40 安寧
どれくらい、そうしていたのか分からない。
路地の上の細い空が、少しずつ色を変えていく。
遠くのざわめきが、だんだんと薄れていく。
誰かが、路地の入り口の近くを通った気配がした。
足音。
話し声。
だが、彼らは奥までは入ってこない。
火刑が終わったあとの夕方。
人々は、家路を急ぎ、噂話に夢中になっている。
ラーチェは、その気配が遠ざかるのを待ってから、ゆっくりと体を動かした。
「ここでは、見つかるかもしれない」
路地の奥へ進む。
曲がり角。
さらに細い隙間。
やがて、片側の壁の向こうから、別の気配がした。
土。
草。
水の匂い。
小さな庭。
メアリーも、そこに気づいたのか、かすれた声で言った。
「……草の…匂い………。」
ラーチェは、自分の体を広げて、壁の下のわずかな隙間に入り込んだ。
石と土の間にできた、細い通り道。
そこを通して、自分の一部を庭側に伸ばす。
根を張る草の影。
古い木の根元。
洗い桶の下。
影は、どこにでもある。
ラーチェは、その影と影をつないで、メアリーの体を少しずつ引き寄せた。
痛みで、メアリーは何度も息を詰まらせた。
それでも、「やめて」とは言わなかった。
石の路地から、土の地面へ。
小さな家の、裏庭だった。
畑ほど大きくはない。
洗濯物を干すための棒。
低い木。
踏み固められた土。
その一角に、少しだけ草が茂っている場所があった。
ラーチェは、そこを選んだ。
柔らかい土と草は、石よりも優しい。
メアリーの体を、そっとそこに横たえる。
彼女は、もう、自分ではほとんど動けなかった。
息は荒く、目は半分閉じかけている。
「……ここ、どこ」
かすかな問い。
ラーチェは、庭の影をふるわせて答えた。
「安全なところ」と、思っている。
メアリーには、はっきりとは伝わらない。
それでも、石の冷たさが消えたことは、体が教えてくれた。
土の匂い。
草の匂い。
まだ焦げた臭いも残っている。
けれど、それに混じって、少しだけ「生きているものの匂い」が戻ってきた。
「……ラーチェ」
メアリーは、最後の力を振り絞るように、名前を呼んだ。
「わたし、ちゃんと、謝れるように……」
言葉が途切れた。
「ありがとうって、言えるように……」
そこまで言って、まぶたが重くなる。
ラーチェは、彼女の肩と腰と手首に、自分の黒い布をそっと巻きつけた。
「今は、眠るとき」
そう伝えたかった。
自分自身も、輪郭があちこち薄くなっている。
火の中で削れた部分。
さっきまでの移動で使い果たした力。
黒魔力のざわめきも、今は静かだ。
静かすぎて、逆に心もとない。
それでも、「ここ」にいるためのだけの形は、まだ保てている。
小さな裏庭。
家の中では、誰かが夕餉の支度をしている音がする。
まだ、庭には出てこない。
その隙間の時間。
メアリーの呼吸が、少しずつ深く、ゆっくりになっていく。
眠りに落ちる前の、その境目。
ラーチェは、彼女の手首の黒い輪を、もう一度だけ震わせた。
それは、「また、起きたときに」という合図のようだった。
メアリーは、かすかに笑った気がした。
「……ラーチェと一緒なら」
その先の言葉は、声にならなかった。
まぶたが閉じる。
全身の力が抜ける。
ラーチェも、土と草の影に自分をほどきながら、ゆっくりと意識を沈めていった。
火と煙の記憶は、まだ肌に残っている。
自分を責める言葉も、完全には消えていない。
それでも、この小さな庭の片隅で。
今だけは、「二人でここにいる」という事実が、すべての上に薄くかぶさっていた。
夜の気配が、少しずつ街を包んでいく。
ノーリッチャのどこかで、まだあの日の火の話をしている声があるかもしれない。
でも、この庭に届くのは、草のざわめきと、静かな寝息だけだった。
ろうそくの火が球を描きながら小さくしぼみ始めた。その時、わずかで頼りなく、しかし確かにろうそくに火を移し替えるささくれた手がそこにあった。




