33 中継
ベレスフォードを出て一日半。
馬車の揺れに、メアリーは少し顔色を悪くしていたが、まだ我慢できる範囲だった。
ジョンは、窓の外の景色をときどき眺めながら、静かに祈りを繰り返していた。
足元では、ラーチェが、馬車の床板の上で垂直に立っては身体を縄のように思いっきり捻っている。
「……あれは何か意味があるのでしょうか?」
「放っておけ」
メアリーの疑問にジョン神父は端的に返答する。
メアリーがときおり視線を落とすたび、ラーチェは輪郭の一部をちょん、と持ち上げてみせた。
「大丈夫?」
とでも言うように。
「……ちょっと、酔いました」
メアリーが小声で答えると、ラーチェの輪郭は、少しだけ彼女の足元へ寄ってきた。
するとラーチェの背中の一部が徐々に変形し最近見た人の顔の形になる。
難しい顔をしたリチャードさんだ。
「ブフッ!!……ククッ」
「?」
メアリーが吹き出すのを必死に我慢している様子をジョン神父は不思議そうに眺める。
もうっこんなところでそんなことしてたら神父様に怒られるよ。
メアリーがそんなことを考えてラーチェに向き直ると普段の輪の形に戻っている。
「もうっ」
メアリーはラーチェの背中を指先で強く押した。
「ふむ。……メアリー」
「あ、はい」
ジョン神父の突然の呼びかけについ反応が遅れる。
「そのネックレスを少し触ってもいいか?」
「え、はい。どうぞ」
ジョン神父の突然の提案に戸惑いながら返答する。
馬車が丘を越えると、小さな町の屋根が見えてきた。
「ハヴリングです」
御者の声が前から聞こえてくる。
ジョンは、軽くうなずいた。
「ここに、ウィリアム教区長がいらっしゃるのですね」
メアリーが、少し緊張した声で尋ねる。
「そうだ」
ジョンは、いつも通りの落ち着いた口調で答えた。
「教区の心臓部だ」
馬車が石畳に入る。
ゴトリ、と音が変わり、揺れも少しだけ規則的になった。
だが、その代わりに、かすかな臭いが鼻に届き始める。
乾いた土と違う、湿ったものの混じった匂い。
メアリーは、ほんの少し眉をひそめた。
「……大丈夫か」
ジョンが気づいて、短く声を掛ける。
「はい。まだ、平気です」
メアリーは、深呼吸を一度して答えた。
ラーチェの輪郭が、彼女の足の甲にそっと触れる。
馬車は、やがてひときわ大きな石造りの建物の前で止まった。
ハヴリング教区本部。
高さはそうないが、壁の厚さと扉の重さが、ここがただの教会ではないことを物語っていた。
ジョンとメアリーが馬車を降りると、ラーチェも、影のようにそっと外へ滑り出た。
黒い輪郭は、建物の壁際に寄り添うようにしてまとわりつく。
「ここでは、あまり目立つ動きはするな」
ジョンが、ごく小声でラーチェの方に言う。
ラーチェは、輪郭を一度だけ震わせた。
それを確認して、ジョンは扉の前へ進んだ。
中へ案内されると、ひんやりとした空気が肌に触れた。
石の廊下を抜け、ほどなくして、広くはないが重みのある部屋に通される。
そこに、ウィリアム教区長がいた。
背筋を伸ばして椅子に座り、机の上に数枚の紙を広げている。
ジョンは、一歩前へ進み、深く一礼した。
「ベレスフォード領教会司祭、ジョンにございます」
ウィリアムは、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、表面上は穏やかだが、奥に冷たい硬さを宿している。
「遠路、ご苦労だった」
形式通りの言葉。
メアリーも、その後ろでぎこちなく一礼した。
「み、みみみみみ見習いのメ、ミャーリーでででででしゅ!」
ウィリアムの視線が、すっと彼女に移る。
若さと、緊張と、わずかな酔いの色。
それをひと目で測るような、短い一瞥。
「教区の命に従い、同行してくれたこと、感謝する」
ウィリアムは、淡々と言った。
「あ、へぁ、はい」
メアリーは、少しかすれた声で答える。
「座るがよい」
三人分の椅子が用意されていた。
ジョンとメアリーが腰を下ろすと、足元の影が、そっと二人の椅子の間にまとわりついた。
ラーチェだ。
ウィリアムの視線が、一瞬だけ床をかすめる。
黒い輪郭は、ぴたりと動きを止めた。
「これが、報告にあった“特異な存在”か」
ウィリアムが、初めてその名を直接口にした。
「はい」
ジョンは、正面から受け止めた。
「ラーチェと呼んでおります」
「“さま”は、つけないのだな」
ウィリアムの声は、ほんの少しだけ低くなった。
メアリーの指先が、ぎゅっと握りしめられる。
「つけさせないよう、努めております」
ジョンは、穏やかながら揺るがない声で答えた。
ウィリアムは、ジョンをしばらく見つめ、それからメアリーへと視線を移した。
「見習い」
「は、ひゃい」
メアリーは、背筋を伸ばす。
「お前は、ラーチェをどう見ている」
あまりにもまっすぐな問いだった。
メアリーは、一瞬だけ言葉を失う。
「へ……あ、えっと…お友だち…じゃなくて……し、しりょ、白魔術の、手伝いをしぢぇくれる存じゃいだと思ってましゅ!」
練習してきた答えを、なんとか口にする。
ウィリアムは、目を細めた。
「……。“神”ではないと?」
「……は、はひ」
メアリーはなんとかうなずいた。
真っ白になりそうな頭をなんとか抑えながら言葉を続ける。
「……さ、最初は、子どもたちが“ラーチェしゃま”“床の神しゃま”と呼びまひ、した。わ、わたしも、そう聞いて、こ、ここりょ、心が揺れたことはありまひゅっ」
正直に付け加える。
ジョンが、横目でメアリーを見る。
ウィリアムは、その言葉を逃さなかった。
「……揺れたとは」
「へ、えーっと。えっと。む、村の人ちゃちが、助かったときに、“ラーチェしゃまのおかげだ”と喜んで……」
メアリーは、少しだけ視線を落とし小さい声をさらに小さくしながら答える。
「わ、わたしも、一緒に嬉しくなってしまって」
「“さま”をつけたくなった」
ウィリアムが、言葉を補う。
メアリーは、胸の宝石をギュッと握りながら答える。
「で、でも、それはよくないって分かって、ジョン神父やアリシアさんと一緒に、みんなの言い方を直しています。今は、わたしも“ラーチェ”としか呼びません」
ウィリアムは、しばし沈黙した。
そのあいだに、部屋の中の空気が、少しだけ重くなっていく。
「……ラーチェを本部に移送するという方針に、異論はあるか」
ウィリアムは、ふいにジョンへと話を戻した。
「命令と理解しております」
ジョンは、即答した。
「ラーチェの性質を見極めるためにも、必要なことと考えます」
それは、半分は本心だった。
ベレスフォードの狭い世界だけで、ラーチェを判断することの危うさは、ジョン自身も感じていた。
ウィリアムは、わずかに顎を引いた。
「よろしい」
「ノーリッチャで、教会の場において、あらためて審問が行われる」
「そこで、お前たちの言葉も、あらためて聞くことになるだろう」
メアリーの喉が、かすかに鳴った。
「その前に」
ウィリアムは、机の上の小さな呼び鈴を鳴らした。
ほどなくして、扉がノックされる。
入ってきたのは、見慣れた黒い法衣の男だった。
「リチャード」
ジョンが、小さく名を呼ぶ。
異端審問官リチャードは、いつものように隙のない姿勢で一礼した。
「教区長」
「ノーリッチャまで、彼らに同行せよ」
ウィリアムは、短く命じた。
「道中で、必要な聞き取りを進めること」
「承知いたしました」
リチャードは、静かな声で答えた。
その目が、ジョンとメアリー、そして床のラーチェへと順に向けられる。
メアリーは、その視線にさらに背筋を冷たくされながらも、必死に平静を装った。
ラーチェは、輪郭をわずかに縮め、影の濃さを変えるだけで反応を示さなかった。
「短い滞在となる」
ウィリアムは、手を軽く振った。
「馬車を整え、すぐに出発せよ。ノーリッチャで、お前たちの言葉を聞く」
それは、「ここでは詳しくは問わない」という宣言でもあり、「その代わり、次の場で逃す気はない」という予告でもあった。
ジョンとメアリーは立ち上がり、深く一礼して部屋を後にした。
ラーチェも、二人の足元の影に紛れるようについていく。
扉が閉まる。
部屋には、ウィリアムとリチャードだけが残った。
「どう見た」
ウィリアムが、短く問う。
リチャードは、わずかに口の端を上げた。
「揺れております」
「司祭も、見習いも」
「ノーリッチャまでの道で、もう少し揺らしてみましょう」
ウィリアムは、ゆっくりと目を閉じた。
「やりすぎるな」
「はい。教義の枠を越えない程度に」
リチャードの声は、乾いていた。
教区本部を出て、再び馬車に乗り込む。
先ほどよりも、空気は少し重かった。
ジョンとメアリーの向かい側には、新たにリチャードが座っている。
馬車が動き出すと、石畳の揺れが身体を揺さぶった。
メアリーは、さっきよりも少し酔いが戻ってくるのを感じたが、まだ表情には出さないように努めた。
足元のラーチェが、そっと輪郭を寄せてくる。
ジョンは、短い祈りを胸の中で唱えながら、リチャードの口が開くのを待った。
「さて」
リチャードは、静かに言葉を切り出した。
「ノーリッチャまでには、まだいくらか時間があります」
「そのあいだに、もう少し、ラーチェについて教えていただきましょうか」
その声は、礼儀正しく、しかし逃げ場を与えない硬さを含んでいた。
メアリーは、喉の奥がひんやりと冷えるのを感じた。
ラーチェは、彼女の足元で、今度はいつもより少しだけ強く輪郭を震わせた。
まるで、「ここにいる」と伝えようとしているかのように。




