30 余裕
リチャードとの話が終わったあと、ジョンはしばらく小部屋に一人残っていた。
机の上には、何も置かれていない。
けれど、さっきまでリチャードが指先で叩いていた場所に、まだ冷たい感触が残っているような気がした。
「“白魔術を補助するものとして扱っている”」
「“順に訂正中である”」
自分の口から出た言葉を、もう一度心の中で繰り返す。
扉の外から、控えめなノックがした。
「神父様」
アリシアの声だった。
続いて、メアリーの気配もする。
「入ってきなさい」
二人が入ってくると、部屋の空気が少しやわらいだ。
だが、ジョンの表情を見て、すぐにふたりの顔も引き締まる。
「リチャード殿とは、どうでしたか」
アリシアが、おそるおそる尋ねた。
メアリーも、言葉は飲み込んだまま、じっとジョンを見る。
ジョンは、しばし二人を見つめ返してから、決めたように口を開いた。
「まず、言っておかねばならないことがある」
静かな声。
「ラーチェは、教義に載っている存在ではない」
メアリーの肩が、かすかに震えた。
「白でも、黒でもない」
ジョンは続ける。
「教会から見れば、“教義の外にあるもの”だ」
アリシアは、拳を握りしめた。
「それは……分かっていました」
低い声だった。
「でも、だからといって、“悪いもの”だとは」
「わたしも、ラーチェを“悪”と決めつけるつもりはない」
ジョンは、はっきりと言った。
「今この村で、あれがしていることも、見てきた」
「川も、土手も、怪我人も」
メアリーの目に、少しだけ光が戻る。
「だからこそ、難しいのだ」
ジョンは、眉間に皺を寄せた。
「リチャード殿は、“ラーチェさま”“床の神さま”という呼び方を耳にしている」
アリシアが、はっと息を呑んだ。
「やっぱり、聞かれていましたか」
「子どもたちの声、大人たちの囁き」
ジョンはうなずく。
「わたしも、そこが一番の危うさだと思っている」
メアリーは、黙って視線を落とした。
ラーチェを“さま”づけで呼んでいたのは、子どもたちだけではない。
自分たちでさえ、ときどき、冗談まじりにそう呼びそうになる瞬間があった。
「だから、方針をはっきりさせる」
ジョンは、二人をまっすぐ見た。
「ラーチェは、これまでと変わらず、活動を続ける」
メアリーの胸に、安堵が広がった。
アリシアも、小さく息を吐いた。
「ただし」
ジョンは続ける。
「呼び方を、変えさせる。“ラーチェさま”“床の神さま”という言葉は、村から少しずつ消していく」
アリシアは、首を縦に振った。
「子どもたちには、すでに話しています。“さま”をつけないようにって」
「大人たちにも?」
ジョンは頷く。
「わたしだけではなく、お前たちも一緒に、“ラーチェは教会の手伝いだ”と、言い換えていく」
メアリーは、不安げに尋ねた。
「……道具、ってことですか」
「そう呼ぶしかない場面も、あるだろう」
ジョンは、正直に答えた。
「わたしは、あれを“ただの道具”だとは思っていない」
「だが、教会の外では、“神”でも“魔”でもない、そのどちらでもない場所に置く言葉が要る」
アリシアは、しばらく黙っていた。
やがて、静かにうなずく。
「分かりました」
「村の人たちが“さま”をつけそうになったら、わたしたちも、ちゃんと止めます」
メアリーも、おそるおそる手を上げるようにして言った。
「わたしも、子どもたちに、“ラーチェはラーチェだよ”って言うようにします」
ジョンは、二人を見て、わずかに表情を和らげた。
「頼りにしている」
そして、少しだけ声を落とす。
「そのうえで……。ラーチェのそばにいる時間は、お前たちに任せる」
メアリーが、目を丸くした。
「いいんですか」
「ラーチェのことを一番よく見ているのは、お前たちだ」
ジョンは、真剣な目で言う。
「もし、あれに“外側”へ向かう兆しが見えたら、真っ先に気づくのも、お前たちだろう」
アリシアは、真剣な顔でうなずいた。
「分かりました」
「ラーチェが、村を脅かす方へ向かうことがないように、ちゃんと見ています」
メアリーも、小さく拳を握る。
「守ります。ラーチェも、村も」
ジョンは、わずかに目を細めた。
「……それでいい」
そう言って、二人を部屋から下がらせた。
扉が閉まると、ジョンはひとり、深く目を閉じた。
「余裕があるからこそ、こうした時間も持てる」
ラーチェの存在がもたらした「余裕」が、いま、彼自身の決断も支えていた。
その夜。
礼拝堂の灯りが落とされ、廊下だけに小さな灯がともっていた。
アリシアとメアリーは、短い当番の合間を縫って、教会の片隅で小声で話していた。
「神父様、きっと大変だよね」
メアリーがぽつりと言う。
「ラーチェを守りたい気持ちと、教会のことと、村のことと」
「簡単なところに、全部収まってくれたらいいんだけどね」
アリシアが、ため息まじりに笑う。
足元では、ラーチェが静かに輪になっていた。
「ねえ、ラーチェ」
メアリーが、黒い輪郭に向かって話しかける。
「あなた、神さまじゃないんだって」
「分かってる?」
返事はない。
ただ、輪郭の端が、ほんの少しだけ伸びた。
アリシアも、しゃがみ込んでラーチェを覗き込む。
「でも、“床の神さま”って呼ばれて、ちょっと得意だったりした?」
からかうような声で言うと、ラーチェは、ふっと形を崩した。
黒い影が、するすると立ち上がる。
今度は、縦に長い輪郭。
肩のあたりに、布のようなもの。
眉間に深い皺。
口元をきゅっと結んでいる。
「……ジョン神父?」
アリシアが、ぽかんと口を開けた。
ラーチェは、まるで見えない眼鏡でも押し上げるように、眉のあたりをぴくりと動かした。
さっき小部屋で見たばかりの、難しい顔のジョンの表情に、妙に似ている。
「ソコデナニヲシテイル!」
ジョン神父の声に似た声が部屋に響く。
「やめてよ、それ」
メアリーが、吹き出してしまった。
「怒ってるときの顔そっくり」
ラーチェは、今度は顎を少し上げてみせる。
目を細め、口の端だけをわずかに引き上げた。
どこか、人を見下ろすような気配。
「それは……」
アリシアが、眉をひそめる。
「リチャード殿、かな」
ラーチェは、その形のまま、片方の眉の位置をほんの少しだけずらした。
さっき、机の上の紙を指で叩いていたときの表情に、さらに似ていく。
「イタンシンモンカン、“リチャード”トモウシマス」
「似てる」
メアリーが、笑い泣きのような声を出した。
「やめなよ、そんなの真似したら」
と言いながら、笑いが止まらない。
「シンジツハイツモヒトツ!」
アリシアも、肩を震わせる。
「ラーチェ、悪趣味」
そう言いつつも、その悪趣味さに救われる自分を感じていた。
ラーチェは、リチャード顔の形をどんどん崩していく。
眉間の皺の深さ。
口元の締まり具合。
最後には、少しずつ誇張されていき、誰ともつかない妙な顔になった。
「なにそれ」
「イタンシンモンカン、“リチャード”トモウシマス」
メアリーが、とうとうその場に座り込んで笑い出す。
「どっちも真剣な顔なのに、ちょっとおかしい」
「神父に見せたら怒られるよ、絶対」
アリシアも、涙を拭きながら言う。
ラーチェは、しばらくその妙な顔を維持していたが、やがてふっと形を崩した。
今度は、小さな丸い塊になり、メアリーの足元にすり寄る。
まるで、「それでも、ここにいる」と言いたげに。
メアリーは、その黒い塊をそっと撫でるように、指先を床に滑らせた。
「ありがとう、ラーチェ」
小さな声でつぶやく。
「怖い人が来ても、こうやって笑わせてくれるなら、少しは平気な気がする」
アリシアも、黒い輪郭のそばに膝をつく。
「でも、顔まねは二人の前ではやめなよね」
「特に、神父様の前では」
その言葉に、ラーチェは、輪郭をぷるりと震わせた。
それが「分かっている」と言っているようで、二人はまた笑った。
教会の外では、リチャードが静かに報告書の文言を練っている。
ウィリアム教区長のもとへ届く言葉は、冷たく整えられていくだろう。
けれど、その間にも、教会の片隅では、三人と一匹の小さな笑い声が、確かに響いていた。
ラーチェは、白でも黒でもない。
神でも、ただの道具でもない。
その曖昧な場所で、今日もまた、二人の肩から少しだけ重さを奪っていた。




