49 余熱
玄関の扉が閉まる音が、胸の奥に直接落ちてきたように響いた。
空気が一瞬で重くなる。息が喉の手前で止まり、胸の内側の白い糸がきゅっと縮む。
エドガーの溜息が、部屋の温度をわずかに下げた。その冷たさが皮膚の表面に触れた瞬間、肩が勝手に跳ねる。
「あ、あの……わたし……は……」
声が喉の奥でほどけず、空気だけが漏れた。
言葉にならない。胸の奥の糸が絡まり、呼吸の道を細くしていく。
「そう怖がらなくていい。やつには帰ってもらった。」
エドガーの声が落ち着いて響く。
その落ち着きが逆に胸の奥を締めつける。身体が勝手に震える。指先が膝の上で小さく跳ねる。
マーサの声が聞こえる。
「ねえ。さっきのって誰?教会って聞こえたけど……まさか」
「教会」という音が空気を震わせた瞬間、頭の内側で火がつく前の“ぱちっ”という乾いた音がした。
赤い光が視界の端に滲み、その光が一瞬だけ形を持ちかける。炎ではない。ただ、焼ける前の熱が額の裏側に薄く広がる。胸の奥の白い糸が跳ね、呼吸がひゅっと細くなる。皮膚の表面がじり、と熱を帯び、その熱が身体中の痛みを呼び起こす。痛みが指先に走り、指先が膝の上で勝手に震え、震えが止まらない。
「それ以上は言わなくていい。」
エドガーの声が低く落ちる。
その低さが、背筋の奥に冷たい線を走らせた。皮膚の下で白い糸がさらに締まる。視界の端が白く濁る。卓の木目が遠くに見える。遠さが、身体の輪郭を曖昧にする。
足元で黒い影が揺れた。ラーチェが寄ってきたのだと分かる。影が足首に触れた部分だけが、わずかに温度を持つ。その温度が、自分がまだここにいることをかろうじて思い出させる。
「なんてこった。うちは教会に目をつけられちまったのかい。だったら今からでもこの娘を——」
マーサの声が焦りで震える。
その震えが胸の奥に響き、白い糸がさらに締まる。呼吸が浅くなる。指先が膝の上で止まらない。
「いや。予定通り戦場に連れて行く。」
エドガーの声が静かに落ちる。
その静けさが、胸の奥の糸をさらに締めつける。身体が勝手に俯く。視界が床へ落ちる。胸の奥で白い糸がゆっくりと締まり、その締まりが呼吸の通り道を細くしていく。息が胸の手前で止まり、喉がひゅっと狭まる。指先が自分の膝の上でわずかに震え、その震えは止めようとしても止まらない。まるで身体が支えを探しているように揺れ続ける。胸の内側で温度が上下し、熱が上がったかと思えばすぐに引き、その繰り返しが自分の輪郭を曖昧にしていく。視界の端が薄く白く濁り、卓の木目が一瞬だけ遠くに見えた。その遠さは自分がここに座っている理由を掴めないまま手から滑り落ちていく感覚に似ていた。
ラーチェが足元に寄ると、黒い影がメアリーの足首に触れその触れた部分だけが自分の存在をかろうじて思い出すようにわずかに温度を持った。しかしその温度もすぐに揺れ、胸の奥の白い糸がまた締まり、締まった糸が身体の内側で押し返していた。
「でも、このままだと”魔を匿った家”だって噂になっちまう。さっさとこいつらを家から追い出さないと」
マーサの声が鋭くなる。
その鋭さが皮膚の表面を刺すように触れ、肩が勝手に跳ねる。
「それは気にしなくていいと言っている。」
低い声を響かせるエドガー。
それにメアリーはビクリと身体を震わせる。
「やつは迷っていた。さすがにこんな年端もいかない子供を殺すのは抵抗があるようだ。」
その言葉が胸の奥に落ちた瞬間、白い糸が一度だけ強く締まり、呼吸が完全に止まった。
「しかし、長い間は待ってくれないだろう。」
胸の奥の温度が一瞬で引く。
指先が冷たくなる。
「明日の早朝に兵舎に連れて来い。そうすれば教会は迂闊に手を出せない。」
エドガーの視線が自分に向く。
その視線が胸の奥に触れた瞬間、白い糸がわずかに緩む。呼吸が細く戻る。
「それでいいな?」
視線が合う。
胸の奥の温度がわずかに戻る。指先の震えが少し弱まる。
「は、はい。」
声がかすれ、喉の奥でほどけそうになる。
それでも言葉が出た。胸の奥の糸がわずかに緩む。
「あたしは反対だよ。もう見つかったんだ。さっさと引き渡さないとあたしたちは・・・」
マーサの声が揺れる。
その揺れが胸の奥に触れ、白い糸がまた締まる。
「今のまま引き渡したところで奴らには“魔を匿った家”だ」
エドガーの吐息が重く落ちる。
その重さが胸の奥に沈み、身体の内側がわずかに沈む。
「それにサンドヘイヴンの件は、教会も軍も動いている。」
スープ椀の縁に触れていた手が震える。
その震えが、自分の輪郭をまた曖昧にする。
「軍は、使えるものは使う。教会は、使えないものは燃やす」
胸の奥の温度が一瞬で引く。
白い糸が強く締まる。呼吸が浅くなる。
「でも・・・。もし、、、もし、あんたがいない間に教会が来たら……」
マーサの声が途切れる。
その途切れが胸の奥に落ち、白い糸がさらに締まる。胸の奥がじわりと熱くなる。白い糸が痛みを押しとどめるように強く締まる。
「俺が守れるのは、戦場にいる間だけだ」
その言葉が胸の奥に落ちた瞬間、白い糸が一度だけ緩む。
呼吸が細く戻る。視界の白濁が少し引く。
ラーチェの黒い影が足元で小さく身じろぎする。その揺れが足首に触れ、わずかに温度を持つ。
「はあ・・・・もういい。わかったよ・・・。でも、もしまた教会が来たらお前を引き渡す。いいかい、メアリー。」
マーサが肩に手を置く。
その手の重さが皮膚に触れ、胸の奥の糸がわずかに緩む。胸の奥に小さな温度が灯る。白い糸がゆっくりと緩む。呼吸が深くなる。
「……はい」
声がかすれながらも出た。
胸の奥の温度が少しだけ広がる。
「そう気負わなくていい。奴は来ないさ。」
エドガーは立ち上がり、槍を手に取った。
「俺は兵舎に戻る。夜は冷える。お前らは早く休め」
その背中が扉の向こうへ消える。
扉が閉まると部屋の空気がわずかに沈む。胸の奥の糸がまた少し締まる。
ラーチェが足元に寄り添う。
黒い影が白い包帯の光に触れ、その触れた部分だけが自分の存在をかろうじて思い出すようにわずかに温度を持った。
エドガーの背中が扉の向こうへ消えた。その瞬間、部屋の空気がひとつ沈み、胸の奥の白い糸がまた細く締まった。
マーサが振り返る。 声はさっきより低く、硬い。
「・・・・・・・。いいかい。その黒いのは向こうでは魔導具だ。わかったね。」
言葉が空気を押し、耳の奥に重く落ちる。胸の内側がひゅっと狭まり、呼吸が浅くなる。
「……ラーチェは、魔導具……」
自分の声が自分のものではないように聞こえた。喉の奥でほどけず、ただ空気が震えただけだった。
その瞬間、足元で小さな突きがあった。冷たい感触が皮膚に触れ、身体が反射的に跳ねる。
視線を落とすと、ラーチェが床にぴたりと張りつき、身体の上部だけが細く伸びていた。先端は手の形をしていて、ゆっくりと自分の顔へ向かってくる。
触れた瞬間──ぱん、と頬が弾けた。
乾いた衝撃が皮膚を叩き、熱と冷たさが同時に走る。視界が一瞬だけ白く滲み、胸の奥の白い糸が強く跳ねた。
「・・・え、、、。」
世界が遠くなる。音が薄くなる。頬の表面だけがじりじりと熱を持ち、その熱が火傷の痛みを呼び起こす。
ラーチェはそのまま、部屋の奥の方へ身体を大きく揺さぶりながら退き、黒い影を毛布の中へ沈めた。布がわずかに盛り上がり、静かに動きを止める。
マーサはそれを見ながら、まっすぐ寝台へ向かっていった。布の擦れる音が遠ざかる。
胸の奥で、何かがひゅっと縮んだ。味方がひとり、またひとりと消えていく。空気が薄くなり、指先が冷たくなる。
「ほらっ。さっさと寝な。明日は早いよ。」
マーサの声が背中に落ちる。その重さで胸の糸がわずかに緩み、放心のまま身体が動いた。
ふらつきながら寝台へ向かい、布の冷たさに身体を沈める。背中に痛みが走り、呼吸が浅くなる。
数時間が過ぎても眠りは来なかった。
火傷の痛みは弱まらず、胸の奥の白い糸は締まったり緩んだりを繰り返し、そのたびに身体の輪郭が曖昧になった。
暗闇は静かだったが、その静けさが逆に胸の奥を冷たく締めつける。誰も自分を呼ばない。誰も自分を必要としない。その事実が、痛みよりも深く身体の内側に沈んでいく。
指先が震え、布を握る力が弱くなる。胸の奥がじわりと熱くなり、その熱がすぐに冷たさへ反転する。
眠れない。身体が眠りを拒んでいる。
そのとき──床の方から、そっと何かが近づく気配がした。
黒い影が静かに這い寄り、毛布の端がわずかに揺れる。影が背中に触れた瞬間、皮膚の表面がひゅっと吸い込まれるように冷たくなった。
次の瞬間、白い光がゆっくりと流れ込んできた。
背中から胸の奥へ、胸の奥から喉の奥へ、喉の奥から額の裏側へ。
だがそれは“救い”ではなかった。
白魔力が背中から胸の奥へ流れ込むにつれ、身体の内側の空洞がゆっくりと照らされていく。
照らされたのは痛みではなく、自分がどれほど弱く、どれほどひとりで、どれほど何もできないままここにいるかという“形のない影”だった。
胸の奥の白い糸が緩む。その緩み方が、逆に自分の無力さを露わにする。
呼吸が深くなるのではなく、深くなった呼吸が胸の空洞を広げる。広がった空洞が、孤独の冷たさをそのまま受け止める。
目の奥が熱くなり、視界が歪み、涙が一粒、また一粒と頬を伝う。止まらない。大粒になって流れ落ちる。
喉の奥がひゅっと狭まり、声が勝手に漏れた。
「……ごめんなさい……」
その声は言葉ではなく、胸の奥の空洞が震えて生まれた音だった。
涙がさらに溢れ、頬を伝い、毛布を濡らす。
「……なんにも……できなくて……ごめんなさい……」
言葉は途切れ途切れで、息の合間に崩れ落ちるように出てくる。
「……ごめんなさい…………ごめんなさい…………なんにも……できなくて……」
声は震え、喉の奥でほどけず、ただ空気が震えているだけのようだった。
ラーチェは毛布を引き寄せ、その端で涙を拭った。布の繊維が頬に触れる感触が、胸の奥の空洞をさらに広げる。
手が自然に伸び、毛布を掴む。ラーチェの方を向き、毛布ごと抱きしめるように引き寄せた。
「……ごめんなさい…………ありがとう…………ごめんなさい……」
声はかすれ、震えていた。その震えは、光が照らした“弱さ”そのものだった。
ラーチェは毛布の中で静かに身を寄せ、その温度が胸の奥に広がる。だがその温度は、孤独を消すものではなく、孤独の形をはっきりさせるものだった。
しかし、自分の手がラーチェに触れた瞬間、ズルッと何かが滑る感触がした。
次の瞬間、突然自分の額に黒くて硬いものがぶつかった。
衝撃が走り、視界が暗転する。胸の奥の糸が一気にほどけ、身体の重みが落ちる。
寝台に倒れ込む感触と同時に、黒い影が床を叩く音が続いた。
ビタン、ビタン、ビタン
黒い影が暴れ、床が震える。
隣の寝台で誰かが叫びながら飛び起き、その動きが空気を鋭く切り裂いた。
身体を強く揺さぶられた気がしたが世界はどんどん遠ざかっていく。
世界はそこで途切れ、闇だけが残った。
ここまで読んでいただきありがとうございます。一旦ここまでで投稿を休ませていただこうと思います。また9月頃から再開予定ですので思い出したときに、またふらりと読みに来ていただければ嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。




