3 ラーチェ
次の日の朝は、鐘の音で目が覚めた。
まだ外は薄暗い。窓の外の空が、黒から青に変わりかけている。寝台のあいだから、小さなざわめきが起きる。誰かが欠伸をし、誰かが布をはねのけ、誰かが「もう朝か」と小さく呟いた。
アリシアは、すでに起き上がっていた。髪を手早く結い直しながら、隣のわたしを見下ろす。
「起きられる?」
「……はい」
口ではそう言ったけれど、体は鉛みたいに重かった。昨日の緊張が全部残っている感じがする。それでも、ここで起きなかったら、もう二度と立てなくなる気がして、わたしはなんとか身体を起こした。
水場で顔を洗うと、冷たさが少しだけ頭をはっきりさせた。アリシアは慣れた手つきで桶の水を汲み、布を絞り、わたしにも分けてくれる。
「最初の日は、軽い仕事からね」
そう言って、わたしに粗い布のエプロンを渡した。
軽い仕事。
そう聞いて、わたしは少しだけ安心した。けれど、その「軽さ」が、教会の人たちの基準だということを、このときのわたしはまだ知らなかった。
最初に回されたのは、床と長椅子の掃き掃除だった。
礼拝堂の石の床。廊下。食堂。人が行き来する場所の埃を掃き取り、落ちている藁くずや泥を集めて桶に入れて回る。箒は思ったより重く、石床に当たるたびに腕にじんと響く。
次は食器洗い。昨日の夜に使われた皿と木の椀を、冷たい水でこすり、油を落とす。冬なら手がかじかんで動かなくなっていただろうけれど、夏の水はまだましだった。それでも、腰を曲げ続けると、背中がすぐに痛くなる。
「大丈夫?」
何度目かのとき、アリシアがさりげなく声をかけてくれた。
「はあっはあっ……はい」
答えるたびに、少しずつ「はい」が軽くなっていくふりをした。本当は、返事をするだけでも身体が倒れそうだった。
「ちょっと休む?」
「だ、だいじょうぶ……です」
ここで弱音を吐いたら、もう何もできない気がして、わたしは首を振った。
午前の祈りが終わるころには、足が棒みたいになっていた。けれど、仕事はそこで終わらない。
「次は、療養の部屋の水替えよ。いつも手伝いでラーチェっていう黒くて丸いヒル?みたいのがいるの。」
アリシアが言う。寝台の脇に置かれた桶の水を新しいものと取り替え、濡れた布を絞って額にあて直す。病人の汗を拭き、汚れた布を集める。
匂いが、きつかった。
汗と血と薬草と、長く閉め切られた部屋の空気。それに混じって、甘くて重たい、どこか腐ったような臭いもする。ひと息吸うごとに、胸の奥で何かが重くなっていった。
寝台のそばで布を絞るたび、足元の石床がゆっくりと遠ざかっていくような、変な感じがした。
「メアリー?メアリーッ!!」
アリシアの声が遠くなる。
目の前の寝台の縁が、少し揺れた。握っていた布が、手から滑り落ちる。
熱いのか寒いのか、分からない。
あ、と思ったときには、もう身体が前に傾いていた。
石床が近づいてくる。音が、全部遠くなる。
落ちる、と思った。
――落ちなかった。
硬いはずの床にぶつかる衝撃は、どこにも来なかった。その代わり、腰のあたりで、何かぬるりとしたものに支えられる感覚があった。
「危ない!!」
神父様の声が、すぐそばで聞こえる。
目を開けると、視界の端に、浅い鉢と、黒い影が見えた。
ラーチェが、わたしの腰に巻きついていた。
冷たい。けれど、その冷たさが、今はありがたかった。火照っていた皮膚から、熱がじわじわと抜けていく感覚がする。
「水を。アリシア」
神父様の声に、アリシアが慌てて動く気配がする。寝台と寝台のあいだの狭い通路で、人の影が入り混じった。続いて神父様の細められた目はわたしの腰にいるラーチェに向けられた。
「はあっはあっはあっ。ごっごめんなさい……ごめんなさい、わたし……」
自分でも何に対して謝っているのか分からない言葉が、勝手に口からこぼれた。
「謝ることではない」
神父様が私に目線を戻し手が、わたしの額に触れる。指先は思ったよりも温かかった。
「よく働いた。ここは、大人でも倒れる」
額から首筋、胸元へと、ゆっくりと手が移動する。その下で、ラーチェが静かに動いた。腰に巻きついた部分から、ひやりとした感触が背中を上ってくる。
なにかが、吸われている気がした。
でも、それは血や力を奪われるような感覚ではなかった。むしろ、胸の中で渦を巻いていた重さや、頭の芯にまとわりついていた霞が、少しずつ、外へ引き出されていく。
ふっと、息が通った。
「落ち着いてきたな」
神父様が小さく呟く。
ラーチェは、わたしの腰からそっと離れると、すべるようにして鉢へ戻っていった。その冷たさが名残のように肌に残った。ぴたりと水面が止まり、その黒い影は、何事もなかったかのように静まる。
「メアリー、大丈夫?」
アリシアが、すぐ近くでしゃがみ込んでいた。額に汗をにじませながら、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「……だい、じょうぶ、です」
さっきまで足元が遠ざかっていたのに、いまは、ちゃんと石床の冷たさを感じることができた。
「今日は、もう仕事はいい」
神父様が言う。
「……この子は体が弱い。少しずつ慣らしていけばよい。焦ることはない」
その言葉に、アリシアが小さくうなずく気配がした。わたしは、胸の中で何かがほどけるような感覚を覚えながら、天井の高い部屋を見上げた。
ステンドグラスを通った光が、さっきよりも柔らかく見えた。
ほんの一瞬だけ、鉢の中の黒い影と、目が合ったような気がする。
――ありがとう。
心の中で、そう呟いた。
返事は、やっぱりない。けれど、腰のあたりに残っている、冷たく優しい輪の感覚が、それで十分だと言っているような気がした。




