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水鏡のメアリー  作者: 風太郎
導流

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19/47

18 嵐の夜

 その夜、雨は止む気配を見せなかった。

 夕刻を過ぎるころには、礼拝堂の屋根を叩く音が、会話をかき消すほどになっていた。

 「今から外に出るのは、さすがに無茶ですね」

 アリシアが窓の外を見て言う。

 ガラス越しにも、雨粒が風に煽られて斜めに走っているのが見えた。

 「そうだな。今日は、ここから聞くしかない」

 神父様は、蝋燭の火をいくつか落とし、礼拝堂の灯りを少し絞った。

 「目ではなく、耳と胸で川の様子を追う」

 わたしたちは、礼拝堂の中央ではなく、川の方角に近い側廊に椅子を運んだ。

 壁際に並んで座り、窓を少しだけ開ける。

 すぐに、冷たい湿気と、轟く雨音が流れ込んできた。

 「こ、ここからでも、聞き分けられるんですか」

 わたしが尋ねると、神父様は頷いた。

 「雨と風の音は、ここ。川の音は、少し下から来る」

 そう言って、自分の胸のあたりを指で叩く。

 「床越しに伝わってくる震えを、よく感じなさい」

 足元では、ラーチェが輪になっていた。

 黒い身体の縁が、時折かすかに震える。

 教会の石床を通して、遠くの揺れを拾っているのだろう。

 最初は、すべてがただの大きな騒音の塊にしか聞こえなかった。

 屋根を叩く雨の音。

 風が壁にぶつかる低い唸り。

 ときどき混じる、どこかの扉が軋む音。

 その奥に、もうひとつ、重たい響きがあった。

 ごう、ごう、ごう。

 一定の速さで、絶え間なく続く低い音。

 「あの、あれが、川ですか」

 わたしが問うと、神父様は短く答えた。

 「そうだ。さっき歩いた土手の下を流れている」

 耳を澄ませる。

 ごう、ごう、ごう。

 しばらくは、川の音は一定のままだった。

 外の雨は激しくなったり少し弱まったりを繰り返す。

 けれど、床越しの震えは、大きさをほとんど変えない。

 「今は、まだ“ただ増えているだけ”だ」

 神父様が言う。

 「本当に危ないときは、音が増えるんじゃない。“乱れる”」

 ラーチェの輪郭が、わずかに細くなった。

 黒い身体の表面に、小さな波紋のような震えが走る。

 時間の感覚が、少し曖昧になってきたころだった。

 ふいに、川の音が変わった。

 ごう、ごう、ごう――だったところに、

 ぐぐっ。

 とても短い、詰まったような音が混じる。

 「い、今のは」

 思わず身を乗り出す。

 「土手のどこかに、水がまとまって当たった」

 神父様が、小さく答える。

 「まだ一度きりだ。様子を見る」

 また、雨と風と川の音だけになる。

 しばらくして、同じような音が、もう一度。

 ぐぐっ。

 そのあと、低く崩れるような、ずずず……という響きが床を伝ってきた。

 喉がひゅっと鳴る。

 「崩れましたか」

 アリシアの声には、焦りが混じっていた。

 「土の表面が、いくらか落ちた音だろう」

 神父様の声は、落ち着いていた。

 「問題は、そのあとだ」

 ごう、ごう、ごう。

 川の音は、さっきより少しだけ高くなった気がする。

 水かさが増えたせいかもしれない。

 けれど、音そのものの調子は、まだ崩れてはいない。

 「さっき補強したところ、ですよね」

 わたしが問いかけると、神父様は窓の外を見ずに頷いた。

 「土の表面だけなら、崩れてもいい。中の“芯”が残っていれば、水はそこを貫けない」

 足元で、ラーチェが輪を少しだけ狭めた。

 黒い身体の縁が、ぴんと張る。

 そのあとも、何度か似たような音がした。

 ぐぐっ。

 ずずず……。

 そのたびに、わたしの指先は椅子の縁を強く握りしめていた。

 頭の中に、夕方見た土手の斜面が浮かぶ。

 表面の土が少し崩れ、その下に白く圧縮された層が踏ん張る様子。

 「ぜ、全部、持ちこたえて、くれますか」

 自分でも分かるほど、声が震えていた。

 「全部ではない」

 神父様は、はっきり言った。

 「だが、“村の家々まで一気に水が走る道”だけは、抑えられているはずだ」

 アリシアが、静かに息を吐く。

 「今年守りたいのは、畑だけじゃない。屋根の下の寝床ですね」

 「そうだ」

 神父様は、胸の前で指を組んだ。

 「今、川べりの一部は、水に取られているだろう。畑の端も、どこかは削られているかもしれない」

 わたしの胸が締め付けられる。

 「でも」

 「だが、さきほどの“抜け道”を押さえていれば、村全体が丸ごと呑まれることはない」

 川の音に、遠くの雷鳴が重なった。

 ごろ、ごろ、ごろ。

 その低い響きが去ったあと、一瞬だけ、雨がわずかに弱まった。

 その隙間から、別の音が聞こえた気がした。

 遠くで、何か重たいものが崩れる音。

 バサバサと木が揺れる音。

 そして、それが広がらずに、すぐにまた雨音に呑まれていく気配。

 「今のは」

 わたしが問いかける前に、神父様が言った。

 「土手の端か、川沿いの道が一部落ちた音だろう」

 「村の家までは」

 アリシアの問いは、途中で途切れた。

 神父様は、少しだけ目を閉じる。

 石床を通して伝わってくる震えに、意識を沈めるように。

 ごう、ごう、ごう。

 川の音は、まだ“線”の向こう側にある。

 教会の床が、急に大きく揺れる気配はない。

 「今のところは、届いていない」

 神父様は、そう結論づけた。

 足元で、ラーチェの輪郭が、ほんの少しだけ緩む。

 黒い身体の表面の波紋が、弱くなる。

 それでも、雨音はやむ気配を見せなかった。

 夜がどれくらい進んだのか、分からなくなる。

 川の音は、高さを少し変えながらも、“乱れる”ところまではいかない。

 ぐぐっ、ずずず……という小さな崩れの音は、ときどき混じる。

 けれど、それが一つの線になって、どこかへ突き抜ける気配はなかった。

 「今夜は、ここまでだろう」

 神父様が、ようやく椅子の背にもたれた。

 「これ以上は、明日の目で確かめるしかない」

 アリシアが、小さく肩を回す。

 「見ているだけでも、疲れますね」

 「見ているだけ」と言いながら、その目はずっと窓の外と床の間を行き来していた。

 わたしも、指先と耳と胸の奥が、じんじんと疲れていた。

 足元のラーチェは、輪になったまま、わずかに膨らんだり縮んだりを繰り返している。

 まるで、遠くの水の呼吸に合わせて、自分も息をしているみたいだった。

 長い夜だった。

 けれど、教会の石床は、最後まで大きくは揺れなかった。

 川の音は、線の向こう側にとどまり続けた。

 翌朝、雨が細くなりかけたころ、川沿いの村から一人の若者が駆け込んできた。

 服は泥だらけで、息が荒い。

 「神父様!」

 叫ぶような声だった。

 「土手が、少し持っていかれました! でも、村の家までは、水は来てません!」

 神父様は、ゆっくりと立ち上がった。

 「分かった。すぐに見に行こう」

 わたしは、胸の奥で白い糸が震えるのを感じた。

 土は崩れた。

 畑の端も、きっと削られた。

 でも、あの夜、土手の中へ押し込んだ白い“芯”と、ラーチェが探し当てた危ない層が、村の屋根までの道を一本、確かに断ち切っていた。

 数字ではなく、音と揺れでしか分からなかったことが、今、村人の言葉で確かめられた。

 「行こう」

 神父様の声には、疲れと安堵と、次の心配が一緒に混じっていた。

 「今度は、どこを直せばいいかを、目で見て決めなければならない」

 わたしとアリシアは頷いた。

 足元のラーチェが、小さく輪を解いた。

 昨夜、崩れかけの音だけが届いたあの川へ、今度はまた、目で確かめに行く番だった。



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