36 火種
ノーリッチャ大教会の一角、外の喧噪から最も遠い石造りの小部屋に、数人の聖職者が集まっていた。
簡素な長机と椅子。
壁には十字架と、教会の紋章。
窓は高く小さく、差し込む光はわずかだ。
ウィリアム教区長は、机の上に数枚の文書を広げていた。
ベレスフォードからのジョンの報告。
リチャードがまとめた中間報告。
そして、さきほどノーリッチャの広場で起きた出来事についての、衛兵と書記による手早い記録。
「——黒い塊を吐き出し、赤黒い炎に包まれた」
ウィリアムは、その一節をゆっくりと読み上げた。
同席しているのは、ノーリッチャ大教会の司教代理と、数人の高位司祭だ。
司教代理が、眉間に皺を寄せる。
「黒魔力の顕現と見て、間違いありますまい」
「教会前の広場で、あれだけの人間が目撃しております」
別の司祭が、声を低くした。
「噂は、もう街じゅうに広がりつつあるでしょうな」
「“教会が魔を連れてきた”と」
その言葉に、室内の空気がわずかに重くなる。
ウィリアムは、机の端を指で一度叩き、静かに言った。
「現実的に考えよう」
「本来であれば、異端審問は“教義からの逸脱”を調べ、その上で裁きを決める」
「しかし今回は——」
視線が、文書の上を滑る。
「すでに“魔の徴”が、この街の広場で露わになってしまっている」
司教代理が、短く息を吐いた。
「民草の前で、あれほどのものを見せておいて、なお“慎重な審問の末に、無罪とする”などと言えば」
「教会そのものへの不信を招きましょう」
別の司祭がうなずく。
「“自分たちの可愛い者には甘い”と」
「“魔と通じた者をかばっている”と」
「広場に残った黒い痕は、すでに民の目に“証拠”として刻まれている」
ウィリアムは、顔を上げた。
「では、問おう」
「ラーチェと呼ばれる存在について」
「我らは、これを“教義の外にある魔的なもの”と認めるか」
沈黙が、短く流れた。
やがて、司教代理が口を開く。
「白魔術の補助的働きをしていたことは、報告からも分かります。しかし、それが“主の御業”によるものか、“別の力”によるものかは、さきほどの顕現で明らかになりました。黒魔力を内に秘め、それを吐き出すような存在を、“神の側”に置くわけには参りません」
「同意します」
ほかの者たちも、次々にうなずいた。
「民衆の目から見ても、“魔”と判断されるでしょう」
「彼らは、細かな神学を学んではいない。だが、あの炎を見て、“聖なるもの”とは思わない」
ウィリアムは、ゆっくりと結論を口にした。
「ラーチェは、ここノーリッチャにおいて、“魔と認められた存在”として扱う」
「処分は」
「処刑とする」
その言葉に、室内の空気がさらに沈んだ。
異論は出なかった。
「では、ラーチェに関わった者たちについて」
ウィリアムは、次の文書を手に取った。
リチャードの報告だ。
「司祭ジョン」
「教義の外にある存在を、“村の守りのため”と称して留め、白魔術の補助として用いてきた。ただし、明白な異端宣言は行っていない」
司教代理が、慎重に言葉を選ぶ。
「ジョン司祭は、教義の危うさを理解し、上に報せもしております。隠蔽ではなく、判断の委譲を試みた点は、考慮すべきでしょう」
別の司祭が続けた。
「彼が本心から“神はひとつである”と信じていることも、言葉の端々から見て取れます。ただ、判断に甘さがあった。教義にないものを、暫定的にでも“用いる”という発想自体が、危険です」
ウィリアムは、ゆっくりとうなずいた。
「異端として焚刑に処すほどの明白な反逆はない。だが、完全に無罪放免というわけにもいくまい」
「提案がある」
司教代理が口を開く。
「ジョン司祭を、ベレスフォードへは戻さず、しばらくは上位の教会の監督下に置き、行動を制限するのはいかがでしょう?表向きは、“体調不良による静養”“教義研鑽のための滞在”という形を取れる。教会が、“危うい橋を渡った司祭”を、そのまま野に放たぬという姿勢も示せます」
他の司祭たちが、肯定の声をあげる。
ウィリアムは少し考え、やがて頷いた。
「ジョン司祭は、“教義に対する理解と誠実はあるが、判断に誤りを犯した者”として扱う。処刑ではなく、監視付きの釈放。一定期間、本部近くの修道院に留め、外での職務を禁ずる。期間と内容は、追って定める」
次に、ウィリアムは別の紙に目を落とした。
「見習いメアリー」
文字を追うにつれて、その目がわずかに細くなる。
「ラーチェと感情的な結びつきを持ち、“神さま、ラーチェも一緒に来てくれたら”と祈ったことがある。“床の神さま”という呼び方を、“一瞬うまい言い方だと思った”」
書かれているのは、リチャードが道中で引き出した言葉たちだった。
司教代理が、ため息をひとつこぼす。
「年若い者の迷い、とも言えますが。しかし、彼女は“監視役”として本部へ呼ばれている」
別の司祭が、静かに続ける。
「その目で見たもの、感じたものを通して、ラーチェの性質を測ることが、ひとつの目的だった。そして、さきほどの嘔吐と炎の光景の直前まで、彼女はその傍にいた」
ウィリアムは、書面から顔を上げた。
「——民衆の目から見れば」
低い声。
「“魔と親しく語らっていた若い女”がいる、ということになる」
沈黙。
「教義の上から見ても」
ウィリアムは続けた。
「黒魔力を内に秘めた存在に対し、情を寄せ、“守りたい”と口にした者だ。ジョン司祭と違い、信仰も判断も、まだ固まりきっていない」
司教代理が、慎重に言葉を継ぐ。
「……救い上げる道は」
誰かが、かすかに問うた。
「“若さゆえの過ち”として、修道院に送るなど……ここで、甘さを見せれば」
ウィリアムの声は、きっぱりしていた。
「“魔と交わった者も、情状酌量で許される”という前例を、この街に刻むことになる。ノーリッチャは、ロンドゥン周辺の信仰を支える要の地だ。ここで線を引けなければ、どこで引く」
誰も、すぐには反論しなかった。
やがて、司教代理が静かにうなずく。
「では、教区としてはラーチェと見習いメアリーを、“魔への関与”として、同時に裁く」
「処罰は」
「処刑」
ウィリアムが、最後の言葉をはっきりと告げた。
「ラーチェは、“魔的存在”としての処分。メアリーは、“魔と交わり、その助力を願った人間”として処分する。裁判は同日に行う」
「ジョン司祭は、その場で最終の問いを受けたのち監視付きの釈放とする」
机の上には、いくつかの案があった。
その中から、もっとも「教会の威信と、街の安定を守る」案が選ばれたにすぎない。
そこに、メアリー一人の若さや、ジョンの迷いに対する情は、ほとんど入り込む余地がなかった。
「リチャード」
ウィリアムは、扉の外に控えていた異端審問官を呼んだ。
リチャードが入室し、静かに一礼する。
「決まった」
ウィリアムは、簡潔に告げた。
「ラーチェと見習いメアリーは、処刑とする。ジョン司祭は、審問ののち、監視付きで釈放。形式上の審問と告知、そして民衆の前での執行を、順に整えよ」
リチャードは、一瞬だけ目を伏せ、それから顔を上げた。
「承知いたしました。審問の場では、彼ら自身の口から、必要な言葉を引き出します。“教会が正しく裁きを行った”と、誰の目にも分かるように」
ウィリアムは、短く頷いた。
「やり過ぎるな」
いつかと同じ言葉。
「魂にとどめを刺すのは、火ではなく、主の御前での裁きだ。我らは、その手前の務めを果たすだけでよい」
「畏まりました」
リチャードは、淡々と答えた。
その目には、感情の色はほとんど浮かんでいなかった。
ただ、これから行うべき手順を、ひとつひとつ頭の中で並べ替えているだけだった。
部屋を出る直前、リチャードはふと足を止めた。
「教区長」
「ひとつ、確認を」
ウィリアムが顎をわずかに上げる。
「ジョン司祭が、最後の場で、“自らの誤り”を認めた場合メアリーの処遇に、何らかの変更の余地は」
ウィリアムは、短く首を横に振った。
「ない」
それだけだった。
「民衆は、すでに“処刑が行われる”ものとして、この騒ぎを見ている。今さら引き返せば、炎は街に撒かれるだろう。我らにできるのは——せめて、その炎を“ひとつの場”に集めることだけだ」
リチャードは、静かに一礼して部屋を出た。
扉が閉まり、再び小さな部屋に静寂が戻る。
ウィリアムは、机の上の文書を重ね、封をする準備を始めた。
ノーリッチャでの“決定”は、この短い会議の中で、すでに固まっていた。
これから行われる審問も、群衆のざわめきも、ラーチェの震えも、メアリーの涙も。
その結末だけは、もう変わらないこととして、静かに書き記されてしまったのだった




