28 視察
リチャードがベレスフォードの村に到着してから、二日が過ぎた。
初日は礼儀通り、教会と礼拝堂、白魔力の道具類の確認に費やされた。
司祭ジョンも、アリシアもメアリーも、そのあいだはきちんと「視察の相手」として振る舞った。
二日目。
リチャードは、「災害後の村の様子も見ておきたい」と告げた。
護衛を一人だけ連れ、あとの随員は教会に残す。
「民の生活は、少人数で静かに見る方がよいでしょう」
そう言って、黒い法衣の裾を軽く払う。
ジョンは、一瞬だけ迷ったが、結局うなずいた。
「案内役は不要ですか」
「結構です」
リチャードは、にこりともせずに答えた。
「迷うほど大きな村ではないようですし」
その言葉は事実だったが、わずかな棘も含んでいた。
教会の前の坂道を下り、リチャードは村の中央通りへと出た。
嵐の痕は、まだあちこちに残っている。
屋根の瓦の色が新しい家。
柱の一本だけが生木に替わっている納屋。
川沿いには、補強された土手が長く伸びていた。
「白魔術で固めたところは、ここからでも分かりますね、リチャード殿」
護衛の男が、小声で言う。
リチャードは、土手の一部に目をやった。
そこだけ、土と石の重なり方が、不自然なほど整っている。
「土台を支える力として使う分には、教義の範囲内だ」
リチャードは、淡々と答えた。
「問題は、それを誰と、何と、組み合わせているかだ」
通りの向こうから、女たちの話し声が聞こえた。
桶を抱えた数人が、井戸端で水を汲んでいる。
リチャードは、歩みを少しだけ緩めた。
耳だけをそちらに向ける。
「……この前の嵐は、本当にひどかったねえ」
「でも、足の人も、もう畑の端まで歩いてるんだってさ」
さらりと、「足の人」という言葉が出る。
リチャードは、そのまま井戸に近づいた。
「失礼」
柔らかい声で、女たちに声をかける。
「教会から参りました。教区の者です」
黒い法衣と銀の章を見て、女たちは慌てて頭を下げた。
「いつも教会さまにはお世話になっております」
「災害のあと、皆さんの暮らしがどうなっているか、教区長がお知りになりたがっておりまして」
リチャードは、丁寧な物腰で言葉を続ける。
「怪我をされた方のことも、少しうかがっておきたいのですが」
女たちは、顔を見合わせた。
それから、先ほど話していた一人がおずおずと口を開いた。
「足を折ったロバートさんのことでしょうか。それとも、指をやったあの子?」
「両方とも、うかがわせてください」
リチャードは微笑を浮かべた。
女たちの言葉は、素直だった。
足の男がどれだけひどく潰されていたか。
昔なら、もう歩けなかったかもしれないこと。
「でも、ジョン神父さまと、アリシアさまメアリーさまが、板と杖と白い糸で、本当にうまくやってくださって」
「それに、……ラーチェさまが、ねえ」
ぽろりと、その名が出た。
リチャードの目が、わずかに細くなる。
「…ラーチェ……さま?」
言葉の終わりを、あえて繰り返す。
女は、少し恥ずかしそうに笑った。
「ええ、その……教会の床にいる、あの黒い……」
「影獣みたいな?」
別の女が、手を動かして形にならない輪郭を描く。
「前に、足の人の寝台の下でじっとしていてね。翌日から、足先の色がよくなってきたんですよ」
「薬師でもないのに、不思議なもんです」
リチャードは、うなずきながら、心の中で言葉を並べ替えた。
「足先の色がよくなった」「寝台の下でじっとしていた」「ラーチェさま」
「皆さんは、その……ラーチェ、とおっしゃいましたか。その存在を、どうお考えです?」
あくまで何気ない調子で問う。
女たちは、互いの顔を見た。
「どうって……」
「教会さまのところにいる、不思議なものです」
「助けてくれた、って子どもたちは言いますけど」
「“さま”をつけるのは、ちょっと言い過ぎかねえ」
そう言いながらも、その声には親しみが混じっている。
「でも、うちの子の指をね」
最初に口を開いた女が、続けた。
「あの子、板と包帯を替えてもらうたびに、ラーチェさまが床の下でじっとしててくれたって、嬉しそうに言うんですよ」
「それで、前に別の子が指を折ったときより、ずっと早く腫れが引いて」
「ラーチェさまも、教会さまの一部なんだって」
そこまで言って、女ははっとして口を押えた。
リチャードは、穏やかな表情のまま、首をかしげてみせる。
「“教会さまの一部”」
「い、いや、その……」
女は慌てて手を振った。
「変な意味じゃなくてですね。ただ、教会さまもラーチェさまも、一緒になってうちらを助けてくれてる、って、そのくらいのことで」
「……ふむ。なるほど。分かりました」
リチャードは、にこやかに頭を下げた。
「貴重なお話、ありがとうございます。教区長にもお伝えいたします」
女たちがほっとしたように息をつく。
リチャードは、井戸から離れながら、表情をすっと元の無表情に戻した。
「どうでした、リチャード殿」
護衛が、小声で尋ねる。
「予想の範囲内だ」
リチャードは右手で口を覆いながら淡々と答える。
「“教会さまの一部”とまで口にする程度には、日常の中に入り込んでいる」
「子どもたちは“さま”づけで呼び、大人もそれを訂正しきれていない」
「災害のあとの回復と結びついた存在は、信仰の芽になりやすい」
言いながら、別の通りへと足を向ける。
途中で、遊んでいる子どもたちの声が聞こえた。
「ほら、ラーチェさまが通るよ」
「床の神さまなんだぞ」
「おまえの足、またぶつけたら、ラーチェさまに怒られる」
笑い混じりのやり取り。
リチャードは、彼らの方を見なかった。
耳だけで、十分だった。
「……“床の神さま”、ですか」
護衛が、苦笑まじりに呟く。
「かわいらしい言い方にも聞こえますが」
「かわいらしい異端ほど、手遅れになりやすい」
リチャードの声は、冷たかった。
「教義なき“さま”は、すべて毒だ」
護衛は、それ以上何も言わなかった。
リチャードは、村の外れ、倒壊した家の跡地に立ち寄った。
足の男の家だ。
今は柱が立て直され、壁の一部が組まれ直されている。
男本人が、松葉杖をついて外に出てきた。
リチャードは、表向きの目的どおり、白魔術による治療の経過をいくつか質問した。
男は、ジョンやアリシアたちへの感謝を素直に語った。
そして、やはり最後にはこう言った。
「夜、眠れないときに、寝台の下が少しだけ軽くなる気配があって」
「それで、少し楽になったような……気のせいかもしれませんが」
ラーチェ、という名は出さなかった。
だが、リチャードには十分だった。
村を一回りして教会に戻るころには、彼の中でいくつかの言葉が、はっきりと形を持ち始めていた。
「信仰対象化の兆候あり」
「教会外的存在との共存」
「司祭ジョンによる“補助存在”という表現は、村の実感と乖離」
教会の尖塔が見えてくる。
その足元の石段の影で、黒い輪郭が、ひっそりと形を変えた。
リチャードは、足を止めない。
ただ、その存在の上を、何事もなかったかのように通り過ぎた。
彼の仕事は、「見なかったことにする」ことではない。
見たうえで、教義の枠からどれだけ外れているかを数字のように積み重ねることだった。




