47 逃水
木の扉が軋み、夜の冷たい外気とともに汗と鉄の匂いが部屋の中に入り込む。
「ただいま、ずいぶん騒がしいじゃないか。何かあったのか?」
エドガーの声が響いた瞬間、メアリーの肩がわずかに跳ねた。
毛布の中でラーチェが動いたのか、布の端がビクッと震える。
メアリーの視線はその揺れへ吸い寄せられ、胸の前で構えた両手の指先が右へ左へと小刻みに動く。椅子に座ったまま、身体の重心が落ち着かない。
低い声を出しながらエドガーが槍と外套を玄関の入り口に立てかける。
「おかえり。いや、ちょっとこの子が、、、ね」
マーサが玄関を覗き込むように顔を出しながら答える。
その後ろでマーサの後方に誰かが座っているのが見えた。
毛布がバサッと跳ねる。
メアリーの背筋が硬くなり、指先が胸元でぎゅっと縮む。
ラーチェの黒い影が布の隙間で震え、その震えに合わせてメアリーの喉がひゅっと狭まる。
「客か?」
エドガーの目が部屋の奥へと向く。
「え?えーっと、その、、、そう!し、親戚さ!」
マーサはしどろもどろになりながら答える。
「サンドヘイヴンの方から来た、、、ほらっ、、、あのっ、、、」
マーサはメアリーに何かを求めるように視線を送る。
「め、、、メアリー、、、です。」
「そう!メアリー!メアリーね。」
メアリーの返答に食い入るようにマーサは答える。
「戦の噂、聞いてるでしょう?命からがら逃げてきたんだよ。」
「ああ。あっちの方は、もうだいぶ前から物騒だ。」
エドガーが台所の奥へ向かうとそこには痩せた女が立っていた。長い髪はところどころ焦げて、肩で切りそろえたようになっている。その装いとは異なり胸元にはやや白く濁った赤い宝石が吊り下げられ、首元や腕には包帯が巻かれその内側が淡く光っている。
「はじめまして。メアリー、、、です。」
声はかすれているが、はっきりしている。
「、、、サンドヘイヴンの親類、、、か」
エドガーは復唱すると同時にそれが真実ではないことがはっきりと分かっていた。だが、今はそれを口に出す場面ではないと、兵士としての勘が告げていた。
バサッという音とともに奥の寝台で毛布が飛び上がるのがみえる。
「あれは?」
エドガーが顎で示す。
「魔、、、じゃなくて、、、えーっと、ペットさ」
マーサは目を天井や窓の方向に向けながら答える。
「向こうじゃ、火起こしや皮むきに、ああいうのを使うんだって。こ、こっちのやり方とは、少し違うね」
マーサは声を震わせながら答えると、エドガーは動く毛布の隙間に黒い何かがいるのを確認した。煤を被ったものではない元々その色を持ったもののようだった。
「……そうか」
それ以上、何も言わなかった。疑問は、しまい込むことにした。戦場でも、家でも、「知らない方がいいこと」は山ほ扉る。
木の卓の上に、皿が並べられていく。
ジャガイモの煮込み。
固いパン。
薄いスープ。
簡素だが、腹は満たせる。
並べられた皿の縁には、水滴も汚れも残っていない。
「この皿きれいだろう?あの黒いのが洗ったんだ。うちにもああいうのを飼っていいんじゃないか?」
「、、、そうか。勝手にしろ」
マーサが少し興奮気味に言うとエドガーが静かに答えた。
メアリーは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
身体の内側を、白い糸が走っている。
皮膚のすぐ下。
筋肉の間。
骨の近く。
自分で流した白魔力が、全身を支えるように巡っていた。今はこれがないと椅子に座ることさえできない。包帯の下を白く光る糸が、やけどの上を覆い、その内側が崩れないように守ってる。動けば痛む。けれど、倒れはしない。
「食え」
エドガーが短く言い、パンをちぎった。祈りの言葉は簡単なものだけだ。教会で聞くような長い文句ではない。
「今日も腹が満ちることに感謝を」
エドガーはスープを一口すすり、息をついた。
「広場で火が上がったのは、見たか」
その言葉が落ちた瞬間、メアリーの指が止まった。胸の奥がぎゅっと縮み、皮膚の表面から熱がすっと引いていく。視界の端が白く濁り、スープの表面がゆらりと歪んで見えた。
マーサは、横目で彼女を見た。
「見たよ。あんたは?」
「見張りの途中でな」
エドガーはパンをちぎりながら答えた。
「黒い“何か”と、女が一緒に燃やされたと聞いた。その“何か”は、最後まで形を保っていたとか、、、」
メアリーは、青くなった顔を隠すようにスープの中に視線を落とす。スープ椀の縁を持つ指が、力を失ったように沈む。
「火刑から逃げた者がいる、という噂も流れた」
メアリーの背中が固まり、肩がわずかに上がる。呼吸が胸の手前で止まり、空気が入らない。視界が狭まり、蝋燭の火が細く揺れる。
エドガーは続けた。
「教会の連中は、見つけしだい連れ戻せと言っている」
「……そう」
マーサが相槌を打つ。
その声は、わずかに乾いていた。
「で、教会は?」
「まだ、誰をとは言っていない。名前も、顔も、はっきりとは広まっていない。」
エドガーは、視線を皿に落とす。
「ただ、“黒いのを連れた女”という話だけが、一人歩きしている」
メアリーは、パンを小さくかじった。
味は、よく分からない。
ただ、口に何かを入れておかないと、言葉が零れそうだった。
「それと、もうひとつ」
エドガーは、スープ椀を卓に置いた。
「サンドヘイヴンの方で、また動きがある」
マーサの肩が、ぴくりと動く。
「出兵かい」
「ああ。近いうちにな。そのときは、兵だけじゃ足りん。物資と飯と、怪我人の始末をする人間が要る」
マーサはエドガーの目を見つめる。
「つまり、またあたしも行けってことかい」
「命令が出ればな」
エドガーは素直にうなずいた。
「兵舎ではそう言われた。お前は、慣れている。」
「……」
マーサは、メアリーの方をちらりと見た。
白く光る包帯。それを支える白い糸。
奥でブルブル震える毛布。
「メアリー」
名前を呼ばれ、メアリーは顔を上げた。
「はい」
「戦の匂いには、慣れてるかい」
奇妙な問いだった。
「……教会で、怪我人の手当てを少し」
巡礼者の足。
子どもの擦り傷。
火傷。
それの手当てには慣れていた。
「なら、飯と包帯くらいは巻けるだろうね」
マーサは、納得したように頷いた。
「それに、さっきのあれだ」
彼女は、メアリーの腕を顎で示す。
白く光る包帯。
「そんな便利な“貼り物”ができるなら、兵のあいだでも重宝される」
エドガーも、そこに視線を落とした。
「教会の連中より、早く傷をふさげるなら、なおのことな。まあ教会の連中は兵士の傷の手当てはできんが」
その言葉が落ちた瞬間、メアリーの胸の奥で、白い糸がゆっくりと緩むように広がった。浅かった呼吸が少しずつ深くなり、胸の内側に温度が戻る。指先の震えが弱まり、視界の白濁が静かに引いていく。
「……」
メアリーは、自分の腕を見下ろした。
「ペットの方もだ」
マーサが、ラーチェを指した。
「皮むきも、皿洗いもできる。荷物の陰に隠れて、火起こしや鍋の管理ぐらいはできるさ。そんなの、ただの魔道具だとでも言っておきゃ、軍の連中は深く考えない。」
エドガーは、黙って話を聞いていた。
やがて、椅子の背にもたれ、腕を組む。
「つまり、お前はこう言いたいんだな。サンドヘイヴン行きに、こいつらを連れていけと」
マーサは、真正面からうなずいた。
「ここに置いておいたって、教会の目がいつ来るか分からない。街の中で“黒いのを連れた女”が見つかれば、すぐに引っ張られるよ。だったら、前線へ紛れさせた方がまだマシさ」
「教会の目は、戦場じゃ鈍る。“役に立つ”やつには、誰もすぐには石を投げられない」
エドガーは、メアリーと、黒い何か、妻の顔を順に見た。
沈黙が、卓の上に落ちる。
「……分かった」
ようやく、エドガーは口を開いた。
「指揮の奴らには、“サンドヘイヴンから逃げてきた親類を、物資係として連れていく”と言う。ペットの方は、“黒魔術で動く道具”で通す。名前は?」
「ラーチェ」
メアリーが、思わず口にしてしまう。
エドガーは、少し目を細めた。その名に耳をピクリとさせる。
「…ラーチェと、メアリー」
彼は、何を思い出すように視線を落としながらゆっくりと言葉を繰り返した。
「表向きには、“サンドヘイヴンの遠縁の娘と、その家で使っていた魔道具”。それ以上は、俺も聞かない。聞いたところで、戦場で守れるとも限らん」
メアリーは、胸の奥を何かで締めつけられるように感じた。
ようやく毛布から出てきたラーチェは寝台の上で小さく輪を描いた。
「じゃあ、決まりだね」
マーサは、パンの残りを口に放り込んだ。
「明日から、あんたは“サンドヘイヴンから来た、メアリー”。分かったかい」
メアリーはゆっくりと頷いた。
胸の奥に、小さな火が灯るような温度が生まれた。その温度が、白い包帯の光と重なる。
「はい」
メアリーの右手は自然と胸元の宝石を握っていた。
その瞬間──
コンッ
玄関の扉が叩かれた。
メアリーの胸の火が一瞬で凍りつき、背筋が硬直する。
毛布の中でラーチェがビクッと跳ね、布の端が鋭く震えた。
メアリーの呼吸が止まり、指先が胸元で固まる。
視線が玄関へ吸い寄せられる。
右手から宝石が滑り落ち、胸元で濁った赤い宝石が揺れていた。




