表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水鏡のメアリー  作者: 風太郎
導流

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/50

24 信仰

 足の男が松葉杖で家に戻り、指の子どもが包帯ごと友達に「嵐の勲章」を見せて歩くようになったころ、村の空気はほんの少しだけ変わり始めていた。

 片づけの合間、井戸端で水を汲んでいた女たちが、ふと声を潜める。

 「教会さまのおかげだねえ。あの足、前ならとうの昔に腐ってたかもしれないよ」

 「白魔力はありがたいよ。けどさ」

 ひとりが、周りを見回してから、教会の方角をあごで示した。

 「あの黒いやつ、ほら……床の上をずるずるしてる……ラーチェ?」

 「ああ、あれねえ」

 べつの女が頷く。

 「わたし、夜に見たんだよ。あの人の足の包帯の上に、ちょんって乗っかっててね。次の日から急に腫れが引き始めてさ」

 井戸端の輪の中に、少しざわめきが走る。

 「教会の“聖獣”みたいなもんかねえ」

 「でも、目つきはちょっと怖いよ」

 「怖いけど、助けてくれるんだろ。うちの子の指だって、ラーチェさまが下で見ててくれたんだ、ってあの子が言い張るんだよ」

 「さま、なんてつけると神父様に怒られないかい」

 そう言いつつ、その声には笑いが混じっていた。

 やがて、教会に来る子どもたちの口からも、

 「ラーチェさま、今日もいるかな」

 「床の神さまなんだって」

 という小さな囁きが聞こえるようになる。

 誰かが本気で教義として教えたわけではない。

 ただ、黒い輪郭が寝台の下や土足の床にいて、そのそばの怪我人だけが、今までより早く良くなっていく。

 その事実が、村人のなかで、ゆっくりと「信じてしまいたい物語」に変わりつつあった。

 日暮れ前、男の子が帰り際に、ラーチェのそばでそっと囁いた。

 「ラーチェさま、今日もありがとう」

 ラーチェは、輪郭をほんの少しだけ震わせただけだった。

 けれど、その小さな震えが、男の子にとっては「返事」のように見えた。

 入口近くで、神父様はその様子を黙って見ていた。

 ラーチェに「さま」をつけることを、その場で咎めはしなかった。

 ただ、その言葉が胸に小さな棘のように残った。


 その夜、教会の灯が消え始めたころ。

 アリシアとメアリーが、それぞれの寝室へ引き上げたあと、礼拝堂には神父様とラーチェだけが残った。

 祭壇の上に灯した一本の蝋燭が、長い影を床に落としている。

 ラーチェは、祭壇の右端でその蝋燭を真似をしながら揺らいでいた。

 神父様は、長椅子の一つに腰を下ろし、しばらく何も言わなかった。

 やがて、低い声で口を開く。

 「お前のしていることを、わたしは理解していない」

 ラーチェは動かない。

 「白魔力で説明するには、いくつかのことが合わない」

 神父様の視線は、礼拝堂の床をゆっくりと辿っていく。

 足の男の寝台があった場所。

 今も通ってくる子どもの、昨日までの座る位置。

 ラーチェは普段の黒い輪の形に戻る。

 「むくみを押さえ、熱を引き、壊死を遠ざけるような働きは、白魔力にもないわけではない。だが……」

 神父様は、指先を軽く組んだ。

 「お前は、“押し込む”ことも“引き出す”ことも“同時に”行っている」

 白魔力は、基本的に「満たし、補い、支える」力だ。

 足の男の装具も、指の板も、すべては「足りないところに白を足す」かたちで成り立っている。

 だが、ラーチェがしたのは、それとは逆だ。

 余分な水を、熱を、どこかに「抜いて」いるように見える。

 それは、教会で教わってきた白魔力の教本には、ほとんど書かれていない性質だった。

 「黒魔力で片づけるのも、違う」

 神父様は、独り言のように続ける。

 黒魔力は、燃やし、壊し、力を外側へ解き放つ性質が強い。

 5年前にベレスフォード領近郊での領土争いで軍が見せた、黒い炎や爆発の魔術。

 それらは、確かに「奪う」力ではあるが、ラーチェのように静かに「均す」ものとはまるで違う。

 「……白でも、黒でも、どちらかの箱に綺麗に入ってはくれないか」

 苦笑に似た吐息が漏れる。

 教会上層部が定めた教義と分類は、白と黒、教会と軍、癒やしと攻撃。

 境界線は、分かりやすく引かれていた。

 だが、ラーチェは、その線の上をぬるりと這う。

 「村の者たちは、お前を“ラーチェさま”と呼び始めている」

 その響きを、あえて口に出してみる。

 自分の中で重さを確かめるためのように。

 「教義の外にあるものを、神のように敬い始めるのは、本来なら止めなければならない」

 白魔力を扱う教会は、神を一つに定め、その加護と奇跡を説いてきた。

 黒魔力の魔獣や異形を「崇める」ことは、しばしば異端として扱われてきた。

 ラーチェは、黒い。

 名も、種も、教会の書庫には載っていない。

 それでも、今この村で、人を救っているのは事実だった。

 「……教区長様に、報せるべきだろうか」

 神父様は、ぽつりと呟いた。

 教会上層部。

 白魔力と教義を統べる人々。

 彼らにラーチェのことを告げれば、どう反応するだろう。

 「丁重に保護せよ」と指示が出るかもしれない。

 いや、あのウィリアム教区長のことだ。

 「危険な存在だから、拘束せよ、あるいは処分せよ」と命じられる可能性の方が高い。

 どちらに転んでも、この村の日常は、今とは変わってしまう。

 神父様は、膝の上で両手を組み合わせたまま、長いあいだ黙考した。

 蝋燭の炎が、ふっと揺れる。

 その光の揺れに合わせて、ラーチェの輪郭の端が少しだけ震えた。

 「わたしが何も言わなければ、今の暮らしは、しばらくは続くだろう」

 男の足は、すでに松葉杖で支えられるようになった。

 子どもの指も、日常の遊びに困らない程度まで戻りつつある。

 村人たちは、川べりと畑を見回りながら、嵐の痕を少しずつ埋めている。

 その中で、ラーチェは教会の床の上で、静かに誰かの足元を見ている。

 「だが」

 神父様は、そこで言葉を区切った。

 「教会の中で、教義にない存在を黙って抱え続けることが、いつかこの村の首を絞めるかもしれない」

 もし、どこか別の場所で、同じような存在が「魔」として処分された記録があったとしたら。

 もし、白魔力の枠外にあるものを隠したと知られたら、この村ごと「異端の巣」と見なされるかもしれない。

 「お前一匹を守るために、この村全体を危険にさらすわけにはいかない」

黒い輪郭は、スッとこちらに鋭いナイフのような触手を突きつける。

「っ!……こちらがその気ならこちらも、と言うことか」

 口に出してみると、その言葉は思っていたより苦かった。

 神父様は、ラーチェから視線を落とすとラーチェも黒く鋭い触手をゆっくりと下ろす。

 足の男が眠れずにうめいた夜。

 指の子どもが痛みで涙をこぼした昼。

 そのどちらのそばにも、ラーチェは静かにいた。

 「……だからこそ、だ」

 神父様は、ゆっくりと言葉を続けた。

 「村を守るために、わたしは上に報せなければならない」

 その言葉を聞き届けるとラーチェは伸ばした触手をゆっくりと引っ込める。

 ラーチェの存在が、この村だけの秘密であるうちは、誰かの誤解一つで、すべてが崩れうる。

 ならば、いずれ知られる前に、自分の言葉で伝えてしまった方がいい。

 この村で、ラーチェが何をしてきたか。

 白魔力でも黒魔力でもなく、「境を探り、崩れかけを支えてきた」こと。

 そして、村人がそれを見て、信仰に似た感情を抱き始めていること。

 「お前にとって良い結末になるとは限らない」

 神父様は、正直に言った。

 「それでも、わたしは村を優先する。それが、この場所を任された者の責任だ」

 ラーチェは、なおも黙っていた。

 ただ、輪郭の一部が、ほんの少しだけ祭壇の方へ伸びた。

 それは、同意でも、拒絶でもない。

 ただ、「聞いた」というだけの、静かな動きに見えた。

 神父様は、深く息を吐いた。

 「明日、手紙を書く」

 教区長宛てに。

 「内容をどうするか、今夜のうちに考えよう」

 白と黒の枠組みのどこにも収まらない存在を、どう言葉にすればいいのか。

 ラーチェを「魔」と書くのか、「獣」と書くのか、「奇跡」と書くのか。

 その一文字で、上層部の受け取り方は大きく変わる。

 村の状態を優先する、と決めたはずなのに。

 神父様の胸の中には、ラーチェ自身を守りたいという思いも、確かに残っていた。

 祭壇の蝋燭が、静かに燃え続ける。

 白い火と、黒い影。

 その境界で、教会の夜は、ゆっくりと更けていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ