37 審判
朝から街が落ち着かないのは、エドリンにも分かった。
広場に近い店は、いつもより早く戸を開け、逆に、路地の奥の家は戸口からこちらをうかがう顔が多い。
「教会が“魔”を連れてきたらしい」
そう言ったのは、向かいの店の主人だった。
「“床にいる黒いもの”が、広場で吐いたんだとよ」
「黒い塊を、どろっとな。そこから火が出たって話だ」
火。
エドリンは、その言葉に胸がざわついた。
火は、寒さを追い払う。
だが、何かを焼き尽くすときの火は、得体が知れない。
「教会前で、審問があるらしい」
別の声がした。
「ただの説教じゃないぞ。ちゃんとしたやつだ」
「ちゃんとしたやつ」というのが何か、エドリンはよく分かってはいなかった。
ただ、人がたくさん集まるときに鳴る鐘の音が、すでに頭の中で鳴っている気がした。
仕事は昼前まででよかった。
店主も、「今日は早じまいだ」と言った。
「こんな日に無理に売ったって、客はみんな教会に行っちまう」
エドリンは、ほこりっぽい布で手を拭きながら、胸の奥が少しだけ高鳴るのを感じた。
大きなことが起きるとき、自分はいつも、遠くから見ているだけだった。
今日は、近くで見られるかもしれない。
「ちょっとだけ、様子を見てきます」
そう言って、通りに出る。
人の流れは、もうできていた。
皆、教会の方角へ歩いている。
足取りはまちまちだ。
早足の者もいれば、慎重に様子をうかがいながら進む者もいる。
エドリンは、その中に紛れた。
教会前の広場は、すでに人でいっぱいだった。
真ん中は空けられ、柵のように木の棒が並べられている。
向こう側には、教会の扉。
その上に掲げられた十字架。
扉の前に、椅子がいくつか並んでいる。
「偉い人たち」が座る席だと、エドリンは思った。
広場の端には、さっき話に聞いた黒い痕がまだ残っていた。
石畳の一角が、墨をこぼしたように黒ずんでいる。
その周りだけ、人の輪が少し空いていた。
近づきたいが、近づきたくない。
誰もがそう思っている距離だ。
エドリンも、そこには行かなかった。
できるだけ前の方へ寄って、背伸びをしなくても見える場所を探した。
同じくらいの年の青年たちが、周りに何人かいる。
皆、目の色が似ていた。
怖いもの見たさ。
「魔が燃えたところか」
誰かが呟いた。
「燃えたのは、黒い塊だけだってよ」
「でも、赤黒い火だったんだろ」
「普通の火じゃねえってことだ」
そういう言葉は、エドリンの耳にも入ってきた。
自分も、見たような気持ちになって、うなずきたくなる。
見ていないのに、半分は見たような顔をして。
広場のざわめきが、鐘の音にかき消された。
教会の塔から、重い音が降ってくる。
人々の声が、自然と少し小さくなる。
扉が開いた。
最初に出てきたのは、ノーリッチャの偉い司祭たちだった。
真っ白な衣と、飾りのついた帽子。
その中に、いつも名前だけ聞いていた「教区長」と呼ばれる男もいるのだろうと、エドリンは思った。
誰が誰かは分からない。
だが、皆、自分とは違う世界の人間だということだけは分かった。
その後ろに、三つの影が見えた。
ひとりは、落ち着いた顔の男。
年は、父親より少し上くらいか。
黒い法衣を着ている。
もうひとりは、若い女。
自分とそう変わらない年に見える。
その顔は、強ばっていた。
最後に——
エドリンは、目を凝らした。
床に、何かがまとわりついている。
影が、影でないように動いていた。
よく見ると黒い紐の様なものを左右に大きく振っている。
女がそれをみて黒い何かを強く叩く。
「……あれか」
誰かが、小さく言った。
「“床の魔”だ」
その言い方は、エドリンの中に、すとんと落ちた。
そうか、あれが「魔」か。
そう思うと、ほんの少しだけ、ぞくりとする。
怖さと、期待とが入り混じった、変な感覚。
椅子に偉い人たちが座り、その前に三人が立たされた。
床の黒いものは、若い女の足元にぴたりとくっついている。
時折背中から人の手の様なものを出し、中指を立てていろんな方向に振り回している。
女はそれをみてまた黒い何かを叩いた。
まるで“魔を手懐けている”ように見えて、エドリンはぞくりとした。
何を意味する仕草かは分からない。
だが、「人を馬鹿にしている」ということだけは、なぜかはっきり伝わった。
きっと“魔”には、こういう礼儀があるのだろうと、エドリンは勝手に納得した。
司教代理らしき男が、前に出て声をあげた。
「これより——」
何か長い言葉が続いた。
「審問」「教義」「裁き」「証し」
エドリンは、そのあたりの言葉は聞き慣れている。
教会に通うたび、耳にはしているからだ。
意味も、だいたい分かっているつもりだ。
司教代理が、「ラーチェ」という名を口にした。
エドリンは、小さくうなずいた。
ああ、あれがそうか。
「この存在は、教義に定められたものではない」
「黒魔力を内に秘めている」
「さきほど広場で、その一端を吐き出し、赤黒い炎となって顕れた」
そうした言葉は、エドリンの頭の中で、きれいな形をして並んだ。
教会で聞いてきた言い回しに似ているからだ。
「教義にないものは、危うい」
「黒い力は、魔の側に属する」
難しいことを言っているようでいて、「危ないからだめだ」という話だと、エドリンは理解した。
それで、十分分かった気になった。
次に、黒い法衣の男——異端審問官だと誰かが囁いた——が前に出た。
「ベレスフォード領教会司祭、ジョン」
「見習い、メアリー」
名前が呼ばれる。
エドリンは、「ジョン」と「メアリー」という音を、心の中で繰り返した。
どこかで聞いたことのあるような、ないような。
審問官は、落ち着いた声で話し始めた。
「ここノーリッチャにおいて」
「我らは、魔的なものと、その影響を受けた者について、正しく見極めねばならない」
「民草の前で、教会が迷わぬことを示さねばならない」
「正しく」「迷わぬ」
そういう言葉は、エドリンにとって心地よかった。
分かりやすい。
自分たちの前で、「ちゃんとやってくれている」と思えるからだ。
審問官は、まずジョンに問いかけた。
「あなたは、ラーチェと呼ばれる存在が、黒魔力を内に秘めていることを認めますか」
ジョンは、はっきりと「はい」と答えた。
エドリンは、その素直さに少し驚いた。
隠そうとするのかと思っていた。
だが、それがかえって、「なら、なおさらだ」と思わせる。
「黒いものだと知っていて、村に置いておいたのか」
エドリンは、心の中でそう呟いた。
審問官は、さらに続ける。
「教義の外にあるものを、“村の守りのため”と称して用いることを、あなたは正しいと考えた」
「それは、今も変わらぬのか」
ジョンは、少し目を伏せ、それから顔を上げて答えた。
「当時の判断としては、最も村を守れると考えました」
その言い方が、エドリンには、難しく聞こえた。
「最も村を守れる」
それは、「間違っていなかった」と言いたいのか、「間違っていたかもしれない」と言いたいのか。
だが、審問官が「判断に誤りがあった」と言ったとき、エドリンは「そういうことだ」と納得した。
難しい言い方は、結局「間違っていた」と同じなのだと。
自分でも、そういう話し方をしてみたいと思った。
難しい言葉で、少し回り道をして、「でも、言いたいことは分かるだろう」と言ってみたい。
次に、若い女——メアリーに、目が向けられた。
エドリンは、息を少し止めた。
自分とそう変わらない年に見える彼女が、こんな場所に立たされていることが、どこか不思議だった。
「お前は、ラーチェをどう呼んでいた」
審問官の声が広場に響く。
静まり返った空気の中で、その問いははっきりと聞こえた。
「……い、今は、“ラーチェ”とだけ呼んでいます」
メアリーの声は小さかったが、はっきりしていた。
「最初は」
審問官が、穏やかに重ねる。
「“ラーチェさま”や“床の神さま”という言葉を、耳にしたことは」
「…あります」
メアリーは、正直に言った。
「…こ、子どもたちがそう呼ぶのを、き、聞いて、一瞬、“うまい呼び方だ”と思ってしまいました」
「だが、それがよくないと分かり、言い直したと」
審問官が、彼女の言葉を整理してみせる。
エドリンは、「ああ、そういうことか」と思った。
自分だって、うまいあだ名をつけたくなることがある。
それが、たまたまよくない方向の響きを持っているときもある。
「けれど、この場合は、相手が“魔”だった」
エドリンは、頭の中でそう結論づけた。
だから、いけなかったのだ、と。
審問官は、さらに続けた。
「あなたは、祈りの中で、“神さま、ラーチェも一緒に来てくれたら”と願ったことがあると証言している」
「それは事実か」
エドリンは、その言い回しに、どこか胸がすく思いを感じた。
「証言」「事実」
そういう言葉は、物事をきちんと決めるときに使われる。
自分も、いつか誰かに向かって、「それは事実か」と言ってみたい気がした。
メアリーは、顔を上げて言った。
「……は…い」
「そのとき、わたしは、怪我人の痛みが引いてほしくて」
「“神さま、ラーチェも一緒に来てくれたら”と、心の中で思いました」
広場のどこかで、小さなざわめきが起きた。
エドリンも、胸の奥がひやりとした。
「神さま」と「魔」を並べた。
そういう話だと、自分なりに理解した。
審問官は、少しだけ声を落とした。
「それは、“神と魔を、祈りの中で並べた”ということだ」
「あなたは、その意味を、今は理解しているか」
メアリーは、唇を噛んだ。
「……い、いけないことだったと、今は、わ、分かっています」
その答えは、エドリンにもすっと入ってきた。
「いけない」と分かった。
ならば、「いけないことをした」ということだ。
難しい言葉はいらない。
審問官は、群集の方へ視線を向けた。
「皆も、聞いたな」
広場のあちこちで、小さなうなずきが連鎖する。
エドリンも、周りに合わせるように、首を動かした。
「この者は、若く、教義の学びも半ばである。だが、“神と魔の名を並べることが何を意味するか”、今は理解していると、自ら口にした。そのうえで、我らは裁きを下さねばならぬ」
その言い回しは、エドリンの胸に強く響いた。
「理解しているなら、もう分かっているはずだ」
そういうことだ、と。
自分にも、「分かっている」つもりになれる心地よさがあった。
難しい話を聞いて、自分なりに意味を整理して、「つまりこういうことだろう」とまとめる。
それが、今の自分には気持ちよかった。
偉い司祭が立ち上がり、前に出た。
さっき会議室で決められた言葉を、そのまま読み上げるつもりで。
もちろん、エドリンは、そんなことは知らない。
彼にとって、それは「今ここで決まる」ことだった。
「ラーチェと呼ばれる存在は」
司祭の声が、広場全体に響く。
「教義の外にある、魔的なものと認める。黒魔力を内に秘め、その一部を吐き出し、赤黒い炎として顕した。これは、主の側に置かれるべきものではない」
エドリンは、「その通りだ」と心の中で思った。
見てもいない炎を、見たような気持ちで。
「メアリー」
名前が呼ばれる。
若い女の肩が、ぴくりと揺れた。
「お前は、その魔と親しく交わり、その助力を願った。祈りの中で、神と並べて名を口にした。教義を学ぶ者として、その重さは理解しているな」
メアリーは、かすかにうなずいた。
声は出なかったが、それで十分だった。
エドリンは、「分かっているなら、仕方ない」と思った。
自分だって、悪いことをして叱られるとき、「分かっています」と言う。
そのあとで受ける罰を、「しょうがない」と飲み込む。
それと同じだ、とどこかで感じていた。
「司祭ジョン」
司祭の視線が、黒い法衣の男に向く。
「お前は、教義の外にある存在を、“村の守りのため”と称して用いた。黒魔力を内に秘めていると知りながら、排斥しなかった」
エドリンは、「称して」という言葉の響きが気に入った。
「本当は違うのに、そう言ってごまかしていた」という意味だと、自分なりに理解した。
その理解は、本当は少し違っていたかもしれない。
だが、エドリンは、それで十分だと思った。
「しかし、お前は、危うさを知りつつ上に報せ、判断を委ねた。主への信仰を捨てたわけではない。ゆえに、処分は異なる」
そうした言葉が続く。
エドリンは、「つまり、あの司祭は焼かれないのだな」と理解した。
難しい理屈がいくつも挟まれたが、最後の「処分は異なる」というところだけ聞いていれば、意味は分かった。
「ラーチェとメアリーは、魔とその関わりを断つために聖なる火により、処す」
その言葉が落ちたとき、広場に、目に見えない波が走った。
誰かが息を呑み、誰かが小さくうなずいた。
エドリンは、自分の胸の中に生まれた奇妙な感覚を、うまく言葉にできなかった。
怖さ。
納得。
少しの興奮。
「やっぱり、そうなるのか」と思う自分と、「本当にやるのか」と思う自分が、胸の中でぶつかっている。
だが、口から出たのは、別の言葉だった。
「……仕方ないな」
自分でも驚くほど、平坦な声。
その言葉にすがらないと、足がすくみそうだった。
隣にいた青年が、うなずいた。
「そうだな」
「魔をそのままにしておくわけにはいかねえし」
「神さまと魔を一緒に呼んだんだろ」
「いけねえことだ」
エドリンは、うなずきながら、自分の中で「分かったつもり」を固めていった。
難しい言葉は、半分も覚えていない。
でも、「魔」と「神」と「火」と「仕方ない」は、ちゃんと胸に残った。
それで、十分分かった気がした。
本当は、何ひとつ自分の頭で確かめてはいないのに。
床にまとわりついていた黒いものが、かすかに震えた。
エドリンは、それを“怒りの震え”だと思った。
若い女の横顔は、青ざめていた。
司祭の顔は、どこか遠くを見ていた。
エドリンは、それぞれの表情を見ながら、「これが“正しいこと”なのだ」と、必死で自分に言い聞かせた。
そうしないと、足元がふらつきそうだったからだ。
鐘が、再び鳴った。
今度の音は、「始まり」ではなく、「終わり」と「次の始まり」を告げる音に聞こえた。
火が灯されるのは、もう少し先だろう。
だが、エドリンの中では、すでにひとつの答えが固まっていた。
「今日は、何か大事なものを見た」
そう、いつか誰かに話せるだろうと、思い込んでいた。
まるで、自分も“正しい側にいた”かのように。
自分が本当に何を見たのかを、深く考えないままに。




