43 回遊
鍋をかき混ぜる音が、ゆっくりと耳に入ってきた。
コト……コト……。
豚肉とジャガイモの温かい匂いが、部屋の空気に広がっていく。
ラーチェがメアリーの胸に抱かれたまま、そっと顔を上げた。
その動きにつられて、メアリーも視線を動かす。
まだ世界はオレンジ色にぼやけていたけれど、台所の前に立つ人影がゆっくり形を持ち始めた。
その人影は、鍋をかき混ぜながらこちらを見た。
「……起きたのね」
落ち着いた声の女性だった。
怒っているわけでも、驚いているわけでもない。
ただ、気づいたというだけの声。
その人は鍋の蓋を少しずらし、湯気を逃がしながら言った。
「私はマーサ。さっき、あなたを庭で見つけたの」
メアリーは返事ができなかった。
胸の奥がまだ痛くて、息を吸うたびに夢の残りが喉に引っかかる。
喉に舌がへばりつく。
それに――話そうとすると胸の奥が締め付けられる感覚がしてうまく言葉が出ない。
マーサは続けた。
「名前くらいは、教えてくれる?」
メアリーは声を出そうとするもさらに首が締め付けられる感覚に襲われる。
マーサの声は優しくも聞こえるし、裁判の時の叫び声にも聞こえる。
だんだんと顔が熱くなって息が浅くなる。
マーサは少しだけ息をつき、鍋をかき混ぜながら言った。
「……まあいいわ。今は喋れなくて当然よ。まずは動けるようにならないとね」
メアリーは自分の腕を見て目を見開いた。
包帯が巻かれているが所々垢黄色に染まり始めている。
しょっぱい匂いもする。
「いったーっ、、、」
でも、痛い。動かすと跳び上がるほど痛い。
夢の中の灰がメアリーの頭に蘇る。
再び息が浅くなる。
首が締め付けられる。
胸を押さえようと右手を動かすと何か硬いものが指先に触れた。
首を下に向けるとそこには赤い宝石があった。
「………アリシア…。」
両手でその宝石を優しく握りしめると、首の締め付けが少し楽になった気がした。
胸に熱がこもり、目元が熱くなる。
だめ。今泣いたら何にもできなくなっちゃう。
顔に力を入れ、何とか涙がこぼれるのを我慢する。
熱が戻り、身体の感覚が戻ってきた。
皮膚がひりひりして、熱い。
――動けるように……そうだ。教会でやっていた、あれ。
包帯の上に白魔力の糸を編み込んで、皮膚みたいにするやつ。
やらなきゃ。
動けるようにならないと。
でも――
メアリーは震える指先に魔力を集めようとした。
けれど胸の奥がざわざわして、魔力がうまく形にならない。
痛い。
怖い。
糸にならない。
メアリー思いも虚しく、魔力が虚空に霧散していく。
「そんな……っ。なんで……」
まさか…女神に見放されたから?わたしが“神さま、ラーチェも一緒に”なんて……そんな祈り方をしたから……
メアリーの胸が締め付けられる。
そのとき、ラーチェがメアリーの手に触れた。
黒い影の指先が、包帯の上にそっと重なる。
白い光が、ふわりと広がった。
マーサはその光を見て、手を止めた。
「……なにそれ?」
初めて見るものを前にした、素朴な疑問の声だった。
光はさらに強くなり、包帯の下で皮膚のような光が編まれていく。
「光ってる……? え、なに……?」
マーサは鍋から完全に目を離し、メアリーとラーチェの手元を凝視した。
「それ……教会の白魔力じゃないの?」
ラーチェは何も言わず、白魔力をゆっくり通していく。
マーサの声が少しだけ強くなる。
「あなた……教会の人間だったの?」
メアリーは小さく肩を震わせた。
答えられない。
怖い。
喉がつまる。
マーサは続ける。
「じゃあ……なんでここにいるの?どうしてそんな怪我をしてるの?」
メアリーは視線を落とした。
胸の奥がまた痛くなる。
夢の残りが喉に引っかかる。
ラーチェが白魔力を通し続ける。
包帯の下で光がゆっくりと皮膚の形を作り、
痛みが少しずつ引いていく。
メアリーは、ゆっくりと腕を動かせるようになってきた。
マーサはその様子を見て、小さく呟いた。
「……それで動けるようになるのね」
マーサは鍋に視線を戻しながら、
ぽつりと言った。
「この子…もしかしたら……戦場で使えるかも…」
メアリーは少しだけマーサの方を見た。
まだ怖い。
でも、さっきよりは息ができる。
「……わたし……メアリー……」
それだけ言うのが精一杯だった。
マーサは皿をテーブルに置き、「………そう」とだけ返した。




