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水鏡のメアリー  作者: 風太郎
悪衆

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35 後悔

 ノーリッチャの広場での一件のあと、わたしたちはすぐに教会脇の建物へと連れて行かれた。

 元は来客用の小部屋なのだろう。

 質素だが、扉は分厚く、窓は高い位置に小さく開いているだけだ。

 外のざわめきが、くぐもった音になって届く。

 「今のを、街の者がどう見るか」

 リチャードは、椅子に腰を下ろしながら淡々と言った。

 「あなたなら、どうお考えになりますか、ジョン司祭」

 わたしは、対面に座り、深く息を整えた。

 メアリーは、その横で背筋を張っている。

 顔色は悪いが、まだ意識ははっきりしている。

 足元では、ラーチェが小さく輪になろうとしていた。

 輪郭は歪んでいる。

 吐き出した黒い塊と一緒に、内部の何かを削られたのだろう。

 「まず、確認しておきたい」

 わたしは、言葉を選びながら口を開いた。

 「さきほどの黒い塊と炎は、黒魔力の一部が吐き出されたものだと、わたしは理解しました」

 「ええ」

 リチャードは頷いた。

 「私も、そのように見えました」

 「本来軍で用いられる黒魔力が、あのような形で民衆の目の前に現れた」

 わたしは、外のざわめきに耳を澄ます。

 人の声は、距離があっても色だけは伝わる。

 好奇心。

 恐怖。

 嫌悪。

 そして、少しの怒り。

 「彼らは、理屈より先に、“見たもの”で判断するでしょう。」

リチャードは淡々と続ける。

「“神の手伝い”ではなく、“街中で黒いものを吐き出し、赤黒い炎を上げた異形”として」

 そう口にすればするほど、自分で自分の首を絞めているような感覚があった。

 だが、目を逸らしても意味はない。

 事実は、事実だ。

 リチャードは、机の天板を軽く指で叩いた。

 「冷静な分析、ありがとうございます」

 穏やかな声。

 「では、その“異形”を、あなたはどう位置づけるおつもりですか?」

 「教義の外にあるものとして」

 わたしは、いつもの言葉を繰り返す。

 「神ではなく、悪魔とも定めきれない存在として」

 「しかし、黒魔力を内に持つことは、あなたも認めるわけですね?」

 「今の光景を見たあとでは、否定のしようがありません」

 そう答えるとき、ラーチェが足元で小さく震えた。

 わたしは視線を落とさない。

 いま、ここで情けをかけるような目を向けることが、どれほど不利になるか分かっていた。

 「黒魔力は、教義の上で“危険なもの”とされています」

 リチャードは、ゆっくりと言葉を続ける。

 「あなたも、ご存じのはずだ」

 「もちろんです」

 「にもかかわらず」

 リチャードは、少しだけ身を乗り出した。

 「あなたは、黒魔力を内に秘めた存在を、村に留め、白魔力の補助として用いてきた」

 「はい」

 「黒魔力そのものを用いようとしたことは、一度もありません」

 わたしは、そこだけははっきりと言った。

 「今の嘔吐も、あれ自身が匂いと環境に耐えきれず、内側の一部を吐き出したものと見ています」

 「意図的に外へ放ったのではない、と」

 「そうです」

 リチャードは、静かに息を吐いた。

 「民衆が、その違いを理解するかどうか、という問題ですね」

 わたしは、黙って頷いた。

 外のざわめきが、またひときわ大きくなる。

 誰かが、大声で何かを叫んでいる。

 言葉までは聞き取れない。

 だが、その調子だけで、「歓迎」ではないことが分かる。

 「街の者にとって」

 リチャードは、窓の方へ視線を向けた。

 「さきほどの光景は、“ここへ連れて来られた異形の第一印象”になります」

 「それが、今後の審問にどう影響するか」

 「あなたは、どうお考えですか」

 問いは、何度目かの「あなたはどう見るか」だった。

 わたしは、少しだけ目を閉じた。

 「——不利に働くでしょう」

 それ以外の答えはなかった。

 「黒い塊と、赤黒い炎。それだけで、人々の心の中に“穢れたもの”という印象が刻まれたはずです。たとえ、実際には誰も傷つけていなくても、です」

 リチャードは、満足げでも、失望げでもない表情で頷いた。

 「その認識が、共有できているのは良いことです。……では、もう一歩だけ進めましょう」

 また、指先が机を軽く叩く。

 「あなたは、今もなお“ラーチェを村に留めたことは、誤りではなかった”と言えますか」

 わたしは、その問いを予想していた。

 それでも、心臓が一度だけ強く打つ。

 足元のラーチェが、息を呑んだように輪郭を震わせた。

 メアリーが、小さく指先を握る。

 「——はい」

 わたしは、はっきりと言った。

 「今もそう思っています。ベレスフォードにとって、あのときラーチェを排除することは、より大きな危険を招くと判断したからです」

 リチャードの目が、わずかに細くなる。

 「黒魔力を内に秘めた存在を、危険よりも“必要な力”として選んだ」

 「そう解釈して構いませんか」

 「“必要な力”というより、“与えられた状況の中で、最も村を守れる選択肢”を選んだ、というべきでしょう」

 わたしは、言葉を継いだ。

 「それが、結果として誤りであったと教区が裁くのであれば」

 「その裁きは、甘んじて受けます」

 リチャードは、しばしわたしを見つめていた。

 「……なるほど」

 静かに呟く。

 「あなたが、なかなか“異端の芽”を見せないと、教区長が苛立たれる理由が分かる気がします」

 「それは、ほめ言葉と受け取るべきでしょうか」

 わたしが皮肉を少し混ぜると、リチャードは口の端をわずかに上げた。

 「ご自由に」

 「私は、事実を並べているだけです」

 外から、鐘の音が聞こえた。

 教会のものか、街のものか。

 時の合図か、何かの知らせか。

 この街の鐘の意味を、わたしはまだ知らない。

 「十分でしょう」

 リチャードは、椅子から立ち上がった。

 「本番は、ここではありません。間もなく、正式な場が整えられます。そこで、あなたの今の言葉を、あらためて記していただくことになるでしょう」

 「承知しました」

 わたしも立ち上がる。

 メアリーも、少しふらつきながら立ち上がった。

 足元のラーチェが、影のまま二人の足元へ寄り添う。

 震えは、まだ止まっていない。

 「外の空気がきついのは、ラーチェだけではないようですね」

 リチャードが、さらりと言う。

 「見習い」

 メアリーが、びくりと肩を震わせた。

 「体調は?」

 「……す、少し、酔い、ました」

 メアリーは、正直に答えた。

 「でも………大丈夫、です」

 「そうですか」

 リチャードは、それ以上何も言わなかった。

 ただ、その短いやり取りも、「本番」の材料のひとつとして、どこかへきちんとしまい込んだように見えた。

 扉が開き、衛兵が顔をのぞかせる。

 「準備が整い次第、あらためてお呼びします」

 「しばし、この部屋でお待ちを」

 扉が閉まり、再び静寂が戻る。

 外のざわめきだけが、遠くで波のようにうねっていた。

 わたしは、ようやく視線を足元へ落とした。

 「ラーチェ」

 黒い輪郭が、かすかに持ち上がる。

 返事のように。

 「今のは、お前のせいではない」

 小さな声で告げる。

 「この街の空気が、お前に合わなかっただけだ」

 ラーチェは、輪郭を一度だけ強く震わせ、それから、メアリーの足元へそっと寄っていった。

 メアリーは、しゃがみ込んで、その黒い影に指先を触れた。

 「ごめんね」

 かすかな囁きが聞こえる。

 「守るって言ったのに、こんなところまで連れてきちゃった」

 その言葉に、わたしの胸の奥も、少しだけ軋んだ。

 「——まだ、終わっていない」

 自分に言い聞かせるように、そう呟く。

 「………メアリー」

 「はい」

 わたしはメアリーの緑がかった青の目をじっと見る。

 「……弱い者のそばに立てるのは、同じ痛みを知る者だけだ。メアリー、君はそれができる子だよ。」

 「っ…はい!わたし頑張ります!」

 メアリーの決意は静かに冷たい石畳の底へと沈んでいった。

 最悪だけは避ける。そのための道筋は、まだ崩れていない。

 (ここまでは想定通りだ。問題は、この先だ。)

 「ラーチェ」

 足元で黒い輪郭がピクリと動く。

 「後は頼んだぞ」

 ラーチェは、輪郭を一度だけ強く震わせた。

 ノーリッチャの鐘は、まだ「裁きの始まり」を告げてはいない。

 だが、広場の石畳に残された黒い痕と、人々の目に焼きついた赤黒い炎。

 それが、これから語られるすべての言葉に、影を落とすことだけは、はっきりと分かっていた。


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