26 プロローグ 翳鬼(えいき)
石造りの教区本部は、外から見ればどこにでもある厳めしい教会のひとつに過ぎない。
だが、その奥まった一室は、祈りではなく報告書の紙の音で満ちていた。
ウィリアム教区長は、窓から差し込む光を背に受けながら、机の上の一通の手紙を読み返していた。
「ベレスフォード領教会司祭 ジョンより」
封蝋は、規定通り。
文面も、形式だけ見れば不足はない。
だが、ウィリアムの目は、いくつかの言葉の上で何度も止まっていた。
「特異な存在一体」「白魔術の効果を補助し」「器具ないし補助存在として扱うことが妥当」
ペン先で、その文を軽く叩く。
「器具、か」
低い声が、部屋の石壁に吸い込まれた。
教会で、名も由来も不明の存在を「器具」と呼んで報告してきた司祭を、ウィリアムはほとんど見たことがない。
たいていは、もっと単純な言い方をする。
「魔」「悪しきもの」「奇跡」。
ジョンは、そのどれも選ばなかった。
「白魔術の補助として観察中」
その慎重さを、ウィリアムは素直な謙虚さとは受け取らなかった。
「危険の輪郭を、曖昧にしているだけではないのか」
独り言が、吐息とともに漏れる。
ジョン・ベレスフォード。
若くはないが、まだ老いてもいない司祭。
ベレスフォード領現当主ロバート・ベレスフォードの弟。
白魔術の運用についての報告は、これまでおおむね無難だった。
教義の解釈で目立った問題を起こしたこともない。
「だからこそ、かえって気になる」
穏やかで、問題を起こさない者が、急に「特異な補助存在」などという言い回しを使い始める。
その裏に何があるか。
ウィリアムの中では、すでに答えが半ば決まっていた。
「教義の外側に、足をかけたのだろう」
扉が、控えめにノックされた。
「お入り」
ウィリアムが声を掛けると、一人の男が姿を現した。
黒い法衣に、控えめな銀の十字章。
背は高くないが、立ち姿に隙がない。
異端審問官、リチャード。
ウィリアムが、数少ない「使える駒」と認めている男だった。
「お呼びでしょうか、教区長」
リチャードは、丁寧に頭を下げた。
その声色には、敬意と同時に、どこか冷たさが混じっている。
ウィリアムは、机の上の手紙を指で示した。
「ベレスフォード領からの報告だ。読め」
リチャードは、一歩前に出て、手紙を受け取る。
目で追う速度は速い。
何度か瞬きをしただけで、最後まで目を通した。
「……興味深い報告です」
短くそう評した。
「“特異な補助存在”」
ウィリアムが、その語を繰り返す。
「お前なら、どう読む」
リチャードは、ほんのわずかに口元を動かした。
笑みとも、嘲りともつかない表情。
「自らを正しく導けなくなった司祭が、異端を“役に立つもの”として手元に置こうとしている、と読みます」
言葉は淡々としている。
だが、その中に「無罪の可能性」という選択肢は、初めから存在していない。
リチャードにとって、こうした報告はすべて、「どの程度の異端か」を測る材料でしかなかった。
「わたしも、そう見ている」
ウィリアムは、あっさりと同意する。
「白魔術の補助をうたう異形が、教会の中に居座っている。村人は、すでにそれを“さま”づけで呼び始めたらしい」
リチャードの目が、わずかに細くなった。
「信仰の対象として芽生えつつある、と」
「ジョンは、その部分を書いていない」
ウィリアムは、手紙の一行を軽く叩く。
「だが、災害と“奇跡的な”回復があれば、愚かな民はすぐに新しい偶像を見つける。わたしにそれを想像するなという方が無理というものだ」
リチャードは、小さく頷いた。
「教義なき信仰は、必ず毒になります」
「ゆえに、早急な確認が必要だ」
ウィリアムは、椅子から立ち上がった。
窓の外には、遠く別の町の塔が見える。
そこからさらに東へ行けば、ベレスフォード領がある。
「書簡で問うてからでは遅い」
ウィリアムは言う。
「文は相手の都合でいくらでも飾れる。事実を見ずに返事をすれば、こちらが後手に回るだけだ」
リチャードは、その言葉を待っていたかのように、静かに一歩踏み出した。
「ベレスフォードへ向かう使いを、お求めですね」
「お前以外に、誰に任せる」
ウィリアムは、ためらわずに答えた。
「目的は三つだ」
指を一本折る。
「ひとつ。ジョン・ベレスフォードが、教義に背きつつあるかどうかの確認」
もう一本。
「ふたつ。その“特異な補助存在”とやらが、白魔術の枠内で説明しうるものかどうかの確認」
そして、三本目。
「みっつ。村人のあいだに、教会とは異なる信仰が育ちつつあるかどうかの確認」
リチャードは、一つずつ復唱するように頷いた。
「ジョン神父の逸脱の度合い」「補助存在の本質」「村の信仰の行方」
「そうだ」
ウィリアムは、短く言う。
「お前の仕事は“真実を探すこと”ではない」
その言葉に、リチャードは微かに口元を上げた。
「承知しております」
「教義から外れたものを見つけ出し、その証を集めることだ」
ウィリアムの声は、石のように冷たい。
「もし、ジョンが自らの司祭位と引き換えにでも、その存在を守ろうとしているなら、それもまた異端の徴だ」
「彼自身の信仰の向き先も、確認いたしましょう」
リチャードの瞳には、好奇心ではなく、仕事の対象を見る乾いた光だけが宿っていた。
「村は、嵐のあとで疲弊しているはずです」
ウィリアムが続ける。
「表向きは、“災害見舞いと状況視察”だ。白魔術の運用状況を見に行く、という名目なら、誰も怪しまん」
リチャードは、軽く目を伏せた。
「異端の芽は、疲れた土にこそよく生える」
それは、彼なりの実感から出た言葉だった。
戦や飢饉、災害のあとには、決まって「奇跡」や「新しい救い」が語られる。
そこに、教義の枠外のものが紛れ込むことを、リチャードは何度も見てきた。
「出立は三日以内に」
ウィリアムが告げる。
「道中の護衛と従者は、好きに選べ。ただし、あくまで“視察の随員”として目立たぬ者を」
「かしこまりました」
リチャードは、深く頭を下げた。
部屋を出る前に、ふと振り返る。
「教区長」
「何だ」
「もし、ベレスフォードにおいて、明白な異端が確認された場合」
その先を、わずかに言い淀む。
ウィリアムは、その続きを代わりに言った。
「まずは報告せよ」
短く、しかしはっきりと。
「勝手に裁けば、お前自身が裁かれる」
「承知しております」
リチャードは、今度こそ部屋を出て行った。
扉が閉まる。
ウィリアムは、しばらくその音の余韻を聞いていた。
机の上のジョンの手紙に、視線を落とす。
「お前が敵でないと証明するためにも、な」
小さな声で呟く。
ジョンにとって、これは試験になる。
白魔術の司祭として、教会の枠内に留まり続けるのか。
それとも、「特異な存在」とともに外へ踏み出すのか。
その選択の結果を見届けるのは、いまやウィリアムではなく、リチャードの役目だった。




