27 来訪
その日、嵐の後片づけもひと区切りついて、教会の中には久しぶりに「仕事以外の時間」が流れていた。
メアリーは、礼拝堂の隅で、白い糸を細く伸ばす練習をしていた。
ラーチェは、その足元の床の上で、いつものように輪になり……かけて、ふいに形を変えた。
黒い輪郭が、じわじわと立ち上がり、四角く尖った柱のようになる。
「……?」
メアリーが思わず首をかしげた瞬間、それはさらに変形した。
八つの三角形が、空中でぴたりと接し合う。
黒い、完璧な正八面体。
「え、なにそれ」
メアリーは思わず近づいた。
ラーチェは何も言わないが、黒い面のひとつを、わずかに前後に揺らして見せる。
「転がせってこと?」
そっと指先でつつくと、正八面体は、かたん、と一つ隣の面へ転がった。
そのたびに、礼拝堂の床に落ちる影の形が、きれいに変わっていく。
「……きれい」
メアリーは、しばらくそれを眺めていた。
やがて、ラーチェの形がまた崩れる。
今度は、周りの空気を吸い込みながら膨らみ、背もたれが、するすると伸びてくる。
「椅子?」
座面は、メアリーの腰の高さにぴたりと合う大きさだった。
「座っていいってこと?」
メアリーが恐る恐る腰を下ろすと、ラーチェ椅子は、まるで呼吸を合わせるように、ほんの少しだけ高さを調整した。
「なにこれ、すごい。……ひんやりしててきもちいい」
思わず笑い声が漏れる。
さっきまでの練習でこわばっていた背中が、すうっと伸びる。
思わず顔が緩んでよだれが垂れそうになる。
ラーチェ椅子は、メアリーの重さを見ながら、脚の太さや座面の傾きまで、わずかに変えていった。
「メアリー、何やってるの?」
廊下の方から、アリシアの声がした。
振り返ると、入口のところで、彼女が目を丸くしている。
「え、えっと、その……………。ラーチェが、椅子になってくれて」
説明になっているような、なっていないような返事だった。
アリシアが近づいてくる。
ラーチェは、それを見ていたのか、背もたれを引っ込めてどんどん身体を膨らませていく。
「え!ちょっと!?」
アリシアが思わず言う。
黒い玉は、長椅子と同じ大きさくらいまで膨らみ、軽く飛び跳ねながらメアリーに近づく。
ぽかんとするメアリーの額に黒い玉が当たる。
その瞬間、ポーンッと跳ね返っていった。
黒い玉は、見た目こそ大きいが、当たった感触は拍子抜けするほど軽かった。
おそらく自分の力で跳ね返ったのだろう。
「ちょっと!やめてよ、くすぐったい」
メアリーが笑いながら髪をよけると、アリシアまでつられて笑った。
「そんなこともできるんだ、ラーチェ」
アリシアは感心したように言う。
「いつもは輪っかか、もじもじした影みたいなのに……こんなに大きくなって、お母さんうれしい」
「お母さん?アリシアってラーチェのお母さんなの?」
メアリーは真剣な顔でアリシアを見つめている。
アリシアは少し困ったような顔を浮かべていると、ラーチェはポヒュッという音が鳴ると急速に身体がしぼみ始め、ビュルルルルという音を立てて礼拝堂を天井まできりもみ回転しながら打ち上げられる。
ラーチェはそのまま高窓から差す赤や青や金の色の光に飲まれていった。
「ええ!!?」
メアリーは口を唖然とさせてる一方でアリシアはまたか、といった呆れた表情を浮かべている。
次の瞬間、ドスンッとラーチェがアリシアの近くに落ちてきたと思ったら今度は立方体の形に変わっていた。
それが、アリシアの足元へころころと転がってきた。
「……戻って…来たのね。今度はわたしに、何かしろって?」
アリシアが立方体を見下ろす。
ラーチェは、黒い面の一つを、ぴん、と跳ね上げるように動かした。
「……ああ、分かった。さっきメアリーにやってたみたいに、形を見て遊べってことね?」
アリシアは、片膝をついて立方体に手を伸ばした。
自分の白魔力を、ほんの少しだけ指先に集める。
「こんな感じで、角を丸くしたらどう?」
触れたところから、黒い立方体の角が、少しずつ丸くなっていく。
ラーチェが、自分で形を変えたのか。
アリシアの白魔力に合わせて変わったのか。
その境目はよく分からない。
ただ、二人と一匹の間に、言葉ではないやり取りが生まれ始めていた。
メアリーも、白い糸を一本伸ばして、立方体の面をなぞってみる。
糸の先が触れたところだけ、表面がすこしだけ波打つ。
「くすぐったいのかな」
メアリーが笑うと、ラーチェも、立方体の全体をぷるりと震わせてみせた。
それが返事のように見えて、二人は顔を見合わせて笑った。
ラーチェは、今度はふわりと形を崩し、床いっぱいに広がる。
その上に、三つの小さな出っ張りができる。
ひとつは椅子。
ひとつは小さなテーブル。
もうひとつは、さっきの正八面体。
「なにこれ、三つ同時?」
アリシアが目を丸くする。
メアリーは、また椅子に腰を下ろし、テーブルの上に白い糸を輪にして置いた。
アリシアは、正八面体を指で転がす。
黒い形が変わるたびに、白い糸の輪も、ラーチェの動きに合わせてゆっくりと歪んだ。
「なんだか、遊んでるだけで魔力の練習になってる気がする」
メアリーがぽつりと言う。
「わたしも」
アリシアは笑った。
「ラーチェに合わせるの、けっこう集中いるし」
二人と一匹が、ただ笑っている時間。
嵐も、川も、怪我人も、少しだけ遠くに感じられる、短い休み時間だった。
「お前たち、何をしている」
低い声が、礼拝堂の入口から響いた。
びくりとして振り返ると、そこに立っていたのは、神父だった。
眉間に、くっきりと皺が寄っている。
「神父様」
アリシアが慌てて立ち上がる。
椅子もテーブルも正八面体も、その動きに驚いたように、床の黒い輪へと一瞬で溶け込んだ。
ラーチェは、いつもの「ただの影」に戻っている。
「練習をしていました」
メアリーが、とっさにそう口にした。
「ラーチェと一緒に、魔力の形を合わせる練習を」
ジョンは、しばし二人と床の黒い輪とを見比べた。
「……練習に見えなかったが」
その声音には、わずかに呆れと心配が混ざっていた。
「村はまだ片づけの最中だ。呼ばれればすぐに動けるように、白魔力の調整は怠るな」
「はい」
アリシアとメアリーは、同時に頭を下げた。
ラーチェの輪郭が、二人の足元でわずかに縮む。
「ラーチェのことも」
ジョンは言葉を継ぐ。
「お前たちの中だけの“遊び相手”にしておくつもりはない」
その言葉に、二人は一瞬だけ顔を強張らせた。
ジョンは、ラーチェに視線を落とす。
「今日は、少し気を抜きたくなる気持ちは分かる。だが、あれをどう扱うかで、この先の村の行く末が変わるかもしれないのだ」
メアリーは、唇を噛んだ。
アリシアも、真面目な顔に戻ってうなずく。
「分かりました。ラーチェのことも、ちゃんと……」
と言いかけたところで、教会の扉がノックもなく開いた。
強い日差しとともに、数人分の足音が、石床に響く。
入口の方に、三人とも一斉に顔を向けた。
先頭に立つのは、黒い法衣に控えめな銀の章をつけた男。
背筋はまっすぐで、歩みに迷いがない。
その後ろに、二人の従者らしい若者と、簡素な装いの護衛が数人。
男は、礼拝堂の中央まで進むと、静かに一礼した。
「ベレスフォード領教会司祭、ジョン殿」
はっきりとした声。
ジョンは、すぐに一歩前に出た。
「あなたは」
「ウィリアム教区長お預かり、異端審問官のリチャードと申します」
男は、自ら名乗った。
「災害後の状況と、白魔術運用の実情を視察するために参りました」
「ようこそ」
ジョンは、かろうじて礼儀通りの言葉を返す。
胸の内で、何か冷たいものが沈んでいくのを感じながら。
メアリーとアリシアは、その背中の少し後ろで息を飲んでいた。
足元のラーチェは、輪郭をいっそう薄くして、床の影に紛れ込もうとしていた。
さっきまでの笑い声が、うそのように消えていく。
教会の中に、新しい緊張が、静かに入り込んできた。




