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水鏡のメアリー  作者: 風太郎
悪衆

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39 慈愛

 冷たい。

 最初にそう思った。

 さっきまで、焼けるように熱かったはずなのに。

 今、頬に触れているのは、ひんやりとした石の感触だった。

 鼻にまだ、焦げた匂いが残っている。

 藁。

 布。

 自分の髪。

 それが燃えた匂いが、喉の奥にこびりついている。

 メアリーは、ゆっくりと目を開けた。

 視界は暗かった。

 細長い空が、頭の上に細く伸びている。

 両側には、家の壁。

 どうやら、建物と建物の間の、狭い路地らしい。

 体を少し動かそうとして、全身が悲鳴をあげた。

 腕。

 足。

 首筋。

 ところどころが焼けつくように痛い。

 服は焦げ、皮膚に張り付いている。

 「……ここ、は」

 声が、かすれた。

 どこか遠くで、人々のざわめきと、鐘の音が聞こえる。

 さっきまでいた広場だろう。

 火刑の……場。

 その言葉を思い出した瞬間、胸の奥が冷たくなった。

 「わたし……」

 どうして、ここにいるのか。

 どうして、まだ息をしているのか。

 記憶は、ところどころ途切れていた。

 柱。

 縄。

 火。

 煙。

 祈りの声。

 「魔」と「神さま」の名前が、一緒に並べられる、冷たい言葉。

 それから——

 箱。

 背中に感じた、硬い木の感触。

 自分の後ろにいたはずの、あの黒い気配。

 「ラー…チェ……?」

 メアリーは、かすれた声で呼んだ。

 すぐそばで、黒いものがかすかに震えた。

 石畳の上に、薄く広がった影。

 それが、ゆっくりと寄ってくる。

 彼女の視界の端から、黒い輪のかけらが、手首のあたりにまとわりついた。

 「……いるんだね」

 メアリーは、ほっと息を漏らした。

 その途端、別の感情が、一気に胸の奥からこみ上げてきた。

 「っ………ごめんなさい」

 声が震えた。

 「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 自分でも、何に対して謝っているのか、最初はうまく言葉にならなかった。

 ただ、そう言わずにはいられなかった。


 「わたしの、せいだ……」

 メアリーは、石畳に額を押しつけるようにして呟いた。

 痛みが走ったが、構わなかった。

 「わたしが、あんな祈り方をしたから。……“神さま、ラーチェも一緒に”なんて……」

 火の前で、自分の言葉が繰り返されたときの、あの冷たい感覚が戻ってくる。

 大勢の前で、「いけない」と突きつけられた瞬間。

 子どもたちが「床の神さま」と呼んだとき、一瞬だけ「うまい言い方だ」と思ってしまった、自分の顔。

 全部、自分の中にあった。

 それが、今こうして形になってしまった。

 「ラーチェも、焼かれるはずだったのに。…っ……わたしが、巻き込んだのに。…一緒に火にかけられて……」

 そこまで言いかけて、喉が詰まった。

 火の中で何が起きたのか、全部は思い出せない。

 ただ、熱と、眩しさと、煙の中で。

 背中の方から、何かがぎしぎしと動いた気配。

 縄が、切れる音。

 自分の体が、どこかへ引かれていった感覚。

 「ラーチェが、助けてくれたの?」

 メアリーは、かすれた声で続けた。

 「わたしなんかの、せいで、こんな目にあってるのに……」

 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。

 村を出るとき、守ると決めたのは自分だった。

 「ラーチェは、わたしが守るから」

 そう言ったはずなのに。

 守れなかった。

 むしろ、ラーチェをもっと悪い場所へ連れてきてしまった。

 ノーリッチャの臭い。

 広場の炎。

 人々の目。

 全部、自分が選んだ道の先にあった。

 「ごめんね……」

 石畳の上に、ぽとりと涙が落ちた。


 その涙のすぐそばで、黒い影が静かに揺れた。

 ラーチェは、メアリーの言葉を静かに受け止めていた。

 「いけない」

 「わたしのせいで」

 「ごめんなさい」

 そのあたりの音だけが、はっきりと耳に残る。

 けれど、言葉の意味よりも先に、彼女の輪郭全体から伝わってくるものがあった。

 縮こまる。

 自分を抱き締めるような、硬い力。

 それが、ラーチェには痛かった。

 「違う」

 そう伝えたかった。

 火の中で形を変えたときと同じように、ラーチェは自分の体を変えた。

 今度は、刃の形ではない。

 床に落ちた布の端のように、やわらかい線。

 それを、メアリーの背中と肩にそっと巻きつける。

 焦げた服の上から、黒い布が覆う。

 石畳の冷たさが、少しだけ和らいだ。

 メアリーは、驚いたように身じろぎした。

 「ラーチェ……?」

 黒い布は、ゆっくりと動いた。

 さするように。

 「ここにいる」

 「離れていない」

 言葉にならない感触だけが、じんわりと伝わってくる。

 手首のあたりにも、別の黒い輪が生まれた。

 小さな輪。

 火の中で、うまく作れなかった形。

 今は、かろうじて、そこにある。

 ラーチェは、その輪を、赤い宝石とともにメアリーの指に絡めた。

 いつか、子どもたちが遊んでいた輪っか。

 首にかけてアリシアと笑い合った、小さな飾り。

 それを、思い出した形。

 「守れなかった」のではない。

 「まだ、守っている」のだと。

 ラーチェなりに、そう伝えようとした。

 メアリーは、震える指で、その黒い輪にそっと触れた。

 「……まだ、いるんだね」

 彼女の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。

 「わたしを、……置いていかなかったんだね」

 ラーチェは、輪郭を一度、強く震わせた。

 肯定のつもりだった。

 「ごめんなさい」は、何度も聞いた。

 でも、「ありがとう」は、まだ聞いていない。

 だからこそ、ラーチェは、その二つの間に体を滑り込ませるように、メアリーに寄り添った。

 「いけない」

 「わたしのせいだ」

 その言葉の間に、「ここにいる」という感触を挟み込む。

 それが、今のラーチェにできる、唯一の慰めだった。


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