19 濁流
嵐の夜が明けたころ、雨は細い糸のようになっていた。
川沿いの村から駆け込んできた若者に案内され、わたしたちは再び川べりへ向かった。
道のあちこちが抉られ、小さな溝になっている。
白い傘は、今日も神父様の頭上から広がっていた。
昨日より少し薄いが、それでも顔と目に当たる雨をやわらげてくれる。
川に近づくと、土と水の混じった匂いが強くなった。
「ここです」
若者が立ち止まった場所で、土手は大きく抉られていた。
斜面の一部がごっそり落ち、むき出しになった土の断面が、まだ濡れたまま光っている。
ただ、その下の方に、ところどころ不自然な“白っぽい層”が見えた。
あの夜、神父様が土を圧縮して作った芯だ。
「やっぱり、ここが」
アリシアが呟く。
「表面は持っていかれたが、中の石までは抜けなかったようだな」
神父様は、崩れた斜面をじっと見つめた。
土の中に埋まっていたはずの“石”が、部分的に顔を出している。
それは自然の石とは違い、表面にうっすら白い筋が浮かんでいた。
「これが……」
若者が息を呑む。
「神父様が、あの夜に」
「土を圧縮して固めたものだ」
神父様が静かに答える。
「本当なら、雨の前にもっと時間をかけてやりたかったがな」
ラーチェが、崩れた斜面の前までにじり寄る。
黒い輪郭の一部が細く伸び、むき出しになった土の断面に触れた。
そこから、黒い糸が何本も土の中へと染み込んでいく。
しばらく黙っていたラーチェが、やがて別の場所で輪郭を震わせた。
表面から少し離れたところ、まだ崩れていない斜面の中ほどだ。
「そこも、弱くなっているのですね」
アリシアが、その場所を見上げる。
見た目には、他と変わらない土の色。
けれど、そこだけ、雨に濡れた肌理がわずかに粗く見える。
「まずは“芯”を増やす」
神父様は、崩れた部分の下に近づいた。
白い傘の縁が、わたしたち三人と一匹をぎりぎり覆う位置で止まる。
「ここにある土を使う。構わないか?」
「あ、ええ。もちろん」
神父様は足元のぬかるみに手をかざすと、白い糸が土の中へと潜った。
糸の動きに合わせて、ぬかるみがじわじわと盛り上がり、その一部が固まり始める。
柔らかかった泥が、ぎゅう、と音を立てるような感覚で圧縮されていく。
やがて、それは拳ほどの大きさの“白みがかった石”になった。
自然の石よりも角が少し丸く、触れればまだ、かすかに温かい。
「これを、土手の中に埋め込んでいく」
神父様は、その石を両手で持ち上げ、崩れた斜面の奥へと押し込んだ。
白い糸が石の回りを締め、土と一体になるように圧縮する。
石は、土の中で見えなくなった。
代わりに、その部分の音が変わる。
指で軽く叩くと、さっきまでよりもわずかに高い、詰まった音が返ってきた。
「同じものを、いくつも作る」
神父様は、短く言った。
足元の土を少しずつ集め、圧縮し、石に変える。
大きさも、場所によって変える。
握りこぶしほどのもの。
頭ほどの大きさのもの。
細長くして、梁のように埋め込むもの。
ラーチェは、そのたびに黒い糸で“弱い層”をなぞり、その周りに石を置く位置を示した。
「ただ埋めるだけでは駄目だ」
神父様は、土の中を白い糸でなぞりながら言う。
「水がまた道を作ろうとしたとき、すぐに石にぶつかるようにしておかねばならない」
やがて、崩れた斜面の中には、見えない“石の骨組み”がいくつも通ることになった。
それでも、表面から見えるのは、まだ濡れた土の色だけだ。
「ここから先は、わたしにやらせてください」
アリシアが、一歩前に出た。
「神父様の作った芯の上に、薄く“皮”をかけたいです」
神父様は頷く。
「やってみなさい」
アリシアは、崩れた面の手前に立ち、両手をかざした。
指先から白い糸が伸び、土の表面にごく薄く広がっていく。
先ほどの“芯”とは違い、土の中深くには潜らない。
表面をなぞるようにして、斜面の一枚皮だけを包む。
「土の粒同士を、少しだけ結びつけています」
アリシアの声には、集中の色が混じっていた。
「雨に流されにくいように。でも、草の根が入る隙間は残して」
白い糸が消えると、斜面の肌理が、少しだけ変わって見えた。
きつく固めたわけではない。
けれど、表面にごく薄い膜がかかったように、なめらかになる。
「全部を覆うと、草が根を張れなくなりますから」
アリシアは、ところどころあえて素の土を残していた。
その位置を見計らうようにして、今度はわたしが前に出る。
「メアリー」
神父様が、少しだけ声を和らげた。
「お前の仕事だ」
頷いて、わたしは斜面の素の土が顔を出している部分を探した。
すでに生えている草の根元。
まだ小さい芽が雨に洗われかけているところ。
そのひとつひとつに、指先をそっと当てる。
白い糸がわずかに流れ、根の伸びる先を“前へ、下へ”と導く。
「ここに根を張りやすく」
心の中で、ひとつひとつお願いするように。
「土をつかんで、離さないで」
ラーチェが、そのすぐそばで輪郭を揺らした。
黒い身体の一部が細く伸び、ほんの一瞬だけ、強くした根に触れる。
それは、草の中にいる“黒いもの”を喰う動きではなかった。
むしろ逆に、そこに流れ込むわたしの白い糸の形を覚えようとしているように見えた。
「石で芯を作り」
神父様が、崩れた斜面全体を見渡す。
「アリシアが皮をかけ」
「わたしが、根を増やす」
言葉にすると、少しだけ胸がくすぐったかった。
崩れた土手は、まだ完全には元には戻らない。
だが、中には白い骨と、薄い膜と、小さな根の手が入り始めていた。
作業は、半日以上かかった。
川の水はまだ高かったが、昨夜ほどの勢いはない。
村の人たちは、少し離れたところから、その様子を黙って見ていた。
そんなときだった。
ラーチェが、ふいに輪郭を強く震わせた。
崩れた場所から少し離れた、まだ手をつけていない斜面の下の方だ。
黒い糸が、そこに向かって伸びる。
「どうした」
神父様が問いかける。
ラーチェは返事の代わりに、黒い糸を土の中へすべり込ませた。
それから、いつもよりずっと長いあいだ、動かない。
「……さっきから、少し変な感じがしていました」
アリシアが、小声で言った。
「土が、ゆっくりずれているような」
わたしも、足元の感触がかすかに不安定なのを感じていた。
揺れているわけではない。
けれど、どこかで、じりじりと何かがずれていくような、落ち着かない感覚。
しばらくして、ラーチェの黒い糸が、急に太くなった。
輪郭全体が、ひときわ強く震える。
そのとき、土手の別の場所から、かすかな音が聞こえた。
ざ……ざざ……。
乾いた土ではなく、水を含んだ土が、少しずつ滑り落ちる音。
目で確認できるようになるまで、少し時間がかかった。
ゆっくりと、斜面の一部が、下へ向かって動いていた。
土砂崩れと言うには、あまりにも遅い。
だが、確かに土は、少しずつ、決まった方向へと流れ始めている。
「三時間ほど前から、始まっていたのだろう」
神父様が低く言った。
「ラーチェが、やっと“形”として掴めるところまで来た」
「このままだと、どうなりますか」
わたしの問いに、ラーチェの黒い糸が、斜面の下方へ向かう軌道を描く。
その先には、川へ降りる小道と、さらに先に、畑の端があった。
「いずれ、ここから大きな塊が落ちる」
神父様の声に、わずかな急ぎが混じった。
「落ちるだけならまだしも、その“落ち方”によっては、水の流れが一気に変わる」
ラーチェの黒い糸が、滑り落ちる土の層の厚みをなぞる。
まるで、「ここをこのままにしておくと、こう崩れる」と、線で描いているようだった。
「……変えましょう」
神父様は、短く言った。
白い傘の縁が、わずかに震える。
「メアリー、アリシア。少し下がりなさい」
わたしたちは、言われた通り、数歩後ろへ退いた。
神父様は、ラーチェの黒い糸が示す層の上に視線を合わせる。
「ここは、わたしたちの手で崩す」
足元の土に、白い糸を深く突き立てた。
先ほどまでの“圧縮”とは逆の動きだった。
白い糸が、土の中の結びつきをほどき、わずかに持ち上げる。
上から押されていた土の重みが、その瞬間だけ、ふっと軽くなる。
次の瞬間、斜面のその部分が、ごっそりと崩れ落ちた。
どさっ。
という重たい音とともに、土の塊が川の方へ滑り込む。
川の水は、一瞬だけ高く跳ねた。
だが、その勢いは、すぐに別の方向へ流れた。
ラーチェの黒い糸が、崩れたあとにできた“新しい面”をなぞる。
さっきまでとは違う角度で、土が川に向かっている。
「流れを変えたのですね」
アリシアが、息を呑みながら言う。
「そうだ」
神父様は、崩れた跡を見つめる。
「このまま自然に任せれば、もっと上の方まで割れて、畑の根元まで持っていかれたかもしれない」
今、崩れたのは、あくまで“手前”だ。
川べりの道が、少し狭くなった。
けれど、その分、上の土は踏ん張る余地を残された。
「ここも、あとで補強しなければなりませんね」
アリシアが、崩れた跡の縁を見つめる。
「芯を足して、皮をかけて、根を増やす」
わたしは、さっきまでの手の動きを思い出していた。
ラーチェは、輪郭を少し広げて、新しく露出した土に触れる。
弱いところを探す黒い糸と、それを受けて動く白い糸。
土手は、嵐で崩れ、また少しずつ積み直されていく。
村の若者は、その一部始終を黙って見ていた。
やがて、ぽつりと言う。
「川は……少しこわいですが」
言葉を選ぶようにして、続けた。
「でも、こうやって“直せる場所”もあるんですね」
神父様は、その言葉に静かに頷いた。
「全部を直すことはできない」
「でも、“ここから先は行かせない”線なら、引ける」
わたしの口から、自然とその言葉がこぼれた。
アリシアが、横で小さく笑う。
「アギューのときと、同じですね」
土に刻まれた白い芯と、薄い皮と、強くなった根。
ラーチェの黒い探知が見つけた“ゆっくりとした崩れ”も、三時間遅れでしか掴めなかったかもしれない。
それでも、その遅れの分だけ、流れを変えることはできた。
村の屋根と畑の端を、一晩で呑み込む道を、一本折ることができた。
わたしたちは、白い石と黒い糸と根の仕事を、まだ途中の土手に残して、川をあとにした。




