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水鏡のメアリー  作者: 風太郎


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2/8

2 教会

 「メアリー」

 名前を呼ばれて、なんとか顔を上げた。さっきまで炎の音に重なっていた鐘の響きが、いつの間にか、教会の天井に反射している。

 あのときのわたしは、火ではなく、光を見ていた。

 「ご挨拶を」

 父さんに肘をつつかれて、前に出る。足元の石床が、妙に冷たくて硬い。転ばないように気をつけながら、わたしは神父様の前でぎこちなくスカートをつまんだ。

 「はあっはあっ。め、メアリーです。……よ、よろしくお願いします」

 声がうまく出なくて、途中でつっかえる。自分の声じゃないみたいに、薄くて頼りない音だった。

 神父様は、一瞬引きつったように目を見開いてから、ふっと口元を緩めた。

 「そうか。・・・ここでは、怖いことは何もないよ」

 それは、たぶん嘘だ。

 寝台でうめいている人たちも、浅い鉢のなかでうごめく黒い影も、わたしには十分に怖かった。それでも、神父様の声は、家で聞く父さんの声より、少しだけ安定しているように感じられた。

 「女神様は、弱い者の友だ」

 そう付け加えると、神父様は父さんの方を向く。

 「預かろう。この子は、ここでよく学び、よく祈り、よく働くことになる」

 父さんは何度も頭を下げた。額が石床に当たって、乾いた音がした。

 「本当に……本当に、お願いします」

 言葉の端に、掠れた何かが混じる。わたしは父さんの背中と神父様の横顔のあいだで、視線の置き場を見失った。

 そのとき、袖口がそっと引かれた。

 「こっちだよ」

 振り向くと、わたしとそう年の違わない女の子が立っていた。栗色の髪を三つ編みにして、端正な顔立ちをしている。けれど、その目は驚くほどよく動き、こちらをまっすぐに見ていた。

 「新しい子だって?わたしはアリシア。案内するように言われたの」

 言葉ははきはきしているのに、手つきはそっとしていた。わたしの手の甲に触れるその指先は、粗い布と石鹸の匂いがした。

 「……メアリーです。あのっアリシアさんってあの領主様の・・・」

 息が整ったからかさっきより、少しだけ滑らかに名乗れた気がする。

 「うん、そうよ。でもここではただのアリシアでいいわ。メアリー。じゃあ、まずは寝るところと、水場と、食堂ね」

 アリシアはそう言って、当たり前のようにわたしの手を握った。小さいけれど、思っていたよりも力のある手だった。

 父さんの方を振り返ると、もう一度、視線が合った。

 「また来るからな」

 父さんはそう言って笑おうとして、うまく笑えなかった。わたしは頷いたつもりだったけれど、ちゃんと頷けていたかどうか、自信はない。

 扉が閉まる音が、背中から聞こえた。

 わたしは額から流れる汗を無視してもう一度、神父様のいる方を見た。神父様は、父さんを見送ったあとで、すぐに患者の方へ向き直っている。その足元、浅い鉢の中で、黒い影がゆっくりと向きを変えた。

 ラーチェの目が、一瞬だけ、こちらを掠める。

 アリシアに手を引っ張られながら、わたしはその視線が、いつまでも肌の上に残っているような気がした。

 「ここが女子の部屋。こっちが洗うところ。朝は早いから、起きられないと大変よ。特に最近はアギューで倒れる人が多いから」

 アリシアは、教会の中を迷いなく歩きながら、次々に説明してくれた。石壁にかかった聖人の絵。棚に並んだ皿。祈りのときに並ぶ長椅子。鐘が鳴る時刻。どれもわたしには新しくて、少し眩しかった。

 「はあっはあっ。あっあの……アリシアさんは、ここに長くいるんですか」

 自分でも意外なほど小さな声が、口からこぼれた。

 「うん。物心ついたときから、たぶん」

 アリシアは肩をすくめて笑う。

 「だから、だいたい何でも知ってるの。分からないことがあったら、わたしか、あそこのおばさんたちに聞けばいいわ」

 食堂の端でパンを切っている年配の女性たちを、顎で指す。

 「……あ、ありがとう、ございます」

 そう言うと、アリシアはちらりとわたしの顔を見た。

 「ねえ、メアリーは、どこか具合が悪いの?」

 どきりとした。胸の奥で、さっきの炎の熱がぶり返す。

 「変に息が切れてて、歩き方がちょっとふらついてるから」

 アリシアの目は、責めるより先に、観察していた。わたしは、なんと言えばいいのか分からず、息を整えながら言葉を探す。

 「スーッハー。……昔から、あんまり、強くなくて」

 正直に言えば、それだけのことだ。

 アリシアは「ああ」と短くうなずいた。

 「じゃあ、無理はしない方がいいわね。ここの仕事、きついから」

 「きつい、ですか」

 「きついわよ。祈るのも、働くのも」

 でもね、とアリシアは言葉を継いだ。

 「ちゃんとやれば、少しずつ、できることが増えるの」

 その言い方がなんだか嬉しそうで、わたしは、さっきよりも少しだけ息がしやすくなった。

 その夜、与えられた寝台の上で、わたしは眠れなかった。

 丸くて高い天井の部屋。並ぶ寝台。かすかな寝息。窓の外から差し込む月の光が、薄い線になって床を撫でている。

 耳をすますと、遠くの方で、不規則に水の滴る音と、何かいくつもの柔らかいものが水を揺らすような音が聞こえた。


―あれが、聖域。


 神父様が口にした言葉を思い出す。教会の地下。女神様の御業が行われる、特別な場所。


 目を閉じると、水の中でうごめく黒い影と、その中からこちらを見た冷たい目が、暗闇の裏側に浮かび上がった。


 神父様が疑うような眼差しを向けていたその存在の名前はまだわからない。ただ、軽々しく呼びかけてはいけないものだということだけは、なんとなく分かった。


胸の奥の小さな火が、水面で揺れた気がした。


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