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水鏡のメアリー  作者: 風太郎


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3/6

3 ラーチェ

 次の日の朝は、鐘の音で目が覚めた。

 まだ外は薄暗い。窓の外の空が、黒から青に変わりかけている。寝台のあいだから、小さなざわめきが起きる。誰かが欠伸をし、誰かが布をはねのけ、誰かが「もう朝か」と小さく呟いた。

 アリシアは、すでに起き上がっていた。髪を手早く結い直しながら、隣のわたしを見下ろす。

 「起きられる?」

 「……はい」

 口ではそう言ったけれど、体は鉛みたいに重かった。昨日の緊張が全部残っている感じがする。それでも、ここで起きなかったら、もう二度と立てなくなる気がして、わたしはなんとか身体を起こした。

 水場で顔を洗うと、冷たさが少しだけ頭をはっきりさせた。アリシアは慣れた手つきで桶の水を汲み、布を絞り、わたしにも分けてくれる。

 「最初の日は、軽い仕事からね」

 そう言って、わたしに粗い布のエプロンを渡した。

 軽い仕事。

 そう聞いて、わたしは少しだけ安心した。けれど、その「軽さ」が、教会の人たちの基準だということを、このときのわたしはまだ知らなかった。

 最初に回されたのは、床と長椅子の掃き掃除だった。

 礼拝堂の石の床。廊下。食堂。人が行き来する場所の埃を掃き取り、落ちている藁くずや泥を集めて桶に入れて回る。箒は思ったより重く、石床に当たるたびに腕にじんと響く。

 次は食器洗い。昨日の夜に使われた皿と木の椀を、冷たい水でこすり、油を落とす。冬なら手がかじかんで動かなくなっていただろうけれど、夏の水はまだましだった。それでも、腰を曲げ続けると、背中がすぐに痛くなる。

 「大丈夫?」

 何度目かのとき、アリシアがさりげなく声をかけてくれた。

 「はあっはあっ……はい」

 答えるたびに、少しずつ「はい」が軽くなっていくふりをした。本当は、返事をするだけでも身体が倒れそうだった。

 「ちょっと休む?」

 「だ、だいじょうぶ……です」

 ここで弱音を吐いたら、もう何もできない気がして、わたしは首を振った。

 午前の祈りが終わるころには、足が棒みたいになっていた。けれど、仕事はそこで終わらない。

 「次は、療養の部屋の水替えよ。いつも手伝いでラーチェっていう黒くて丸いヒル?みたいのがいるの。」

 アリシアが言う。寝台の脇に置かれた桶の水を新しいものと取り替え、濡れた布を絞って額にあて直す。病人の汗を拭き、汚れた布を集める。

 匂いが、きつかった。

 汗と血と薬草と、長く閉め切られた部屋の空気。それに混じって、甘くて重たい、どこか腐ったような臭いもする。ひと息吸うごとに、胸の奥で何かが重くなっていった。

 寝台のそばで布を絞るたび、足元の石床がゆっくりと遠ざかっていくような、変な感じがした。

 「メアリー?メアリーッ!!」

 アリシアの声が遠くなる。

 目の前の寝台の縁が、少し揺れた。握っていた布が、手から滑り落ちる。

 熱いのか寒いのか、分からない。

 あ、と思ったときには、もう身体が前に傾いていた。

 石床が近づいてくる。音が、全部遠くなる。

 落ちる、と思った。

 ――落ちなかった。

 硬いはずの床にぶつかる衝撃は、どこにも来なかった。その代わり、腰のあたりで、何かぬるりとしたものに支えられる感覚があった。

 「危ない!!」

 神父様の声が、すぐそばで聞こえる。

 目を開けると、視界の端に、浅い鉢と、黒い影が見えた。

 ラーチェが、わたしの腰に巻きついていた。

 冷たい。けれど、その冷たさが、今はありがたかった。火照っていた皮膚から、熱がじわじわと抜けていく感覚がする。

 「水を。アリシア」

 神父様の声に、アリシアが慌てて動く気配がする。寝台と寝台のあいだの狭い通路で、人の影が入り混じった。続いて神父様の細められた目はわたしの腰にいるラーチェに向けられた。

 「はあっはあっはあっ。ごっごめんなさい……ごめんなさい、わたし……」

 自分でも何に対して謝っているのか分からない言葉が、勝手に口からこぼれた。

 「謝ることではない」

 神父様が私に目線を戻し手が、わたしの額に触れる。指先は思ったよりも温かかった。

 「よく働いた。ここは、大人でも倒れる」

 額から首筋、胸元へと、ゆっくりと手が移動する。その下で、ラーチェが静かに動いた。腰に巻きついた部分から、ひやりとした感触が背中を上ってくる。

 なにかが、吸われている気がした。

 でも、それは血や力を奪われるような感覚ではなかった。むしろ、胸の中で渦を巻いていた重さや、頭の芯にまとわりついていた霞が、少しずつ、外へ引き出されていく。

 ふっと、息が通った。

 「落ち着いてきたな」

 神父様が小さく呟く。

 ラーチェは、わたしの腰からそっと離れると、すべるようにして鉢へ戻っていった。その冷たさが名残のように肌に残った。ぴたりと水面が止まり、その黒い影は、何事もなかったかのように静まる。

 「メアリー、大丈夫?」

 アリシアが、すぐ近くでしゃがみ込んでいた。額に汗をにじませながら、心配そうにこちらを覗き込んでいる。

 「……だい、じょうぶ、です」

 さっきまで足元が遠ざかっていたのに、いまは、ちゃんと石床の冷たさを感じることができた。

 「今日は、もう仕事はいい」

 神父様が言う。

 「……この子は体が弱い。少しずつ慣らしていけばよい。焦ることはない」

 その言葉に、アリシアが小さくうなずく気配がした。わたしは、胸の中で何かがほどけるような感覚を覚えながら、天井の高い部屋を見上げた。

 ステンドグラスを通った光が、さっきよりも柔らかく見えた。

 ほんの一瞬だけ、鉢の中の黒い影と、目が合ったような気がする。

 ――ありがとう。

 心の中で、そう呟いた。

 返事は、やっぱりない。けれど、腰のあたりに残っている、冷たく優しい輪の感覚が、それで十分だと言っているような気がした。



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