24 信仰
足の男が松葉杖で家に戻り、指の子どもが包帯ごと友達に「嵐の勲章」を見せて歩くようになったころ、村の空気はほんの少しだけ変わり始めていた。
片づけの合間、井戸端で水を汲んでいた女たちが、ふと声を潜める。
「教会さまのおかげだねえ。あの足、前ならとうの昔に腐ってたかもしれないよ」
「白魔力はありがたいよ。けどさ」
ひとりが、周りを見回してから、教会の方角をあごで示した。
「あの黒いやつ、ほら……床の上をずるずるしてる……ラーチェ?」
「ああ、あれねえ」
べつの女が頷く。
「わたし、夜に見たんだよ。あの人の足の包帯の上に、ちょんって乗っかっててね。次の日から急に腫れが引き始めてさ」
井戸端の輪の中に、少しざわめきが走る。
「教会の“聖獣”みたいなもんかねえ」
「でも、目つきはちょっと怖いよ」
「怖いけど、助けてくれるんだろ。うちの子の指だって、ラーチェさまが下で見ててくれたんだ、ってあの子が言い張るんだよ」
「さま、なんてつけると神父様に怒られないかい」
そう言いつつ、その声には笑いが混じっていた。
やがて、教会に来る子どもたちの口からも、
「ラーチェさま、今日もいるかな」
「床の神さまなんだって」
という小さな囁きが聞こえるようになる。
誰かが本気で教義として教えたわけではない。
ただ、黒い輪郭が寝台の下や土足の床にいて、そのそばの怪我人だけが、今までより早く良くなっていく。
その事実が、村人のなかで、ゆっくりと「信じてしまいたい物語」に変わりつつあった。
日暮れ前、男の子が帰り際に、ラーチェのそばでそっと囁いた。
「ラーチェさま、今日もありがとう」
ラーチェは、輪郭をほんの少しだけ震わせただけだった。
けれど、その小さな震えが、男の子にとっては「返事」のように見えた。
入口近くで、神父様はその様子を黙って見ていた。
ラーチェに「さま」をつけることを、その場で咎めはしなかった。
ただ、その言葉が胸に小さな棘のように残った。
その夜、教会の灯が消え始めたころ。
アリシアとメアリーが、それぞれの寝室へ引き上げたあと、礼拝堂には神父様とラーチェだけが残った。
祭壇の上に灯した一本の蝋燭が、長い影を床に落としている。
ラーチェは、祭壇の右端でその蝋燭を真似をしながら揺らいでいた。
神父様は、長椅子の一つに腰を下ろし、しばらく何も言わなかった。
やがて、低い声で口を開く。
「お前のしていることを、わたしは理解していない」
ラーチェは動かない。
「白魔力で説明するには、いくつかのことが合わない」
神父様の視線は、礼拝堂の床をゆっくりと辿っていく。
足の男の寝台があった場所。
今も通ってくる子どもの、昨日までの座る位置。
ラーチェは普段の黒い輪の形に戻る。
「むくみを押さえ、熱を引き、壊死を遠ざけるような働きは、白魔力にもないわけではない。だが……」
神父様は、指先を軽く組んだ。
「お前は、“押し込む”ことも“引き出す”ことも“同時に”行っている」
白魔力は、基本的に「満たし、補い、支える」力だ。
足の男の装具も、指の板も、すべては「足りないところに白を足す」かたちで成り立っている。
だが、ラーチェがしたのは、それとは逆だ。
余分な水を、熱を、どこかに「抜いて」いるように見える。
それは、教会で教わってきた白魔力の教本には、ほとんど書かれていない性質だった。
「黒魔力で片づけるのも、違う」
神父様は、独り言のように続ける。
黒魔力は、燃やし、壊し、力を外側へ解き放つ性質が強い。
5年前にベレスフォード領近郊での領土争いで軍が見せた、黒い炎や爆発の魔術。
それらは、確かに「奪う」力ではあるが、ラーチェのように静かに「均す」ものとはまるで違う。
「……白でも、黒でも、どちらかの箱に綺麗に入ってはくれないか」
苦笑に似た吐息が漏れる。
教会上層部が定めた教義と分類は、白と黒、教会と軍、癒やしと攻撃。
境界線は、分かりやすく引かれていた。
だが、ラーチェは、その線の上をぬるりと這う。
「村の者たちは、お前を“ラーチェさま”と呼び始めている」
その響きを、あえて口に出してみる。
自分の中で重さを確かめるためのように。
「教義の外にあるものを、神のように敬い始めるのは、本来なら止めなければならない」
白魔力を扱う教会は、神を一つに定め、その加護と奇跡を説いてきた。
黒魔力の魔獣や異形を「崇める」ことは、しばしば異端として扱われてきた。
ラーチェは、黒い。
名も、種も、教会の書庫には載っていない。
それでも、今この村で、人を救っているのは事実だった。
「……教区長様に、報せるべきだろうか」
神父様は、ぽつりと呟いた。
教会上層部。
白魔力と教義を統べる人々。
彼らにラーチェのことを告げれば、どう反応するだろう。
「丁重に保護せよ」と指示が出るかもしれない。
いや、あのウィリアム教区長のことだ。
「危険な存在だから、拘束せよ、あるいは処分せよ」と命じられる可能性の方が高い。
どちらに転んでも、この村の日常は、今とは変わってしまう。
神父様は、膝の上で両手を組み合わせたまま、長いあいだ黙考した。
蝋燭の炎が、ふっと揺れる。
その光の揺れに合わせて、ラーチェの輪郭の端が少しだけ震えた。
「わたしが何も言わなければ、今の暮らしは、しばらくは続くだろう」
男の足は、すでに松葉杖で支えられるようになった。
子どもの指も、日常の遊びに困らない程度まで戻りつつある。
村人たちは、川べりと畑を見回りながら、嵐の痕を少しずつ埋めている。
その中で、ラーチェは教会の床の上で、静かに誰かの足元を見ている。
「だが」
神父様は、そこで言葉を区切った。
「教会の中で、教義にない存在を黙って抱え続けることが、いつかこの村の首を絞めるかもしれない」
もし、どこか別の場所で、同じような存在が「魔」として処分された記録があったとしたら。
もし、白魔力の枠外にあるものを隠したと知られたら、この村ごと「異端の巣」と見なされるかもしれない。
「お前一匹を守るために、この村全体を危険にさらすわけにはいかない」
黒い輪郭は、スッとこちらに鋭いナイフのような触手を突きつける。
「っ!……こちらがその気ならこちらも、と言うことか」
口に出してみると、その言葉は思っていたより苦かった。
神父様は、ラーチェから視線を落とすとラーチェも黒く鋭い触手をゆっくりと下ろす。
足の男が眠れずにうめいた夜。
指の子どもが痛みで涙をこぼした昼。
そのどちらのそばにも、ラーチェは静かにいた。
「……だからこそ、だ」
神父様は、ゆっくりと言葉を続けた。
「村を守るために、わたしは上に報せなければならない」
その言葉を聞き届けるとラーチェは伸ばした触手をゆっくりと引っ込める。
ラーチェの存在が、この村だけの秘密であるうちは、誰かの誤解一つで、すべてが崩れうる。
ならば、いずれ知られる前に、自分の言葉で伝えてしまった方がいい。
この村で、ラーチェが何をしてきたか。
白魔力でも黒魔力でもなく、「境を探り、崩れかけを支えてきた」こと。
そして、村人がそれを見て、信仰に似た感情を抱き始めていること。
「お前にとって良い結末になるとは限らない」
神父様は、正直に言った。
「それでも、わたしは村を優先する。それが、この場所を任された者の責任だ」
ラーチェは、なおも黙っていた。
ただ、輪郭の一部が、ほんの少しだけ祭壇の方へ伸びた。
それは、同意でも、拒絶でもない。
ただ、「聞いた」というだけの、静かな動きに見えた。
神父様は、深く息を吐いた。
「明日、手紙を書く」
教区長宛てに。
「内容をどうするか、今夜のうちに考えよう」
白と黒の枠組みのどこにも収まらない存在を、どう言葉にすればいいのか。
ラーチェを「魔」と書くのか、「獣」と書くのか、「奇跡」と書くのか。
その一文字で、上層部の受け取り方は大きく変わる。
村の状態を優先する、と決めたはずなのに。
神父様の胸の中には、ラーチェ自身を守りたいという思いも、確かに残っていた。
祭壇の蝋燭が、静かに燃え続ける。
白い火と、黒い影。
その境界で、教会の夜は、ゆっくりと更けていった。




