48 転禍
煮込みの湯気がまだ卓の上に薄く漂っていた。
ジャガイモの甘い匂いと肉の脂の匂いが、家の中の温度を柔らかく保っている。
その温度の層の中で、玄関の方から小さな音がした。
「こんな時間に誰かしら」
マーサが椅子の背から体を離す。
木の脚が床を擦る音が、湯気の層に沈む。
エドガーは手を軽く上げてそれを制した。指先が空気を切る。戦場で仲間や合図を送るときと同じ癖だった。
「いい、俺が出よう」
スプーンを置くと、卓が低く鳴った。その振動が指先に残る。
玄関へ向かう。床板がわずかに沈む。家の温かい空気が背中にまとわりつく。
扉の取っ手を握る。木の冷たさが掌に吸い付く。
扉を引くと、軋む音が家の内側へ長く伸びた。夜の冷気が細い刃のように室内へ滑り込んだ。湿った土の匂いと、鉄の匂いが混ざり合い、台所の温かい空気の層を静かに押し広げる。
エドガーの顔が月明かりに薄ら照らされ、外気に触れた頬がわずかに引き締まる。
外には、黒い外套を深く被った男が立っていた。外套は夜露を吸い、肩の布が重く沈んでいる。月光が布の表面を薄く撫で、その重さを際立たせる。
男の胸元で、銀の十字架が月の光を受けて一瞬だけ細く光った。光は冷たく、しかしどこか濁って見えた。
エドガーはその光を目で追った。
「教会の人間か?」
声を低く落とす。夜気がその声を吸い込み、輪郭を曖昧にする。
「………。」
男は答えない。
外套の影の奥で喉がわずかに上下する。
呼吸が浅い。胸の布が震えを隠しきれずに揺れる。その揺れは戦場で死を目の前にした新兵によく似ていた。
そのとき、男の右手首に巻かれた白い手拭いが月光を受けてわずかに浮かび上がった。男の視線がそこへ一瞬だけ落ちる。布の端が夜風に触れてわずかに揺れた。
エドガーは扉を半分閉じ、外へ身をずらした。冷気が肩へ触れ、布の内側まで入り込む。
「外で話そう」
男は小さく頷いた。その頷きは、首の筋肉が固まったまま動くようなぎこちなさがあった。
二人は玄関の前に立つ。石畳は夜露で濡れ、光を吸い込むように黒く沈んでいる。足裏に冷たさが伝わる。
「要件はあの女か?」
エドガーは声を落とす。その声は、敵の気配を探るときの声と同じ高さだった。
「………。ああ…」
しばらく間を置いてから男から返事が返ってきた。しかし、その声は耳を澄ませないと聞こえないほど小さかった。声が震え、空気に触れた瞬間に崩れそうな弱さがあった。
返事のあと、男はまた右手首へ視線を落とした。白い布の表面が月光を受けて淡く光り、その光が男の指の震えを際立たせた。
エドガーは服の内ポケットへ手を入れた。布が擦れる音が、夜気の中で小さく響く。指先が袋の感触を確かめる。乾いた布のざらつき。中に入った硬貨の冷たい重み。袋の口を握ると、硬貨同士がわずかに触れ合い、金属の小さな音が指先へ伝わる。
エドガーはその袋を、男の胸元へ突き出した。男の外套がわずかに沈む。胸の布が、袋の重みで小さく凹む。
「あの女はサンドヘイヴンから来た俺の妻の親類だ。」
エドガーの声は、夜の空気に沈むように低い。言葉の端が硬い石のように落ちる。
「……」
男は何も言わない。
ただ、胸元の十字架がわずかに揺れた。その揺れは、男の呼吸の乱れをそのまま映している。十字架の光が月光の中で一瞬だけ濁った。
エドガーは白い線へ視線を落とした。
「最近この辺りではネズミが多くてな。これは跡だ。」
白い線は、夜風に吹かれたせいか、細く震えていた。
男の足元の影がその線に重なり、影が白く濁る。
「……」
男は小さく頷いた。
外套の布が肩でわずかに揺れる。その揺れは迷いの揺れだった。男はまた右手首へ視線を落とした。白い布の端が風に押され、わずかにめくれた。
エドガーは袋を押しつけるように男へ渡した。
男の指が袋を受け取る。指先が震えている。硬貨の重みが男の掌へ沈む。その沈み方は、重さを受け止めることに迷いがあるようだった。
「もういいか?」
エドガーの声は短い。夜気の中で、その声がすぐに消える。
男は口を開いた。
「あ、、、」
声はかすれている。
喉の奥で言葉が形にならず、空気だけが漏れた。
男の唇がわずかに動く。言葉にならない音が、夜の冷気に触れて消える。
そのとき、男の右手首の白い布が月光を受けてわずかに光り、男の視線がそこへ吸い寄せられた。指が布の端をわずかに押さえるように動いた。その瞬間、十字架の光がほんのわずかに沈んだ。
エドガーは扉へ手を伸ばした。
木の表面が冷たく、指先に夜気の温度が伝わる。
扉が閉じる。木が軋む音が家の中へゆっくりと沈んでいく。
男の声は閉じられた扉の向こうで途切れた。夜の冷気が玄関の隙間から細く流れ込み、台所の温かい空気の層へ触れた。温度差が頬へ触れ、胸の奥の筋肉がわずかに強張る。
家の中の空気が静かに揺れる。煮込みの匂いが戻り、蝋燭の火が細く揺れた。
エドガーは扉に背を預け、深く息を吐いた。その吐息は重く、家の空気へゆっくりと沈んでいく。
玄関の外では黒い外套の男が立ち尽くしていた。胸元の十字架が夜風に触れてわずかに揺れる。その揺れは弱く、しかし消えずに残っていた。男の右手首の白い布が、風に押されてわずかに揺れた。
男はそれを一度だけ見下ろし、そのまま袋を握りしめて歩き出した。男の足元の白い線がかき消され、ただの石畳に戻る。
足音は石畳に吸い込まれ、やがて完全に消えた。
エドガーはその消え方を聞きながら、胸の奥で何かがわずかに沈むのを感じた。
壁に立てかけた槍に目をやり、静かに台所へ戻る。
扉の向こうの夜気はもう何も語らなかった。




