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水鏡のメアリー  作者: 風太郎
悪衆

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31/48

30 余裕

 リチャードとの話が終わったあと、ジョンはしばらく小部屋に一人残っていた。

 机の上には、何も置かれていない。

 けれど、さっきまでリチャードが指先で叩いていた場所に、まだ冷たい感触が残っているような気がした。

 「“白魔術を補助するものとして扱っている”」

 「“順に訂正中である”」

 自分の口から出た言葉を、もう一度心の中で繰り返す。

 扉の外から、控えめなノックがした。

 「神父様」

 アリシアの声だった。

 続いて、メアリーの気配もする。

 「入ってきなさい」

 二人が入ってくると、部屋の空気が少しやわらいだ。

 だが、ジョンの表情を見て、すぐにふたりの顔も引き締まる。

 「リチャード殿とは、どうでしたか」

 アリシアが、おそるおそる尋ねた。

 メアリーも、言葉は飲み込んだまま、じっとジョンを見る。

 ジョンは、しばし二人を見つめ返してから、決めたように口を開いた。

 「まず、言っておかねばならないことがある」

 静かな声。

 「ラーチェは、教義に載っている存在ではない」

 メアリーの肩が、かすかに震えた。

 「白でも、黒でもない」

 ジョンは続ける。

 「教会から見れば、“教義の外にあるもの”だ」

 アリシアは、拳を握りしめた。

 「それは……分かっていました」

 低い声だった。

 「でも、だからといって、“悪いもの”だとは」

 「わたしも、ラーチェを“悪”と決めつけるつもりはない」

 ジョンは、はっきりと言った。

 「今この村で、あれがしていることも、見てきた」

 「川も、土手も、怪我人も」

 メアリーの目に、少しだけ光が戻る。

 「だからこそ、難しいのだ」

 ジョンは、眉間に皺を寄せた。

 「リチャード殿は、“ラーチェさま”“床の神さま”という呼び方を耳にしている」

 アリシアが、はっと息を呑んだ。

 「やっぱり、聞かれていましたか」

 「子どもたちの声、大人たちの囁き」

 ジョンはうなずく。

 「わたしも、そこが一番の危うさだと思っている」

 メアリーは、黙って視線を落とした。

 ラーチェを“さま”づけで呼んでいたのは、子どもたちだけではない。

 自分たちでさえ、ときどき、冗談まじりにそう呼びそうになる瞬間があった。

 「だから、方針をはっきりさせる」

 ジョンは、二人をまっすぐ見た。

 「ラーチェは、これまでと変わらず、活動を続ける」

 メアリーの胸に、安堵が広がった。

 アリシアも、小さく息を吐いた。

 「ただし」

 ジョンは続ける。

 「呼び方を、変えさせる。“ラーチェさま”“床の神さま”という言葉は、村から少しずつ消していく」

 アリシアは、首を縦に振った。

 「子どもたちには、すでに話しています。“さま”をつけないようにって」

 「大人たちにも?」

 ジョンは頷く。

 「わたしだけではなく、お前たちも一緒に、“ラーチェは教会の手伝いだ”と、言い換えていく」

 メアリーは、不安げに尋ねた。

 「……道具、ってことですか」

 「そう呼ぶしかない場面も、あるだろう」

 ジョンは、正直に答えた。

 「わたしは、あれを“ただの道具”だとは思っていない」

 「だが、教会の外では、“神”でも“魔”でもない、そのどちらでもない場所に置く言葉が要る」

 アリシアは、しばらく黙っていた。

 やがて、静かにうなずく。

 「分かりました」

 「村の人たちが“さま”をつけそうになったら、わたしたちも、ちゃんと止めます」

 メアリーも、おそるおそる手を上げるようにして言った。

 「わたしも、子どもたちに、“ラーチェはラーチェだよ”って言うようにします」

 ジョンは、二人を見て、わずかに表情を和らげた。

 「頼りにしている」

 そして、少しだけ声を落とす。

 「そのうえで……。ラーチェのそばにいる時間は、お前たちに任せる」

 メアリーが、目を丸くした。

 「いいんですか」

 「ラーチェのことを一番よく見ているのは、お前たちだ」

 ジョンは、真剣な目で言う。

 「もし、あれに“外側”へ向かう兆しが見えたら、真っ先に気づくのも、お前たちだろう」

 アリシアは、真剣な顔でうなずいた。

 「分かりました」

 「ラーチェが、村を脅かす方へ向かうことがないように、ちゃんと見ています」

 メアリーも、小さく拳を握る。

 「守ります。ラーチェも、村も」

 ジョンは、わずかに目を細めた。

 「……それでいい」

 そう言って、二人を部屋から下がらせた。

 扉が閉まると、ジョンはひとり、深く目を閉じた。

 「余裕があるからこそ、こうした時間も持てる」

 ラーチェの存在がもたらした「余裕」が、いま、彼自身の決断も支えていた。


 その夜。

 礼拝堂の灯りが落とされ、廊下だけに小さな灯がともっていた。

 アリシアとメアリーは、短い当番の合間を縫って、教会の片隅で小声で話していた。

 「神父様、きっと大変だよね」

 メアリーがぽつりと言う。

 「ラーチェを守りたい気持ちと、教会のことと、村のことと」

 「簡単なところに、全部収まってくれたらいいんだけどね」

 アリシアが、ため息まじりに笑う。

 足元では、ラーチェが静かに輪になっていた。

 「ねえ、ラーチェ」

 メアリーが、黒い輪郭に向かって話しかける。

 「あなた、神さまじゃないんだって」

 「分かってる?」

 返事はない。

 ただ、輪郭の端が、ほんの少しだけ伸びた。

 アリシアも、しゃがみ込んでラーチェを覗き込む。

 「でも、“床の神さま”って呼ばれて、ちょっと得意だったりした?」

 からかうような声で言うと、ラーチェは、ふっと形を崩した。

 黒い影が、するすると立ち上がる。

 今度は、縦に長い輪郭。

 肩のあたりに、布のようなもの。

 眉間に深い皺。

 口元をきゅっと結んでいる。

 「……ジョン神父?」

 アリシアが、ぽかんと口を開けた。

 ラーチェは、まるで見えない眼鏡でも押し上げるように、眉のあたりをぴくりと動かした。

 さっき小部屋で見たばかりの、難しい顔のジョンの表情に、妙に似ている。

「ソコデナニヲシテイル!」

ジョン神父の声に似た声が部屋に響く。

 「やめてよ、それ」

 メアリーが、吹き出してしまった。

 「怒ってるときの顔そっくり」

 ラーチェは、今度は顎を少し上げてみせる。

 目を細め、口の端だけをわずかに引き上げた。

 どこか、人を見下ろすような気配。

 「それは……」

 アリシアが、眉をひそめる。

 「リチャード殿、かな」

 ラーチェは、その形のまま、片方の眉の位置をほんの少しだけずらした。

 さっき、机の上の紙を指で叩いていたときの表情に、さらに似ていく。

 「イタンシンモンカン、“リチャード”トモウシマス」

 「似てる」

 メアリーが、笑い泣きのような声を出した。

 「やめなよ、そんなの真似したら」

 と言いながら、笑いが止まらない。

 「シンジツハイツモヒトツ!」

 アリシアも、肩を震わせる。

 「ラーチェ、悪趣味」

 そう言いつつも、その悪趣味さに救われる自分を感じていた。

 ラーチェは、リチャード顔の形をどんどん崩していく。

 眉間の皺の深さ。

 口元の締まり具合。

 最後には、少しずつ誇張されていき、誰ともつかない妙な顔になった。

 「なにそれ」

 「イタンシンモンカン、“リチャード”トモウシマス」

 メアリーが、とうとうその場に座り込んで笑い出す。

 「どっちも真剣な顔なのに、ちょっとおかしい」

 「神父に見せたら怒られるよ、絶対」

 アリシアも、涙を拭きながら言う。

 ラーチェは、しばらくその妙な顔を維持していたが、やがてふっと形を崩した。

 今度は、小さな丸い塊になり、メアリーの足元にすり寄る。

 まるで、「それでも、ここにいる」と言いたげに。

 メアリーは、その黒い塊をそっと撫でるように、指先を床に滑らせた。

 「ありがとう、ラーチェ」

 小さな声でつぶやく。

 「怖い人が来ても、こうやって笑わせてくれるなら、少しは平気な気がする」

 アリシアも、黒い輪郭のそばに膝をつく。

 「でも、顔まねは二人の前ではやめなよね」

 「特に、神父様の前では」

 その言葉に、ラーチェは、輪郭をぷるりと震わせた。

 それが「分かっている」と言っているようで、二人はまた笑った。

 教会の外では、リチャードが静かに報告書の文言を練っている。

 ウィリアム教区長のもとへ届く言葉は、冷たく整えられていくだろう。

 けれど、その間にも、教会の片隅では、三人と一匹の小さな笑い声が、確かに響いていた。

 ラーチェは、白でも黒でもない。

 神でも、ただの道具でもない。

 その曖昧な場所で、今日もまた、二人の肩から少しだけ重さを奪っていた。


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