い雷が、樹海を鮮烈に染め上げていた。
「ヴィオ……ごめんね……殺すよ」
薄紫の長髪を無造作に垂らした男が、枝上に立っている。
その手に握る二振りの短剣から、雷鳴が轟いた。
周囲の大木を貫き、雪崩のように折り重なって、四方の逃げ場を潰す。
「やり辛い」
ヴィオが巨刃剣を背負うように構えた。
叩きつけた片足が地面を抉り、全身の筋肉が肥大する。
投げ付けた巨刃剣は、音を斬り裂く鉄塊となって一直線に男へ迫る。
「うわっ、反則だよ――えっ」
「お前もな」
躱した男が視線を戻した時には、間合いを詰めたヴィオに胸ぐらを掴まれていた。
「ごはぁっ!」
地面に投げつけられ、男の口から鮮血が躍り出る。
直後、回転を加えて勢いを増したヴィオの膝が、鳩尾にめり込んだ。
「ぐぅぁっ!」
「っ――流石だ」
二度目の鮮血は、上下から交差した。
骨が砕ける音に混じり、男もヴィオの両脇腹に二振りの刃を刺していたのだ。
薄紫の長髪の奥の眼が、初めて光を帯びる。
「ね、痛い?……ね――うぐっ」
「……あぁ」
ヴィオの拳が顔面にめり込み、男の動きが漸く止まった。
引き抜いた短剣を武器帯に差し込みながら、視線を上げる。
(狩りに入ったか)
外套を千切って腹の止血を済ませ、大木から抜いた巨刃剣を背に収めた。
ヴィオが駆け出すと、離れる事なく視線が纏わりついてくる。
「ガォォォォォォォ!」
刹那、樹影の間から紅い豹が飛び出してきた。
着地と同時に人型に戻されるが、四足獣のように地を駆ける。
ヴィオが投げた短剣を躱し、獣型に戻った女は大木を一足で登っていった。
(……傷が深い。二人相手となると、楽ではないな)
瞬間、獣の凶刃が再び襲い来る。
ヴィオは半身となって突進を躱し、無防備な背に向けて巨刃剣を振り下ろす。
だが、刃は空を切った。
後方からの一撃が背中を裂き、女は再び獣となって姿を隠す。
「……厄介だ」
女は推進力として獣型を使い捨てていた。
人では到達出来ない速度で宙を走り、獣では曲がりきれぬ角度で襲いくる。
削られて垂れ下がった左腕。
地表を紅く染める血溜まり。
女が空間を裂く音が響き、やがてヴィオの膝が折れた。
「ガォォォォ!」
渾身の鉤爪が、ヴィオの喉元に喰らいつく。
「――ぐぅぅ!」
女は万全を期していた。
転がる巨刃剣を避けた。
利き手である右側を避けた。
死角となった左後方から狙いを定めた。
「随分待ったぞ」
それなのに――左手で首を潰されている事が理解出来なかった。
「一つ、言っておく」
女を地面に組み伏せながら、ヴィオは力を込めた。
右手とは逆の、本来の利き手に。
「戦場では全てを疑え」
「……く、そ……」
暴れる四肢が、次第に大人しくなっていく。
女が完全に意識を失うと、ヴィオは初めて深く息を吐いた。
(……ここまでだな)
血を流し続けた体が動く内に、身を隠さなければ。
これ以上は時間の無駄になる。
巨刃剣を背に収め、最後の小瓶を右腕にかけた。
『怨霊の棲家には近付くな。テメェじゃ生きて帰ってこれねぇ』
その時、幼い頃の記憶が脳裏を過った。
愉悦に浸った白髪頭の顔が、笑い声が。
ヴィオの眉間に僅かな皺を作る。
(怨霊……人か、獣か。あるいは……)
千切った外套で左腕を固く縛り、ヴィオは霊峰へ向かった。




