22 殻
倒れた家から運び込んだ男は、その夜、何とか眠りについた。
足の骨は折れている。
それでも、色はまだ赤みを保っていた。
指先に触れると、弱いながらも、温度と脈を感じる。
「今のところ、壊死の気配はない」
神父様はそう言い、わたしたちに交代で見守りをつけるよう指示した。
そのあいだ、ラーチェは、腹を床に貼りつけたまま、 大きな頭だけを一定のリズムで上下させていた。
胴体は丸いまま微動だにせず、 頭部だけが、こくり、こくり と静かに揺れている。
ときどき、頷く角度に合わせて、 首が左右にゆっくりと振れた。
……一体何の意味があるのかわたしには分からないけどきっとラーチェにとっては深い意味のあることなのだろう。
ふと黒い輪郭の一部を、男の足の包帯の上にそっと触れさせる。
そこから、ごくわずかな黒い気配が、足全体を包み込むように広がっていた。
わたしには、それがいつもの「喰う」動きとは違うことだけが分かった。
包帯の内側で、血が溜まりかけている部分。
むくんで膨らみかけている皮膚。
そういうところが、ラーチェの回りだけ、ほんの少しずつ、しぼんでいく。
まるで、皮膚の外側から、見えない手で優しく押さえられ、余分な水と熱だけをじわじわと引き出されているようだった。
「ラーチェ、今は喰っていないの?」
わたしが小さな声で話しかけても、ラーチェは答えない。
ただ、触れている部分で黒の濃さを極端に薄くしたり、別のところで少しだけ濃くしたりを繰り返していた。
包帯の上からそっと指を当ててみると、触れた場所だけ、わずかに「軽く」「冷たく」感じた。
けれど、その意味を、わたしはうまく言葉にできなかった。
神父様も、アリシアも、その動きに気づいてはいたが、誰も深くは問わなかった。
ただ、「足先が熱くなりすぎていない」「色が黒くなっていない」という結果だけを見ていた。
ラーチェが、どんな加減で“陰”を加えているのかを、知る者はいなかった。
嵐から数日が過ぎ、風はようやく落ち着いた。
村のあちこちで、壊れた屋根の修理や、倒れた柵の片づけが始まった。
わたしたちも、交代で川沿いの見回りと、家の片づけを手伝った。
そんなときだった。
悲鳴まではいかない、短い叫び声が、近くの家から聞こえた。
「指を、やりました!」
駆け寄ると、まだ小さい男の子が、母親に手を抱えられて泣いていた。
片づけに使っていた木の板と石の間に、右手を挟んだらしい。
中指が不自然な角度に曲がっている。
腫れも早く、赤黒い色が広がり始めていた。
「教会へ」
神父様は、すぐにそう言った。
男の子は、泣き声を飲み込みながら、母親に肩を抱かれて教会へ連れてこられた。
「足の人の隣でもいいですか」
母親が恐る恐る尋ねる。
「構わない。こちらも、まだ眠っているだけだ」
神父様は、男の子を別の寝台に寝かせた。
わたしは、そっと中指を持ち上げてみた。
指先は熱い。
骨のあたりに、はっきりとしたずれを感じた。
「折れていますか」
アリシアが問うと、神父様は頷く。
「骨そのものは細いが、指は繊細だ。足の板のような荒いやり方はできん」
母親が、唇を噛んでこちらを見ていた。
「大丈夫です。指は、元の形に近いところまでは戻せます」
アリシアが、落ち着いた声で言う。
「動かせるようになるかどうかは、このあとどれだけ安静にできるかにもよりますが」
男の子は、涙で濡れた目でアリシアを見上げた。
神父様は、棚から細い木片を何本か取り出した。
さきほどの足の板とは違い、これは手のひらよりも短く、薄い。
「アリシア」
神父様が、そのうちの二本を差し出す。
「今度は、“折りたくない指の回りだけ”を強くする」
アリシアは、木片を軽く握った。
さっきの大きな板とは違い、今度は木自体も頼りない。
力を込めすぎれば、魔力を通す前に自分の手で折ってしまいそうだった。
「木目を見ろ」
神父様は短く言う。
「この細さだと、節はほとんどない。だが、“どちらに割れやすいか”は、触れば分かる」
アリシアは、指先で木片の面と縁をなぞった。
白い魔力が、ごく薄く流れていく。
わたしの目には、木の中の「割れやすい線」と「踏ん張れる線」が、かすかに違う色をして見えた。
アリシアもそれを感じ取ったのだろう。
「こちら側を、少し濃く」
小さく呟きながら、木片の片面から端にかけて、帯状に白い濃さを増していく。
反対側は、あえて薄いまま残す。
「もし何かあっても、折れるときは“指から遠い方”から折れるように」
「そうだ」
神父様は、満足そうに頷いた。
「全部を守ろうとするな。“ここだけは最後まで守りたい”場所を決めろ」
もう一本の木片にも、同じように濃淡をつける。
今度は、指の甲側と腹側、それぞれに当たる位置を意識しているのが分かった。
「わたしが形を合わせる」
神父様は、細い木片の一方を男の子の中指に沿わせた。
その内側に、ごく少しだけ白い糸を通す。
さきほどの足の板と同じように、木の片面だけを柔らかくする。
今度は、曲げる量はほんのわずかだ。
子どもの細い指の丸みに沿うように、内側を少しだけ窪ませる。
もう一本も、反対側から同じように合わせる。
指を挟む二枚の細い板が、「指の線専用の溝」を持つ形になった。
わたしは、指先に一本だけ白い糸を通した。
骨がどちらにずれているかを、具体的に感じ取るためだ。
「少しだけ、元の位置に寄せます」
そう言って、神父様と一緒に、折れた部分をほんの少し、押し戻した。
男の子が、短く息を呑む。
その瞬間だけ、視界が白くなった。
だが、すぐに痛みは、鈍いものに変わる。
「今の位置を、覚えろ」
神父様が小さく言う。
わたしは、白い糸で骨の輪郭をなぞり、その形を胸に刻んだ。
そこから先の固定は、アリシアの仕事だった。
「包帯は細く裂いた方がよさそうですね」
アリシアは、一本の布を細長く裂き、細い帯をいくつも作った。
その一本一本に、ごく控えめに白魔力を通す。
全体を硬くするのではなく、引っ張りを受ける線だけに薄い帯を作る。
「指は、強く締めすぎればすぐに血が止まる」
神父様が注意を促す。
「でも、緩すぎると、骨がまたずれる」
アリシアは、まず指の付け根に近いところから巻き始めた。
木片と指をまとめて包み込む。
そのとき、木の「濃い側」が折れた骨の回りを守る位置に来るように、わずかに角度を調整していた。
次に、折れた部分の少し上と下を、それぞれ別の細い帯で押さえる。
折れた場所そのものを締めるのではなく、その回りで「逃げ場をなくす」ように。
最後に、指先に近い部分を、ごく軽く一巻きだけ通した。
「ここは、血が通うように、ほとんど魔力を乗せません」
アリシアはそう言って、指先の色を確かめた。
わたしも、そっと触れてみる。
まだ熱はあるが、指先にはしっかりと温度が残っている。
「ラーチェ」
神父様が、寝台の足元を見た。
ラーチェは、いつのまにか、男の足から黒い糸を引き、こちらに少しだけ身体を向けていた。なぜかその背中から黒く太い触覚のようなものを立てている。
細い黒い先端が、男の子の包帯で巻かれた指の下の方に触れる。
その部分で、黒の濃さが一瞬だけ減った。
そして、巻いたばかりの包帯のすぐ外側で、見えない薄い冷たさが広がる。
「今のは……」
わたしが問いかけるより早く、ラーチェはまた輪になった。
誰もその意味を言葉にできないまま、ただ「指の熱が少し落ち着いた」ことだけが、事実としてそこに残った。
「これで、あとは時間をかけてくっつくのを待つしかない」
神父様は、木片と包帯の具合をもう一度確かめた。
「指を動かさないこと。ぶつけないこと。言うほど簡単ではないが」
男の子は、涙のあとが残る顔で、小さく頷いた。
母親が、横でその手をそっと握る。
アリシアは、自分の指を見つめていた。
さっき通した魔力の濃淡。
細い木片の、どちら側を強くし、どちら側をあえて弱くしたか。
それが、「この子の指専用の強さ」として、彼女の中に新たな地図を描いていた。
わたしは、白い糸で骨の線をなぞりながら、「壊さないように守る」という言葉の重さを、また少しだけ理解した気がした。
ラーチェだけが、その外側で、人にも分からない陰の力を、静かに足と指にかけ続けていた。




