45 擬態
台所には、煮込みの湯気がゆっくりと漂っていた。
ジャガイモの甘い匂い、人参の青い匂い、豚肉の脂の匂い──
それらが混ざり合い、部屋の空気を温かく満たしている。
マーサは鍋の火を止め、木の匙を置いた。
肩で息をしながら、腰に手を当てる。
「……よし。できたわ。」
その声は、戦場を生き抜いてきた料理番のように落ち着いていた。
メアリーは寝台の端で、まだ呼吸を整えていた。
ラーチェはメアリーのそばで、体をゆっくりと丸めて近づいた。丸い体がわずかに震え、心配しているのが伝わる。
マーサは振り返り、メアリーを指さした。
「ちょっと!助けてあげたんだから、生ゴミくらい出してきてよ。」
メアリーは一瞬、言葉の意味を理解できずに瞬きをした。
台所の床には木樽が置かれている。
ジャガイモの皮、人参の皮、豚肉の脂身──
さっきまでマーサが料理していた名残が、温かい匂いと一緒に樽の中に積もっていた。
メアリーは小さく返事をした。
「……はい……」
ラーチェをそっと寝台に横たえ、自分も立ち上がろうとした瞬間、視界がぐらりと揺れた。
足が床を踏み損ね、膝が石畳に落ちる。
ドサッ。
メアリーはそのまま床にへたり込んだ。
肩が上下し、呼吸が浅い。指先が震えている。
マーサは眉をひそめた。
「ちょっとくらい頑張りなさいよ。生ゴミ出すだけなんだから。それともこのまま人の家に居候する気なの?」
冷たく言い放たれた言葉にメアリーは返事をしようとして、喉がひゅっと鳴った。
メアリーは胸に宝石を握った手を重ね、目を閉じてゆっくりと呼吸する。
まるで世界に広がる小さな声に耳を傾けるようにーー
少しずつ身体の痛みと熱が薄れ、身体に光が灯り始める。
胸の奥で、白い光が細く薄く広がる。
痛みと熱の中で、メアリーは両肩にそっと手を置いた。
白い膜が、胸、腕、腹、足、全身の皮膚の内側に伸び始める。
「……聖なる羽衣」
胸に少しずつ明かりが灯り、身体の重さが少しだけ軽くなる。
メアリーはゆっくり立ち上がった。
足がまだ震えている。
ラーチェがすぐに近づいてきた。倒れそうになったメアリーに、ラーチェは体を寄せて支えようとするように見えた。
丸い体がメアリーの足元にそっと触れる。
メアリーはラーチェの頭らしきところを撫でた。
「ありがとう。……でも、大丈夫……」
その瞬間──
ラーチェのにゅるにゅるした皮の軽く焦げた柔らかい部分に指先が入り込み、皮がズルッと動いた。
ピチャッ。
ラーチェの身体が宙に跳ね上がる。
次の瞬間──
突然ラーチェは身体を床に打ち付けながら暴れ出した。
ビタンッ!
ビタンッ!
ビタンッ!
寝台の上で跳ね、毛布を吹き飛ばし、身体が変な角度に曲がり、尾が空を切る。
メアリーは目を見開き両手を構える。
「ど、どうしよう!?変なところ触っちゃった!?」
マーサは鍋を床に落としそうになった。
「ちょっと!?なにこれ!?魔の…魔の……発作……?」
メアリーの心配とは裏腹にラーチェは寝台の上で、ヒルと魚と猫を混ぜたような動きで暴れ続ける。
ビタンッ!
ビタンッ!
ビタンッ!
「すみません!毛布お借りします!」
メアリーは慌てて毛布を掴み、ラーチェにかけようとするが、ラーチェが跳ねるたびに毛布が宙を舞う。
マーサは咄嗟に台所の椅子を盾のように構えた。
「ちょっと!?家壊れるわよ!?どうしたらいいのこれ!?水? 塩? 祈り?どれが効くの!?」
メアリーは半泣きになりながら毛布を追いかける。
「どうしようどうしようどうしよう……!ラーチェ……ごめん!」
ラーチェは毛布を蹴り飛ばし、寝台から転がり落ち、床の上でさらに跳ねた。
ビタンッ!
ビタンッ!
マーサは顔を青くして叫んだ。
「ちょっと!?魔の子が暴れてるんだけど!?これ本当にどうしたらいいの!?あんたの連れでしょ!?なんとかしなさいよ!!!」
メアリーは混乱しながらラーチェを追いかける。
そのとき──
コンッコンッ。
玄関のドアがノックされた。
2人の動きがピタリと止まり顔を見合わせる。2人は同じ顔色を浮かべていた。
ラーチェはまだ床の上でビタンビタンしている。
マーサは反射的に叫んだ。
「ちょっと待って!着替え中だから!……いや違う、虫が……いや、床が散らかってて……!」
メアリーは慌てて何とかラーチェを毛布で包み、部屋の隅に押し込む。
ラーチェは毛布の中でまだビタンビタンしている。
マーサは椅子を元の位置に戻し、メアリーを椅子に座らせた。自分も向かいに座る。
二人とも息が荒い。
毛布の中でラーチェがまだ跳ねている。
ビタン……ビタン……
マーサは玄関の方へ向かって声を張った。
「はー。もう入っていいわよー!」
部屋の空気は、煮込みの匂いと、汗の匂いと、魔の暴れた残り香で満ちていた。




