20 倒壊
土手の補強に手をつけた日から、何度か小さな雨は降ったが、あの夜のような嵐は来なかった。
村人たちは、畑と川べりを行き来しながら、壊れた道や崩れた土手を少しずつ直していた。
そんなある晩、風が急に強くなった。
昼までは穏やかだった空が、夕方には鉛色の雲で覆われ、夜に入るころには、横殴りの風が教会の壁を叩き始めた。
「雨は、それほどでもないのに」
アリシアが、窓の外を見ながら言う。
空から落ちてくる水の量は、多くはない。
だが、風が、まるで何かを引き剥がそうとするように、屋根や木々を揺らしていた。
そのときだった。
教会の扉が、乱暴に開かれた。
村の男が二人、飛び込んでくる。
「神父様!」
息を切らし、顔は雨と汗で濡れていた。
「川の、、、川の上の方の家が、一軒、風でやられました! 屋根が、持ってかれて、壁も……中に人が!」
言葉が途切れる。
「今も、下敷きに?」
神父様が問うと、男は大きく頷いた。
「梁が一本、落ちてます! 人手は集めてますが、下手に動かすと潰しかねねえ」
神父様は、ほとんど迷わなかった。
「行く」
その一言で、わたしとアリシアも立ち上がった。
「白い傘を使いますか」
アリシアが尋ねると、神父様は頷く。
「風で飛ばされぬよう、今日はいつもより低く、厚く張る」
教会を出ると、風が頬を刺した。
雨も混じっているが、それ以上に、空気そのものがぶつかってくる感じがする。
神父様は、一度深く息を吸った。
胸の奥から白い糸があふれ出し、今度は、いつもより密に編まれて、わたしたちの頭上に低く張りついた。
天井の低い部屋の中にいるような圧迫感がある。
けれど、その代わり、横から吹きつける風が、白い膜に当たって滑り落ちていくのが分かった。
「“聖なる羽衣”も使う」
神父様は、歩きながら短く言った。
「今日は、重いものを持ち上げる。お前たちの腕と脚にも、少し白を通す」
わたしとアリシアは、思わず顔を見合わせる。
「わたしにも、ですか」
問いかけると、神父様は「当然だ」と言った。
「重さを分け合うための力だ。自分の骨と筋肉の形を、よく意識しておきなさい」
神父様は、まず自分の胸に指を当てた。
白い糸が、自分の腕と背に流れ込む。
外から見て分かるほど、肩の線がわずかに太くなる。
次に、アリシアの肩へと手を置いた。
白い糸が、彼女の腕と脚に通る。
「いつもより、少しだけ強く」
神父様の声が低く響く。
「骨を包むように、筋をなぞるように」
アリシアは、目を閉じ、呼吸を整えた。
外套の下で、身体の線がわずかに引き締まる。
最後に、わたしの肩に、神父様の手が置かれた。
白い糸が、じん、と熱を残しながら、腕の中を流れていく。
胸から肩、肘、手首、指先へ。
それから、腰から太もも、膝、ふくらはぎ、足裏へ。
「お前のは、まだ“骨の内側”までには通さない」
神父様が言う。
「筋と腱の回りを、薄く一枚なぞるだけだ。それでも、何もないよりは、ずっとましになる」
わたしは、足を一歩踏み出してみた。
地面を押し返す感触が、いつもよりはっきりとした。
腕を振ると、内側に、細い板を一枚仕込まれたような支えを感じる。
「重いものを持つときは、手先ではなく背中で持ちなさい」
神父様が、短く忠告する。
「白い糸は、お前の背骨の周りにも少し通してある。そこを意識しろ」
村の外れに近づくと、倒れた家が見えてきた。
屋根の半分が風に持っていかれ、残りが歪んだまま壁の上に載っている。
壁の一部はすでに崩れ、太い梁が斜めに倒れかかっていた。
その下に、人の足が見える。
何人かの村人が、梁の両側で支えながら、どう動かすかを迷っていた。
「神父様!」
わたしたちを見るなり、誰かが叫ぶ。
「中で、中でまだ息をしてます! でも、梁を引き抜くときに潰しちまいそうで!」
神父様は、すぐに状況を見渡した。
「ラーチェ」
足元に呼びかける。
ラーチェは、黒い輪郭を細く伸ばし、梁の周りの土と瓦礫に触れた。
黒い糸が、下敷きになっている人の輪郭をなぞるように広がる。
「生きているか」
神父様の問いに、ラーチェの輪がかすかに震えた。
それは、「まだ、はい」と言っているように見えた。
「どこが一番危ない」
ラーチェの黒い糸が、梁の端のあたりで止まる。
そこには、割れかけた柱と、崩れた土壁の塊がいくつも重なっていた。
「ここを先に動かせば、全体が落ちてしまう」
神父様は、短く判断した。
「反対側から、少しずつ支えを増やしていく」
神父様は、倒れた梁の根元とは逆側の地面に手をかざした。
白い糸が土の中に潜り、小さな石をいくつも作る。
ころん、ころん、と拳大の白い石が地面に現れ、そのたびに、それを梁の下へ押し込んでいく。
梁の下に、“仮の足場”が増えていく。
「これで、少しは傾きを変えられる」
神父様は、村人たちに向き直った。
「ここと、ここを持ちなさい」
梁の両側で手をかける位置を指示する。
「アリシア、メアリー。お前たちは、こっちだ」
わたしたちには、梁のやや手前、重さがうまく分散しやすい場所が示された。
「“聖なる羽衣”を切らさないように、呼吸を合わせろ」
神父様は、自分の肩にもさらに白い糸を通した。
近くに立っただけで、その身体から熱と圧が伝わってくる。
「三つ数えたら、わたしの合図で“少しだけ持ち上げる”」
神父様の声に、村人たちの喉がごくりと鳴る。
「一度に全部は持ち上げない。わずかに浮いた隙間に、石を足していく」
「分かりました」
アリシアが、短く返事をする。
わたしも、喉が渇くのを感じながら頷いた。
「一」
風の音が、耳の外へ追いやられる。
「二」
梁の手触りが、掌に伝わる。
ざらりとした木肌の感触。
「三」
「今だ」
神父様の合図と同時に、わたしたちは一斉に力を込めた。
腕だけでなく、脚と背中で押し上げる。
白い糸が、骨と筋の回りでぎゅっと締まる。
梁が、ほんのわずかに軋んだ。
その瞬間を逃さず、神父様が足元の土に白い糸を突き立てる。
新しい石が生まれ、その石が梁の下に滑り込む。
「いったん下ろす」
神父様の声に合わせて、力を抜いた。
梁は、さっきよりも少し高い位置で止まった。
「もう一度だ」
同じことを、何度も繰り返した。
白い石の足場が増えるたびに、梁は少しずつ持ち上がり、下の空間が広がっていく。
アリシアの額には汗がにじんでいたが、腕の震えは最小限に抑えられていた。
白い糸が、彼女の筋と骨をしっかり支えているのが分かる。
わたしの腕は最初から熱くなっていたが、それでも、白い板のような感触が引きちぎらながらも内側で踏ん張ってくれていた。
「メアリー、背中だ。腕だけで持つな」
神父様の声に、意識を背骨へと戻す。
白い糸が、背中の奥でギリギリと音を立てる。
それに合わせて、脚で地面を押した。
梁が、もう少し持ち上がったとき、ラーチェが急に輪郭を震わせた。
黒い糸が、梁の向こう側へと伸びる。
「今だ。下の人を引き出す」
神父様が、村人の一人に合図した。
細い体つきの男が、梁の下に潜り込み、下敷きになっていた人の肩を抱えて引きずり出す。
足が、梁にかすかに触れる。
木がきしむ音がして、わたしの胸が跳ねた。
だが、白い石の足場が、すでにいくつもその重みを受け止めていた。
「もう少し!」
誰かが叫ぶ。
最後の一息で、わたしたちは梁をわずかに持ち上げた。
下敷きになっていた人の足が、ようやく抜け出る。
「下ろせ!」
神父様の号令で、一斉に力を抜いた。
梁が、石の上にどさりと戻る。
さっきよりも低くはなっていない。
「よし」
神父様は、すぐに倒れている人の方へ向かった。
わたしは乱れきった息を整えながらアリシアの続く。
下敷きになっていたのは、中年の男だった。
息はある。
だが、右足が不自然な角度に曲がっている。
「すぐに教会へ運ぶ」
神父様は、迷わず言った。
「ここで雨風に晒しておく方が、よほど危ない」
運び出す前に、わたしは男の足元にそっと手を当てた。
白い糸が、傷んだ骨の輪郭をなぞる。
完全に癒すことはできない。
だが、少しでも、ぐらつきを減らしておきたかった。
「ふぅ、ふぅ……血が、流れるように、ほ、骨のところだけ、す、少し支えて、おきます」
そう言うと、神父様が「やりなさい」と頷いた。
白い糸が、折れている部分を包み、動かないように縛る。
その上から、村人たちが板切れと布で簡単な添え木をした。
教会までの道は、まだぬかるんでいる。
男を担いで歩くには、足元にも力が要る。
「わたしが前を持ちます」
アリシアが言う。
神父様は、後ろ側を受け持った。
わたしは、ふらつく身体を踏ん張りながら、3人を雨風から守れるように白い傘の縁を支える位置に立つ。
ラーチェは、その足元で輪になり、道のぬかるみの深さを探っていた。
「メアリー」
歩き出す前に、神父様がわたしに言った。
「“聖なる羽衣”は、まだ残っている。だが、帰り着くまでは決して無理をするな。限界の少し手前で、必ず足を止めろ」
わたしは汗を拭いながら頷いた。
腕と脚の中で、白い板のような感触が、まだしっかり残っていた。
それでも、自分の骨や筋の上に“借り物”が乗っているだけだということも、はっきり分かっていた。
「重さを分け合うための力」
さっきの神父様の言葉を、もう一度胸の中で繰り返す。
アギューの黒い点を断つことも。
土手の線を守ることも。
倒れた家の下から、人を引き上げることも。
全部、一人ではできない。
白い魔力で身体を強くしたとしても、重さは消えない。
ただ、その重さを、何人かで分け合えるだけだ。
わたしたちは、白い傘の下で男を担ぎ、教会へと足を進める。
風はまだ強かったが、白い糸と筋肉と腕の中の熱が、それを少しだけ遠くに追いやっていた。
だが、わたしの足は、もう限界に近かった。
膝が笑い、視界が揺れる。
「……メアリー」
神父様が、わたしの歩幅の乱れに気づいた。
「もういい。ここから先は、ラーチェに任せる」
「え……?」
言い終えるより早く、足元の影がふっと広がった。
ラーチェが、黒い身体を大きく平たく伸ばし、まるで芝滑りの板のような形を作る。
「乗りなさい」
神父様の声は、いつもの静けさのままだった。
「お前はもう、脚が持たない」
「の、乗るって……えっ、ちょ、ちょっと待って……!」
アリシアが男の肩を支えながら、苦笑いを浮かべた。
「メアリー、素直に乗った方がいい。倒れたら余計に危ない」
「え……あ、はい」
わたしは、ふらつく足でラーチェの上にそっと腰を下ろした。
黒い身体は冷たいのに、どこか柔らかく、沈みすぎない。
「ラーチェ、頼む」
神父様が短く言う。
次の瞬間──
ラーチェが、地面を蹴った。
「ちょ、ちょっと待って待って待ってひゃああああああああああ!!!!!???」
風景が、横に流れた。
最初は滑るように。
次の瞬間には、地面との摩擦がほとんど消え、 ラーチェの身体が“黒いそり”のように加速していく。
「ああああああああああ!!!!!」
雨風が顔を叩き、髪が後ろに引っ張られる。
いつの間にか身体は雨でビショビショだ。
ラーチェは、地面の凹凸を読むように身体をしならせ、 ぬかるみを避け、石を跳ね、草の上を滑り抜ける。
速度はどんどん上がり── 気づけば、教会の灯りが目前に迫っていた。
「とまっ──」
言い終わる前に、ラーチェがふっと減速し、 教会の前の石畳で静かに止まった。
わたしは、そのまま前に倒れ込み──
ぱたり。
視界が暗くなった。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
頬に、冷たいものが触れた。
つん、つん。
「……ラーチェ……?」
薄く目を開けると、黒い先端がわたしの頬をつついていた。
まるで、
「着いたぞ」 「起きろ」
と言っているみたいに。
そのすぐあと、 神父様とアリシアが、足を折った男を担いで教会の前に現れた。
アリシアは、わたしを見るなり目を丸くした。
「……メアリーが…死んでる……!」
神父様は、わたしとラーチェを見比べ、 ほんの少しだけ眉を下げた。
「……ラーチェ……。やりすぎだ」
ラーチェは、誇らしげに輪郭をふるりと震わせた。
わたしは、まだ地面に倒れたまま、 かろうじて片手を上げた。
「……ただいま……です……」
そして、もう一度、静かに気を失った。




