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水鏡のメアリー  作者: 風太郎
煩悶

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42 プロローグ 煉獄

 暗い。

 見たことのある暗さ。

 家の床の木目が揺れる。

 父の足音がする。

 教会の鐘が鳴る。

 嵐の風が吹く。

 夏の匂い。

 アギューの患者の汗。

 雨の匂い。

 畑の土の匂い。

 火の匂い。

「―――。」

 神父様が祈る。

「フフフッ!」

 アリシアが笑う。

「ただいま、メアリー。」

 お父さんが名前を呼ぶ。

 みゅーん

 ラーチェの影が伸びる。


 赤、黄、緑、七色の火が見える。

 黒い雲が頭を覆う。

 雨が空に落ちる。

 風が髪を持ち上げる。

 嵐が山に叫ぶ。

 森が赤に揺れる。

 みんなが炎に叫ぶ。

 みんなの身体が墨色になる。

 みんなの手が冷たくなる。

 みんなが大きい炎に変わる。

 村の人が踊りながら泣く。

 寝台が笑う。

 陰が空で舞う

 炎の前に並ぶ人々。

 神父様。

 アリシア。

 父。

 村の人たち。

 指が伸びる。

「メアリーのせいだ」

「どうして」

「助けて」

「ごめんね」

「ありがとう」

「異端だ」

「違うよ」

 声がぶつかる。

 声が砕ける。

 声が溶ける。

 痛い。

 右足首に触れる何か。

 何かが掴む。

 肉が焼ける音。

 何かが這い上がる。

 腰。

 胸。

 肩。

 痛みが身体を覆う。

 掴まれたところが焼ける。

 輪郭が溶ける。

 人のようで人でない。

 影のようで影でない。

 顔の周りに広がる手。

 赤い光。

 黒い影。

 喉が焼ける。

 雨の粒が火のように落ちる。

 息が詰まる。

 胸が焼ける。

 喉が閉じる。

 声が裂ける。

 声が重なる。

 声が途切れる。

 火の中に見える暗い階段。

 誰かが登る。

 誰かが誰かの足を掴む。

 誰かが落ちる。

 上の声。

 下の叫び。

 影の列が歩く。

 背に石を背負う者たち。

 石が火に変わる。

 灰が歩く。

 灰が泣く。

 灰が笑う。

 灰が祈る。

 雨が燃える。

 火が雨になる。

 嵐が歌う。

 赤と黒と灰。

 階段の縁。

 手のひらの熱。

 指先の冷たさ。

 嫌。

 嫌。

 嫌。

 嫌。

 嫌。

 イヤ。

 イヤ。

 イヤ。

 イヤ。

 イヤ。

 イヤ。

 イヤ。

 イや。

 イや。

 いや。

 いや。

 叫ぼうとした。

 でも息が吸えない。

 痛い。

 胸が痛い。

 苦しい。

 助けて。

 誰か。

 誰でもいい。

 助けて。


 身体がゆっくりと炎の泥へと落ちていく。

 足首が焼ける。

 膝が焼ける。

 腰が焼ける。

 胸が焼ける。

 動けない。

 身体が回る。

 息ができない。

 世界が回る。

 熱い。熱い。熱い。熱い。

 苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。

 わたしが崩れる。

 お願い、助けて。

 灰が顔の周りを覆い始めた。



――息が、できない。

 メアリーは跳ねるように目を開けた。

 けれど、目に入るものは何も形をしていなかった。

 光と影がぐにゃぐにゃと混ざって、天井なのか、壁なのか、人なのか、まったく判断できない。

 胸が痛い。

 息が吐けない。

 吸おうとしても吸えない。

 喉がつまっているみたいで、空気が入ってこない。

「……っ……っ……」

 声にならない声が漏れる。

 涙が勝手に流れる。

 顔が熱い。

 世界が揺れる。

 怖い。

 苦しい。

 助けて。

 誰か。

 誰でもいい。

 助けて。

 誰かが近くにいる気配がした。

 でもそれが誰なのか、まったくわからない。

 音も形も、夢の中の火と同じにしか感じられない。

そのとき――

 指先に、ひんやりしたものが触れた。

 黒い影のような、でも優しい感触。

 そこから白い光が流れ込むような感覚がして、胸の奥の苦しさが少しずつほどけていく。

 胸の中に光が宿る。

「―ーー。ふっ、ハーー、ふっ、ハーー・・・・ハーッ、はーっ。」

 空気が胸から吐き出せる。

 胸に温かさが戻り始める。

「はーっ、スンッ…は、は、あーっ」

 安心感からか涙はさっきよりも大粒になっていた。

 世界がゆっくり形を持ち始める。

 そのとき初めて、メアリーは気づいた。

――ラーチェだ。

 影のような姿が、すぐそばにいた。

 気が付いたらメアリーはその影に抱きついていた。

「ラーチェッ!・・・・・・っ……っ」

 冷たい感触がメアリーの頬に触れる。

 涙がまた溢れた。

 ラーチェはされるがまま、ただ静かにメアリーの胸に抱かれていた。

 他に誰かがいる気配がしたが、メアリーにはまだそれを気にとめる余裕はなかった。


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