32 移送
数日後。
早朝のまだ冷たい空気の中、ベレスフォード領教会の前に、小さな一行が立っていた。
荷を積んだ小さな馬車。
御者。
護衛が二人。
そして——
「ベレスフォード領教会司祭 ジョン」
「見習い メアリー」
最後に、馬車の影と地面の境目に、黒い輪郭が静かにまとわりついている。
ラーチェ。
アリシアは、教会の階段の上から、その姿を見送っていた。
隣には、一時的にこの教会を預かるべく派遣されてきた別の司祭が立っている。
まだ若く、表情は硬い。
アリシアは、その横顔を一瞬だけ見てから、ジョンたちの方へ視線を戻した。
「アリシア」
ジョンが、短く呼びかける。
「この家を頼む」
「はい、ジョン神父」
アリシアは、胸の前で手を組んでうなずいた。
「教区長の命令には従います」
「でも、わたしたちの教会は、ここにあります」
その言葉に、ジョンはわずかに目を細めた。
「その通りだ」
メアリーは、アリシアの前まで駆け寄る。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい…あっそうだ!」
アリシアは自分の首から金色の縁に赤い宝石のついたネックレスを取り外すとメアリーの首に優しく掛ける。
「これは?」
「うちの家系に代々伝わるお守り!特別に貸してあげる。」
メアリーは首から掛かった宝石の輝きに目を奪われる。
「わあ!ありがとう!絶対大事にするね!」
「うん!必ず返してよ!」
アリシアは、メアリーの肩をぎゅっと抱きしめた。
耳元で、そっと囁く。
「ラーチェのこと、ちゃんと見ててあげて」
「っ……はい」
メアリーは、瞼を熱くしながら小さくうなずく。
足元では、ラーチェが、アリシアの足先にも一瞬だけ触れてから、すっとメアリーの影へと戻っていった。
「あなたも、ちゃんと帰ってきなさい」
アリシアは、ラーチェに向かっても小さく言った。
ラーチェは、輪郭を一度だけ強く震わせた。
それが返事のように見えた。
ジョンとメアリーが馬車に乗り込む。
ラーチェは、馬車の床板の下から、黒い影としてついていく。
御者が手綱を鳴らす。
車輪が、石の道を軋ませながら、ゆっくりと動き出す。
教会の前を離れ、村の通りを進む。
村人たちは、まだ朝の仕事に出る前で、門口からその姿を見送っていた。
「あれが、神父様と、メアリーちゃんかい」
「ラーチェは……どこに」
誰かが呟いたとき、アリシアは一歩前に出た。
「ラーチェは、教会の仕事で本部へ行きます」
はっきりと言う。
「ラーチェは神さまではありません。教会の、“白魔術の手伝い”です」
その言葉は、ジョンの方針を受け継いだものだった。
村人たちは、少し戸惑いながらも、うなずいた。
馬車は、やがて村はずれの曲がり角を曲がり、見えなくなった。
アリシアは、手を合わせたまま、しばらく動かなかった。
その足元の影の中に、一瞬だけ、黒い輪郭が揺れたような気がした。
すぐにそれは、朝の光に溶けていった。




