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水鏡のメアリー  作者: 風太郎
導流

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23/50

22 殻

 倒れた家から運び込んだ男は、その夜、何とか眠りについた。

 足の骨は折れている。

 それでも、色はまだ赤みを保っていた。

 指先に触れると、弱いながらも、温度と脈を感じる。

 「今のところ、壊死の気配はない」

 神父様はそう言い、わたしたちに交代で見守りをつけるよう指示した。

 そのあいだ、ラーチェは、腹を床に貼りつけたまま、 大きな頭だけを一定のリズムで上下させていた。

胴体は丸いまま微動だにせず、 頭部だけが、こくり、こくり と静かに揺れている。

ときどき、頷く角度に合わせて、 首が左右にゆっくりと振れた。

……一体何の意味があるのかわたしには分からないけどきっとラーチェにとっては深い意味のあることなのだろう。

 ふと黒い輪郭の一部を、男の足の包帯の上にそっと触れさせる。

 そこから、ごくわずかな黒い気配が、足全体を包み込むように広がっていた。

 わたしには、それがいつもの「喰う」動きとは違うことだけが分かった。

 包帯の内側で、血が溜まりかけている部分。

 むくんで膨らみかけている皮膚。

 そういうところが、ラーチェの回りだけ、ほんの少しずつ、しぼんでいく。

 まるで、皮膚の外側から、見えない手で優しく押さえられ、余分な水と熱だけをじわじわと引き出されているようだった。

 「ラーチェ、今は喰っていないの?」

 わたしが小さな声で話しかけても、ラーチェは答えない。

 ただ、触れている部分で黒の濃さを極端に薄くしたり、別のところで少しだけ濃くしたりを繰り返していた。

 包帯の上からそっと指を当ててみると、触れた場所だけ、わずかに「軽く」「冷たく」感じた。

 けれど、その意味を、わたしはうまく言葉にできなかった。

 神父様も、アリシアも、その動きに気づいてはいたが、誰も深くは問わなかった。

 ただ、「足先が熱くなりすぎていない」「色が黒くなっていない」という結果だけを見ていた。

 ラーチェが、どんな加減で“陰”を加えているのかを、知る者はいなかった。

 嵐から数日が過ぎ、風はようやく落ち着いた。

 村のあちこちで、壊れた屋根の修理や、倒れた柵の片づけが始まった。

 わたしたちも、交代で川沿いの見回りと、家の片づけを手伝った。

 そんなときだった。

 悲鳴まではいかない、短い叫び声が、近くの家から聞こえた。

 「指を、やりました!」

 駆け寄ると、まだ小さい男の子が、母親に手を抱えられて泣いていた。

 片づけに使っていた木の板と石の間に、右手を挟んだらしい。

 中指が不自然な角度に曲がっている。

 腫れも早く、赤黒い色が広がり始めていた。

 「教会へ」

 神父様は、すぐにそう言った。

 男の子は、泣き声を飲み込みながら、母親に肩を抱かれて教会へ連れてこられた。

 「足の人の隣でもいいですか」

 母親が恐る恐る尋ねる。

 「構わない。こちらも、まだ眠っているだけだ」

 神父様は、男の子を別の寝台に寝かせた。

 わたしは、そっと中指を持ち上げてみた。

 指先は熱い。

 骨のあたりに、はっきりとしたずれを感じた。

 「折れていますか」

 アリシアが問うと、神父様は頷く。

 「骨そのものは細いが、指は繊細だ。足の板のような荒いやり方はできん」

 母親が、唇を噛んでこちらを見ていた。

 「大丈夫です。指は、元の形に近いところまでは戻せます」

 アリシアが、落ち着いた声で言う。

 「動かせるようになるかどうかは、このあとどれだけ安静にできるかにもよりますが」

 男の子は、涙で濡れた目でアリシアを見上げた。

 神父様は、棚から細い木片を何本か取り出した。

 さきほどの足の板とは違い、これは手のひらよりも短く、薄い。

 「アリシア」

 神父様が、そのうちの二本を差し出す。

 「今度は、“折りたくない指の回りだけ”を強くする」

 アリシアは、木片を軽く握った。

 さっきの大きな板とは違い、今度は木自体も頼りない。

 力を込めすぎれば、魔力を通す前に自分の手で折ってしまいそうだった。

 「木目を見ろ」

 神父様は短く言う。

 「この細さだと、節はほとんどない。だが、“どちらに割れやすいか”は、触れば分かる」

 アリシアは、指先で木片の面と縁をなぞった。

 白い魔力が、ごく薄く流れていく。

 わたしの目には、木の中の「割れやすい線」と「踏ん張れる線」が、かすかに違う色をして見えた。

 アリシアもそれを感じ取ったのだろう。

 「こちら側を、少し濃く」

 小さく呟きながら、木片の片面から端にかけて、帯状に白い濃さを増していく。

 反対側は、あえて薄いまま残す。

 「もし何かあっても、折れるときは“指から遠い方”から折れるように」

 「そうだ」

 神父様は、満足そうに頷いた。

 「全部を守ろうとするな。“ここだけは最後まで守りたい”場所を決めろ」

 もう一本の木片にも、同じように濃淡をつける。

 今度は、指の甲側と腹側、それぞれに当たる位置を意識しているのが分かった。

 「わたしが形を合わせる」

 神父様は、細い木片の一方を男の子の中指に沿わせた。

 その内側に、ごく少しだけ白い糸を通す。

 さきほどの足の板と同じように、木の片面だけを柔らかくする。

 今度は、曲げる量はほんのわずかだ。

 子どもの細い指の丸みに沿うように、内側を少しだけ窪ませる。

 もう一本も、反対側から同じように合わせる。

 指を挟む二枚の細い板が、「指の線専用の溝」を持つ形になった。

 わたしは、指先に一本だけ白い糸を通した。

 骨がどちらにずれているかを、具体的に感じ取るためだ。

 「少しだけ、元の位置に寄せます」

 そう言って、神父様と一緒に、折れた部分をほんの少し、押し戻した。

 男の子が、短く息を呑む。

 その瞬間だけ、視界が白くなった。

 だが、すぐに痛みは、鈍いものに変わる。

 「今の位置を、覚えろ」

 神父様が小さく言う。

 わたしは、白い糸で骨の輪郭をなぞり、その形を胸に刻んだ。

 そこから先の固定は、アリシアの仕事だった。

 「包帯は細く裂いた方がよさそうですね」

 アリシアは、一本の布を細長く裂き、細い帯をいくつも作った。

 その一本一本に、ごく控えめに白魔力を通す。

 全体を硬くするのではなく、引っ張りを受ける線だけに薄い帯を作る。

 「指は、強く締めすぎればすぐに血が止まる」

神父様が注意を促す。

 「でも、緩すぎると、骨がまたずれる」

 アリシアは、まず指の付け根に近いところから巻き始めた。

 木片と指をまとめて包み込む。

 そのとき、木の「濃い側」が折れた骨の回りを守る位置に来るように、わずかに角度を調整していた。

 次に、折れた部分の少し上と下を、それぞれ別の細い帯で押さえる。

 折れた場所そのものを締めるのではなく、その回りで「逃げ場をなくす」ように。

 最後に、指先に近い部分を、ごく軽く一巻きだけ通した。

 「ここは、血が通うように、ほとんど魔力を乗せません」

 アリシアはそう言って、指先の色を確かめた。

 わたしも、そっと触れてみる。

 まだ熱はあるが、指先にはしっかりと温度が残っている。

 「ラーチェ」

 神父様が、寝台の足元を見た。

 ラーチェは、いつのまにか、男の足から黒い糸を引き、こちらに少しだけ身体を向けていた。なぜかその背中から黒く太い触覚のようなものを立てている。

 細い黒い先端が、男の子の包帯で巻かれた指の下の方に触れる。

 その部分で、黒の濃さが一瞬だけ減った。

 そして、巻いたばかりの包帯のすぐ外側で、見えない薄い冷たさが広がる。

 「今のは……」

 わたしが問いかけるより早く、ラーチェはまた輪になった。

 誰もその意味を言葉にできないまま、ただ「指の熱が少し落ち着いた」ことだけが、事実としてそこに残った。

 「これで、あとは時間をかけてくっつくのを待つしかない」

 神父様は、木片と包帯の具合をもう一度確かめた。

 「指を動かさないこと。ぶつけないこと。言うほど簡単ではないが」

 男の子は、涙のあとが残る顔で、小さく頷いた。

 母親が、横でその手をそっと握る。

 アリシアは、自分の指を見つめていた。

 さっき通した魔力の濃淡。

 細い木片の、どちら側を強くし、どちら側をあえて弱くしたか。

 それが、「この子の指専用の強さ」として、彼女の中に新たな地図を描いていた。

 わたしは、白い糸で骨の線をなぞりながら、「壊さないように守る」という言葉の重さを、また少しだけ理解した気がした。

 ラーチェだけが、その外側で、人にも分からない陰の力を、静かに足と指にかけ続けていた。


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