34 異形
ハヴリングを出た馬車は、なだらかな丘を越えながらノーリッチャへ向かっていた。
車輪が石と土の道を交互に踏みしめるたび、車体が小さく揺れる。
メアリーは、窓の外の景色を時々見やりながら、胸の奥にわずかなむかつきを抱えていた。
まだ我慢できる。
深呼吸をすれば、収まる程度だ。
足元には、ラーチェが静かに輪になっている。
ときおり、輪郭の端がメアリーの足首にそっと触れる。
「大丈夫か」と、無言で尋ねているようだった。
向かい側の座席には、ジョンとリチャードが座っている。
ジョンは、平常の表情のまま、両手を膝に置いている。
リチャードは、馬車の揺れに合わせて、軽く身体を支えながら口を開いた。
「ベレスフォードでは」
穏やかな声だった。
「ラーチェは、ふだんどこで過ごしていましたか」
「教会の中です」
ジョンが答える。
「礼拝堂の床や、廊下の影に」
リチャードは、うなずいてみせた。
「外には、あまり出ない」
「嵐のときなど、必要な場面には外に出ましたが」
ジョンは続ける。
「基本的には、教会の中に留めていました」
「なるほど」
リチャードは、視線をメアリーへ移した。
「見習いのあなたから見て」
「ラーチェは、どんなときに動いているように感じましたか」
問い方は柔らかい。
聞いている内容は、細かい。
メアリーは、一瞬だけ言葉を探した。
「……ひ、ひひ、人が、困っている、とき、でひゅ」
少し考えてから答える。
「えええ、ええ、えーっと。け、怪我をした人が、は、は、運ばれてきたときとかっ、わわわわ、わたしたちが、魔力のっ練習で、うまくいかないとき、とかっ」
「……“困っている”と」
リチャードが、その表現を繰り返す。
「そう感じたのですね」
「は、はいっ」
メアリーは、軽くうなずく。
「あのっら、ららら、ラーチェは、言葉はっ話しません、けど、ち、近寄って、きてくれるときは、ああ、だ、だいたい誰っかが、たたたた助けてほしいって思ってるときっでし、た」
「“助けてほしい”」
リチャードは、今度はその言葉を拾う。
「あなたは、ラーチェに“助けてほしい”と願ったことがありますか」
メアリーは、わずかに視線を落とした。
馬車が、少し大きく揺れる。
「あ……そのっ。あり、ます」
正直に、そう言った。
「け、怪我人の痛みがなかなか引かないときっに“ラーチェも、そのっ来てくれたらいいのに”って」
「その願いは、誰に向けたものでしょう」
リチャードは、あくまで穏やかに尋ねる。
「神にかそれとも、ラーチェにか」
メアリーは、一瞬だけ答えに詰まった。
胸のむかつきが、少し強くなる。
「……そのときは」
小さな声で続ける。
「“神さま、ラーチェも一緒に来てくれたら”って、思い、ましった」
リチャードの目が、わずかに細くなった。
「“神さま、ラーチェも一緒に”」
言葉を丁寧に並べ替えるように、ゆっくりと繰り返す。
ジョンが、僅かに身じろぎした。
「メアリーは、まだ祈りの言葉を学んでいる途中です」
落ち着いた声で挟み込む。
「その願いは、神に向けられたものであり——」
「ええ、分かっています」
リチャードは、あっさりと頷いた。
「ただ、“祈りの中で、誰の名を並べたか”は、大切なことですから」
馬車の外では、道がわずかに広くなり、周囲に家々が増えてきていた。
ノーリッチャへ近づいている証拠だ。
臭いが、少しずつ変わり始める。
乾いた草と土の匂いに混じって、どこか酸っぱいような、濃い匂い。
メアリーは、無意識に鼻に手をやった。
「もうひとつ」
リチャードは、話を続けた。
「村の子どもたちが、ラーチェを“床の神さま”と呼んでいたと聞きました」
「……はひっ」
メアリーの声が、少し硬くなる。右手が自然と胸の宝石の方へと伸びる。
「最初のころです。あなたは、その呼び方を聞いて、どう感じましたか」
リチャードの問いは、一歩も緩まない。
「よよよよよ、よくなひと思ひまひた」
メアリーは、強めに言った。
「かかかか“神さまはひとりだよ”って、子どもたちに言ひまひた」
「それは、最初から、ですか」
リチャードは、柔らかい声のまま、少し角度を変える。
「最初にその言葉を耳にしたとき、胸のどこかで、“その通りかもしれない”と思ったことはありませんでしたか」
馬車が、また大きく揺れた。
嫌な匂いが、ひときわ強く入り込んでくる。
メアリーは、一瞬だけ目を閉じた。
「……いっひゅんだけ」
正直に言った。
赤の宝石が小さな手で強く握られる。
「“床の神さま”って、うまいこと言うなって。…で、でも、それはだめだって、すぐに自分で言い直しました。“ラーチェは、神さまじゃない”って」
リチャードは、軽くうなずく。
「なるほど。………“だめだと分かっていながら、うまい言い方だと思った”」
静かに言葉を整理していく。
ジョンが、口を開きかけたが、飲み込んだ。
この程度のやり取りは、避けて通れない。
そう理解していた。
足元で、ラーチェが輪郭を震わせる。
メアリーの足首に、少し強めに触れる。
「大丈夫」と言いたげに。
メアリーは、気づかれないように、その感触にほんの少し足を押し返した。
「十分です」
リチャードは、あっさりと引いた。
「これ以上は、ノーリッチャで」
その言葉に、メアリーは、ほっと息を吐いた。
だが、同時に胸の奥で、別の冷たい重みが増す。
「“本番はまだ先だ”」
そう告げられたに等しかった。
馬車が進むにつれ、景色は徐々に変わっていった。
家々が増え、道は広くなり、人や馬の往来が目に見えて多くなる。
そして——匂いが、決定的に変わった。
湿った石と、乾いた藁。
それに混じる、人と獣の糞尿の生々しい臭い。
道端の溝には、濃くなった泥水がたまり、その上を蠅が群れ飛んでいる。
吐き捨てられた残飯。
潰れた果物。
血の跡が乾いたあとのような鉄臭さ。
それらすべてが、温い空気に溶けて、馬車の中へ押し寄せてきた。
メアリーは、顔をしかめた。
胸のむかつきが一気に強くなり、喉の奥までこみ上げてくる。
「大丈夫か」
ジョンが、短く問う。
「……少し………気持ち、悪いです」
メアリーは、正直に言った。
「水を少し飲め」
革袋を受け取り、口を湿らせる。
それでも、匂いは逃げてくれない。
足元で、ラーチェの輪郭が、不意にぐらりと揺れた。
それまで安定していた黒い輪が、波打つように広がり、縮む。
「ラー…チェ?」
メアリーが、思わず小声で呼んだ。
黒い輪郭の一部が、じくりと崩れ、床板に貼りつく。
まるで、何かをこらえているように。
「匂いが、きつすぎるのでしょう」
ジョンが、低く呟いた。
リチャードも、足元に一瞥を落とす。
「ノーリッチャは、人も馬も多い」
淡々と言う。
「この程度で音を上げるとは、やはり“神”ではありませんね」
その言い方には、嘲りはなかった。
ただの確認のように聞こえるのが、かえって冷たかった。
馬車は、やがて城壁の門をくぐった。
ノーリッチャの街中へ入る。
人のざわめきが、いっそう大きくなる。
市場へ向かう荷車。
荷を引く馬。
叫び声。
笑い声。
罵声。
それらすべてが、複雑な臭いとともに渦を巻く。
「ここで一度、降りていただきます」
御者の声がした。
「教会までの道は、人通りが多く、馬車を乗り入れにくうございまして」
ジョンは頷いた。
「分かった」
馬車が止まり、扉が開く。
熱気と臭いが、一気に流れ込んでくる。
メアリーは、思わず一歩引きそうになる足を、必死で前へ出した。
外には、広場のような空間が広がっていた。
石畳の上を、人々が行き交い、露店が並んでいる。
下水の溝が道の脇を走り、そこに流れ込む濁った水の表面には、さまざまなものが浮かんでいた。
ラーチェも、メアリーの足元から外へ出た。
黒い影が、石畳に広がる。
その瞬間。
ラーチェの輪郭が、激しく震えた。
「ラーチェ?」
メアリーが振り返る。
次の瞬間、黒い輪はぐしゃりと崩れた。
石畳の上に、どろりとした黒い塊が吐き出される。
それは、人間の嘔吐とはまったく違う。
粘り気を持った墨のようなものが、勢いよく吐き出され、地面にぶつかって広がった。
周囲の人々が、一斉に足を止める。
「なんだ、あれは」
「影か?」
「いや、動いてるぞ」
黒い塊は、しばらくじくじくと蠢いていた。
その表面から、小さな泡のようなものがぷつぷつと立ちのぼる。
そして——
ふいに、その黒い塊全体が、赤黒い炎に包まれて、直後火柱がジョン神父の背よりも高く立ち上る。
「っ……!」
メアリーは、反射的に一歩下がる。
炎は、普通の火とは違う色をしていた。
赤とも黒ともつかない、不気味な色合い。
燃え上がるというより、塊そのものを覆い隠すように激しく揺らめいている。
「火だ!」
「魔か!」
誰かが叫び、周囲にざわめきが走る。
人々が、一斉に距離を取る。
露店の布が、ばたばたと揺れ、子どもが泣き声をあげる。
ジョンはとっさにメアリーを自分の背後へかばった。
ラーチェ本体は、黒い輪の残骸のような影となって、石畳の別の場所にしがみついている。
吐き出された黒い塊だけが、赤黒い炎に包まれていた。
リチャードは、一歩だけ前に出て、その様子をじっと見つめた。
「……黒魔力」
低い声で呟く。
炎は、燃え広がることなく、その場にだけ貼りついている。
石畳にはわずかな焦げ跡しかつかない。
ただ、不気味な色だけが、二十数秒のあいだ、じりじりと揺れていた。
人々のざわめきが、恐怖混じりの声に変わっていく。
「やっぱり魔物だ!」
「街の真ん中で、何を——」
「教会の者と一緒にいるぞ!」
誰かが、ジョンとメアリーの法衣を指差した。
リチャードは、その指の向きを、しっかりと目に焼きつけた。
やがて、赤黒い炎は、何事もなかったかのようにすうっと消えた。
あとには、乾いた黒い痕が、石畳に薄く残るだけだった。
ラーチェは、遠くないところで、小さく震えながら輪になろうとしていた。
だが、その輪は歪んでいた。
いつものような滑らかさがない。
メアリーは、その姿に胸を締め付けられた。
「ラーチェ……」
一歩踏み出そうとした肩を、ジョンの手が押さえる。
「今は動くな」
低く、短い声。
リチャードが、広場をざっと見回した。
恐怖と嫌悪と好奇心が混じった視線が、三人と一匹へ注がれている。
「……ノーリッチャの人々は」
リチャードは、あくまで冷静な口調で言った。
「これを見たうえで、審問の場に来ることになりますね」
それは、事実の確認であり、同時に残酷な宣告でもあった。
「今のが、お前たちの“味方”かどうか。彼らが、どう判断するか」
ノーリッチャの臭いの中で、メアリーは吐き気と涙を必死でこらえていた。
ラーチェは、その足元で、黒い輪郭をかろうじて保っていた。
さっき吐き出された黒い塊は、ラーチェの体内にあった黒魔力の一部。村の人たちの体内を蠢いていたものから吸い上げた力だった。
それが、人々の目の前で形になり、赤黒い炎に焼かれた。
その光景は、もう「ただの手伝い」ではなかった。
群衆の目に、はっきりと「異形」として焼きついてしまった。
そしてそれは、ノーリッチャでの裁きにとって、あまりにも大きな「決定打」となってしまった。




