1 プロローグ
炎が、近い。
目の前で立ちのぼる橙の柱が、夜の闇を押し返していた。乾いた木がはぜる音と、脂が焦げる匂いが、風に乗って肌を撫でる。喉の奥がきな粉みたいにザラついて、息を吸うたびに胸の中まで焼けていく気がした。
遠くで鐘が鳴っている。誰かが祈りの言葉を唱えている。けれど、耳の奥でいちばん大きく響いているのは、炎が揺れるたびに生まれる、ぱち、ぱち、という小さな音だった。
――ああ、この音、知ってる。
目を閉じると、暗闇の向こうに、別の火が浮かび上がる。
がらんとした一間きりの家。その真ん中に置かれた粗末な木の机。そのうえでちろちろと揺れている、小さなろうそくの火。
夜の寒さから、わたしたちを一つだけ守ってくれていた光。
父さんの横顔が、その火に照らされている。深く刻まれた皺の影。こめかみの白髪。握りしめた手の節くれだった指先。外から吹き込む風に炎が揺れるたび、父さんの影も、壁の上で揺れた。
その夜、父さんは、いつもより少しだけ多くしゃべった。
教会のこと。神父様のこと。教会の地下で飼われている、不思議なヒルのこと。
「女神様がお遣わしになった、特別な生き物なんだとさ」
そう言った父さんの声には、疲れと一緒に、微かな期待が混じっていた。わたしはベッドにその重い身体を預けながら、その声と、ろうそくの火をじっと見ていた。
炎がまた揺れる。今度は、もっと強い光に溶けていく。
朝。家を出たとき、外の光は、目が痛くなるほどまぶしくわたしの青白い肌を照りつける。夏の太陽が、土と石の道を白く焼いていた。風は熱く、けれど、家の中の冷えた空気よりも、どこか優しく思えた。
父さんの大きな手が、わたしの手をぎゅっと握る。
「大丈夫だ」と、父さんは言った。わたしに言い聞かせているのか、自分に言い聞かせているのか、分からない声で。
教会へ続く道は、いつもより長く感じられた。まぶしさに目を細めながら見上げると、白い壁の向こうに、教会の細長い先塔が突き出している。その先端で、太陽の光がきらりと跳ねた。
扉が開く。中に足を踏み入れた瞬間、外の熱が背中で切れた。
ひんやりとした空気。石の床。高い天井。さっきまで目を焼いていた太陽の光が、今度は高窓のステンドグラスを通って、単純な装飾が赤や青や金の色に変わってくる。
床の上に伸びる色ガラスの模様を、わたしは重い身体を引きずりながら一歩ごとに踏んでいく。光の中を歩いているのか、光に踏みつけられているのか、よく分からなかった。
奥から、低い祈りの声が聞こえる。香の匂いに混じって、別の匂いもした。
汗。血。薬草。古い布。息の詰まったような、うめき声。
導かれるように、父さんの手に引かれて、礼拝堂の横の細い通路を進んでいく。扉の隙間から差し込む細い光が、埃を金色に浮かび上がらせている。その向こうに、並べられた寝台があった。
人が横たわっている。顔に布をかけられた者、額に布を乗せられた者。痩せた腕。荒い息。乾いた咳。
そのあいだを、神父様が歩いていた。
質素な法衣の裾をからげ、袖を肘までまくって、器と布と、細い棒のようなものを手にしている。その足元近く、浅い鉢の中で、黒い何かがうごめいていた。
それが、わたしが初めて見たラーチェだった。
ぬらり、と。水面の下で、細長い影が動く。釘のように冷たい目で、ラーチェは部屋の中を見回していた。わたしたちが扉のところに立った瞬間、その目が、ほんの少しだけこちらを向いた気がした。
神父様が顔を上げる。
「ああ……来てくれたのだな」
祈りのときとは少し違う、少し掠れた声だった。夏の暑さと、尽きない看病で、疲れているのが分かった。
父さんの手が、わたしの手を離れる。
「この子を、お願いします」
父さんは膝をつき、深く頭を下げた。息が切れて焦点が合わなくなったわたしはどうしていいか分からず、ただ、ステンドグラスの色が薄く差し込む床と、神父様と、足元の鉢の中の黒い影を、順番に見つめた。
再び、鐘の音が聞こえた。今度は、遠くではなく、すぐ近くの塔から。
……今、鳴っている鐘と、同じ音だ。
現の炎と、昔のろうそくの火と、教会の光が、頭の中で一つに重なり合う。焼ける匂いと、香の匂いも混ざっていく。
あのとき、わたしはまだ知らなかった。
父さんが、そのあと何度も教会に通い、何度も神父様と話をすること。
神父様が、病人たちに追われながらも、わたしのことを気にかけ続けてくれていたこと。
そして何より――あの鉢の中から、静かにこちらを見つめていたラーチェが、この先ずっと、わたしの隣に居続けることになるなんて。
炎がはぜる音で、意識がまた現在に引き戻される。
熱い。苦しい。けれど、さっきよりも、少しだけ怖くない。
わたしは目を閉じたまま、小さく息を吸う。
――ラーチェ。
胸の奥で、その名を呼ぶ。
わずか数ミリの小さなろうそくの火はその返事を待ち続けていた。




