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水鏡のメアリー  作者: 風太郎
悪衆

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38 原罪

 熱い。

 そう感じたときには、もう箱の中は赤い光で満ちていた。

 木の板の隙間から、炎の色がにじむ。

 藁と油と布が一緒に焼ける匂い。

 その中に、メアリーの肌と髪の匂いが混じっている。

 ラーチェは、狭い木箱の内側にへばりついていた。

 箱ごと、柱に、メアリーと一緒に縛りつけられている。

 背中側には、硬い感触。

 その向こうに、メアリーの背中と柱。

 縄が、ぎゅうと締め付けている。

 「ラーチェ」

 火がつく前、メアリーは一度だけ名前を呼んだ。

 ただ、それだけ。

 ラーチェは、箱の中で輪郭を震わせて返事をした。

 今は、声も出せない。

 煙が、箱の隙間から入り込んできた。

 黒い。

 けれど、ラーチェの黒とは違う。

 熱と一緒に、刺すように肺のない体に入り込んでくる。

 ここに長くいてはいけない、と本能が告げる。

 「出る」

 形を変えれば、外へ出られる。

 ラーチェは、体を丸めるのをやめた。

 黒い輪が、四方へじわりと伸びていく。

 板と板の継ぎ目に沿って、細い線になる。

 それでも足りない。

 「切る形」

 頭の中に、見慣れたものの形が浮かんだ。

 メアリーが、床に落ちた糸を拾い上げていたとき、使っていたもの。

 前世で袋の封を切るときによく使っていたもの。

 布を切る、銀色の道具。

 ハサミ。

 ラーチェは、その形を真似た。

 黒い線が、箱の隅で折れ曲がり、二本の刃のように重なり合う。

 関節のように、真ん中でかすかにくびれる。

 そこに、黒魔力をぎゅっと集める。

 「はさむ」

 板の隙間から顔を出している縄に、その黒いハサミを押し当てた。

 ぎり、と繊維が軋む。

 熱で乾いた縄は、意外と硬い。

 ラーチェは、さらに力を込めた。

 黒い刃の内側が、じわりと赤くにじむ。

 炎の熱が伝わってきている。

 けれど、止めない。

 縄の一本が、ぷつん、とちぎれた。

 柱と箱を締めていた力が、ほんの少しだけゆるむ。

 メアリーの背中が、かすかに動いた。

 「……っ」

 声にならない声。

 それでも、ラーチェには分かった。

 まだ、彼女はここにいる。

 「もっと切る」

 今度は、柱に回された太い縄の方へ、黒い刃を伸ばした。

 炎が、外側でうなりをあげる。

 箱の板が、ぱき、と割れる音。

 割れ目から、炎が舌のように差し込んできた。

 ハサミの片側が、焼けて崩れ落ちる。

 黒い灰になって、箱の底に散った。

 痛い。

 だが、痛みで形を手放してはいけない。

 「ラーチェ。……後は頼んだぞ」

 神父の言葉が不定形な胸の中で反芻する。

 ラーチェは、残った方の刃を、もう一度伸ばした。

 今度は、鎌の形。

 大きな弧を描く、曲がった刃。

 前世でよく畑で使っていたもの。

 村の雑草を払う、銀の弓。

 それを思い出す。

 黒い弧が、箱の外へすっと伸びた。

 炎と煙の中、縄をなでるように滑る。

 ごり、と繊維が削れた感触。

 もっと深く。

 ラーチェは、鎌の内側に力を込め、引いた。

 ざくり。

 太い縄が、半分ほど切れた。

 その瞬間、柱全体が、ぐらぐらと揺れた。

 足元で薪が崩れ、炎がまた高く上がる。

 メアリーの体が、前に倒れそうになる。

 まだ残っている縄が、それを止める。

 ラーチェは、切りかけの縄に、もう一度鎌を押し当てた。

 黒い刃が、熱でじくじくと泡立つ。

 痛みはある。だが、痛みは“形を保つための合図”にすぎない。

 輪郭の一部が、また灰になる。

 それでも、引いた。

 ぷつん。

 太い縄が、完全に切れた。

 箱の締め付けが、一気にゆるむ。

 背中側に空間が生まれる。

 ラーチェは、黒い鎌を細かく砕き、また輪郭をばらばらの糸に戻した。

 それを、箱の割れ目から一気に外へ押し出す。

 外は炎と煙で完全に覆われていた。

 だが、その下には地面がある。

 石畳。

 ラーチェにとって、なじみ深い「床」の感触だ。

 黒い糸は、炎の舌の間をすり抜け、石の表面までたどり着いた。

 そこから、一気に広がる。

 影の薄い布のようになって、柱の根元に張り付いた。

 「落とす」

 ラーチェは、自分を滑り台のようにした。

 箱の残骸とメアリーの体を、柱の正面から、背後へと滑らせる。

 表側では、まだ火が燃えている。

 群衆の目は、そちらに釘付けだ。

 誰も、柱の真後ろの動きは見ていない。

 メアリーの体が、ラーチェの上を滑った。

 重い。

 かすかに、彼女の指がラーチェの身体に触れる。

 焼けた布が、ところどころ皮膚に張り付いている。

 熱で、息が荒い。

 それでも、まだ生きている。

 ラーチェは、布のような自分の一部を、彼女の体に巻きつけた。

 今度は、細い縄を切る番だ。

 手首と足首に残った縄。

 黒い刃を、小さく何本も生やす。

 ハサミでも、鎌でもない。

 ただの、細かな刃。

 それで、繊維を一筋ずつ、こそぎ取るように切っていく。

 じりじりと焼ける痛み。

 刃の一本一本が、使うたびに欠けていく。

 それでも、ラーチェは止まらない。

 メアリーの手が、石畳に触れた。

 自由になった指が、焦げた石をかすかに掴む。

 次の縄が切れ、足が緩む。

 彼女は、自分の体を、石畳の方へ引きずった。

 ラーチェは、その動きに合わせて、自分の布をさらに広げる。

 柱の背後から、石畳の影へ。

 そこは、炎の光が届きにくい場所だ。

 「影の方へ」

 「見えないところへ」

 ラーチェは、自分の全身を薄く伸ばし、彼女を包む。

 群衆のざわめきは、まだ続いている。

 「燃え尽きたか?」

 「黒いのも一緒に消えたか?」

 そういう声が、離れたところから聞こえた。

 誰も、柱の裏側で、黒い影と女の体が石畳を這っていることには気づかない。

 煙と炎と「見たつもり」の光景が、彼らの目を塞いでいる。

 ラーチェは、建物の影へ向かって、自分を引き伸ばした。

 布の端が、路地の口に届く。

 そこから先は、いつもの「床の世界」だ。

 石と影が続いている。

 ラーチェは、メアリーの体をその上に乗せ、ゆっくりと闇の中へと運んでいった。

 箱の残骸は、まだ柱の根元で燃え続けている。

 誰かが、あとからそれを見て、「黒いものも一緒に焼けた」と言うだろう。

 あるいは「女が魔のものを連れて逃げた」と言われるかもしれない。

 それでいい。

 ラーチェは、そう思った。

 自分がどこまで残っているのかは、もうよく分からない。

 たくさん欠けて、形もばらばらだ。

 でも、「メアリーのそばにいる」ということだけは、まだ続いている。

 路地の暗がりで、メアリーを下ろし、ラーチェはようやく一度だけ、輪郭を丸くしようとした。

 うまくいかなかった。

 かけた輪。

 それでも、メアリーの腕のあたりに、小さな黒い輪が、かろうじて形を作った。

 それは、燃え残った祈りの形のようだった。


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