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水鏡のメアリー  作者: 風太郎
煩悶

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46 懊悩(おうのう)

 石畳の上に続く黒い線は、夜気の中でゆらりと揺れていた。

 細く、湿った帯のように路面を這い、月明かりを受けて鈍く光る。

 リチャードはその線を追いながら、重い足を引きずるように歩いた。歩幅は不揃いで、足音は石に落ちるたびに半拍遅れて返ってくる。

コッ…… ……コッ。

 薄ら血の匂いが風に混じって鼻腔を刺した。

 それは遠くで乾いた布が擦れるような、あるいは古い傷口が夜気に触れるような匂いで、胸の奥に冷たい波を立てる。

 呼吸は浅く、肺の奥が焼けるように痛む。それでも足は止まらない。線が続く限り、追わなければならないという感覚が、骨の隙間まで染み込んでいる。

 途中で空気が変わった。

 煮込みの匂いが、路地の曲がり角からふわりと流れてきたのだ。

 ジャガイモの甘い匂い。鶏肉の脂が焦げる前の柔らかい香り。豚肉の濃い旨味が立ち上る匂い。それらが混ざり合い、夜の冷たさの上に温かい層を作る。匂いは視界の端に灯りをともすように、記憶の扉を叩いた。

 その匂いが胸に触れた瞬間、リチャードの内側で何かがふっと揺れた。

 家で待つ妻の横顔が、ふいに浮かぶ。台所の小さな窓辺で、娘が笑いながら皿を並べる。息子が椅子に足をぶらぶらさせ、スプーンを叩いてはしゃぐ。三人がぎゅっと寄り添って食卓を囲む光景が、匂いとともに鮮やかに立ち上がる。

 その光景は温かく、無防備で、リチャードの胸の中にある何かを優しく押し広げる。だが同時に、その優しさが鋭い刃のように胸を裂いた。

 リチャードは首を振り、荒い息を吐いてその像を振り払おうとする。だが記憶はしぶとく、匂いと結びついて何度も戻ってくる。

 線はまだ続いている。揺れながら、石畳の上を奥へ奥へと伸びていく。夜風が頬を撫で、冷たさが皮膚の表面を引き締める。冷たいはずの空気の中で、皮膚の奥に熱が渦巻くような感覚がある。胸の奥で、何かがずっと軋んでいる。

 やがて線は一軒の家の庭で止まった。

 平屋に近いロフト付きの一階建て。幅は狭く、奥行きのある長方形の家だ。壁は編んだ木の枝に土と藁を塗られたもの上から白い漆喰で塗り固められている。夜の光に照らされて、漆喰の表面がぼんやりと浮かび上がる。手作りの家の匂いが、外気に溶けている。

 庭には小さな菜園があり、葉物のざわめきが風に揺れる。キャベツの厚い葉、土に埋もれたジャガイモの匂い、ネギの鋭い香り、ビーツの土臭さ。薪の山が端に積まれ、乾いた木の匂いが夜気に混ざる。足元の土は踏みしめられて固く、庭先の小さな石が月光に淡く反射している。

 家の小さなガラス窓からは明かりが漏れていた。暖色の光が障子の隙間を通り、外の闇に小さな島を作る。明かりの向こうから、話し声が聞こえる。若い男女の低い声、笑い声の断片、そしてかすれた少女の声。少女の声は遠くの霧の中から届くように弱く、細く、かすれていた。声の輪郭がはっきりしない分だけ、リチャードの胸に刺さる。

 リチャードの呼吸がさらに荒くなる。胸が締め付けられるように痛み、手が震え、指先が冷たくなる。足元の石畳に残る黒い線と庭先の土の境界が、彼の視界の中で不安定に揺れた。何かが運ばれた痕跡が、石畳に引きずられた跡として残っている。黒い線と同じ方向へ、何かが引かれ、運ばれたように見える。

 その跡を見た瞬間、リチャードの胸の奥にある祈りが黒く濁り始めるのを感じた。祈りはいつも彼を支えてきたものだったが、今は泥にまみれて形を失いかけている。頭の中で、かわいい姉弟の笑顔が、まるで刃物で裂かれるように歪んだ。笑顔の輪郭が引き伸ばされ、色が抜け、そこに別のものが差し込まれる。想像の中で笑い声が断ち切られ、皿が割れる音が鳴る。

 息が乱れ、視界が揺れる。夜の空気が急に重くなり、耳鳴りのような低い振動が胸の奥で響く。右手を上げる。ノックしようとしたその瞬間、手首に巻かれた白い布が目に入った。毎朝、娘が笑いながら結んでくれる白い手拭い。薄い綿の布は、何度も洗われて柔らかくなり、端が少しほつれている。娘の小さな指がぎゅっと結んだ結び目の形まで、リチャードは思い出せる。

 その白い布が、夜の光に照らされて淡く光った。布の白さが、周囲の暗さの中で異様に鮮やかに見える。リチャードは両手を握りしめ、額に寄せた。布の感触を想像しながら、彼は自分の胸の中にあるものを確かめるように、ゆっくりと息を吐いた。額に当てた手のひらに、微かな汗の冷たさを感じる。

その姿勢のまま、しばらく動くことができなかった。時間がゆっくりと流れ、遠くで犬が一度だけ吠え、家の中の笑い声が一瞬途切れる。夜気が静まり返り、家の中の温かい匂いだけが、リチャードの胸を締め付け続ける。匂いは甘く、無垢で、同時に残酷だ。彼の中で温かさと痛みが交錯した。

 風向きが変わり、黒い線の先端が庭の土に沈み込んでいるのが見えた。

 その周囲の草は黄色く染まり、月明かりの下でしおれている。

少女がここで倒れた──その事実が、冷たい刃のように胸へ落ちた。

 彼はもう一度、深く息を吸い込んだ。吸い込んだ空気は冷たく、肺の奥で小さな火花のように弾ける。家族の笑顔と、焼かれた少女、白い手拭いの光と、石畳の黒い線、教会の燭台の炎と、冷たい魔力の匂い。すべてが同時に彼の中で鳴り、どちらか一つを選ぶことしかできない。

 胸の奥で祈りが濁る。

 家族の笑顔が、焼かれた少女の像と重なって裂ける。

 息が乱れ、視界が揺れ、耳鳴りが低く響く。

 その濁りの中で、手首の白い手拭いだけが異様に鮮やかに光った。

 娘が結んだ結び目。

「気をつけてね」と笑った声。

 その白さは、リチャードの中に残っていた“人間としての線”だった。

だが──その線は、黒い濁りにゆっくりと沈んでいった。

 リチャードは額を押さえ、 胸の奥で何かが崩れる音を聞いた気がした。

少女を救うことよりも、家族の記憶よりも、祈りの純粋さよりも──

“教会の人間としての自分”が、先に立った。

 それは選択ではなく、濁りに押し出されるような“落下”だった。

 リチャードは右手を扉へ伸ばした。

 木の冷たさが指先に触れた瞬間、胸の奥で最後の抵抗がかすかに震えた。

 だが、その震えはすぐに消えた。

 彼は拳を作り、静かに、しかし決定的な力で扉を叩いた。

コッ──。

 その音は、少女の死へと続く道を自ら開いた音だった。

 そして同時に、リチャード自身が“教会の人間としての自分”を選び取った音でもあった。

 黒い線は足元で震え続けていた。

 まるで「戻れない」と告げるように。

 リチャードは扉の前に立ち続けた。

 その姿は、祈りを濁らせた男の影そのものだった。


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