17 前夜
西の空に重たい雲が掛かった日が、三日続いた。
空気はぬるく、風は落ち着きなく向きを変えた。
そして四日目の朝、とうとう雨が降り出した。
最初は、畑が喜ぶ程度のしとしと雨だった。
けれど、昼を過ぎるころには、音が変わった。
屋根を叩く水の粒が、一つ一つはっきりと聞こえるほど大きくなる。
「これは、少し長く続きそうだな」
窓の外を見ながら、神父様が言った。
「川は大丈夫でしょうか」
わたしの問いに、アリシアが顔をしかめる。
「川沿いの村は増水に慣れているとはいえ、収穫前に堤が崩れたら……」
その先は、言葉にしなくても分かった。
実る前の穂が、水に攫われれば、その年の冬を越す術がごっそり奪われる。
夕刻前、雨脚がいっそう強くなったころ。
神父様は、決断した。
「川を見に行く」
「い、今から、ですか」
驚くわたしに、神父様は頷く。
「嵐のまっただ中では、近づくことすらできなくなる。今のうちに“どこが危ないか”を見ておかねばならない」
アリシアは、すでに外套を手にしていた。
足元では、ラーチェが黒い輪をひとつ、きゅっと細くする。
「昨年はラーチェがいなかったから見ることも守ることもできなかったが今ならできる。わたしが留守の間、結界は今夜だけ他の司祭に任せる」
神父様は短く言う。
「わたしたちは、外側の線を見に行く」
わたしたちは厚手の外套を羽織り、教会を出た。
外に出た瞬間、雨が顔に叩きつけられた。
風が頬を打ち、水滴が目に入りそうになる。
神父様は、深く息を吸い込む。
胸の奥から白い糸があふれ出し、わたしたちの頭上でゆっくりと広がった。
それは、無数の細い糸を編み合わせた、半透明の傘のような形をとる。
「傘だと思いなさい」
神父様が言う。
「この下にいるあいだは、顔と目だけは守られる。足元は、自分で気をつけるように」
白い傘に当たった雨粒は、ぱちぱちと小さな音を立てて弾かれ、外套の肩へと流れ落ちた。
髪や目に直接当たる冷たさが、少しだけやわらぐ。
「ラーチェ」
神父様が、足元の影に呼びかける。
「土手の中を、見てほしい。崩れかけているところを探し出しなさい」
ラーチェは、黒い輪郭をわずかに震わせた。
一部がするりと伸び、ぬかるんだ道の端の土に軽く触れる。
触れた途端、その黒は、土の中に細い糸となって染み込んでいった。
川へ向かうあいだ、ラーチェは何度も足元から伸びては、土の中を探り続けた。
「よく見ておきなさい」
神父様は、雨音に負けないよう少し声を張った。
「今日は、お前たちの手を直接使う必要はない。だが、目と耳と足で覚えることは山ほどある」
わたしとアリシアは頷く。
傘の縁から落ちる水を避けながら、一歩一歩、土の感触を確かめるように歩いた。
やがて、川が見えてきた。
普段は穏やかな水面が、今日は茶色く泡立ち、岸ぎりぎりまで迫っている。
川沿いの村の家々は、まだ水に呑まれてはいなかった。
けれど、土手のいくつかの場所では、すでに水が縁を舐めるようにかぶさっている。
「あそこです」
アリシアが、少し低くなっている場所を指さした。
そこからは、細い筋のように水がしみ出している。
「よく見つけたな。目に見える弱いところだ」
神父様が頷く。
「だが、ラーチェ」
足元の影に視線を落とす。
「お前が感じる“崩れかけ”は、どこだ」
ラーチェは、黒い身体を土手の方へ細く伸ばした。
傘の縁から少しはみ出すようにして、土の斜面にそっと触れる。
そこから、黒い糸が何本も分かれ、土の中へ潜っていった。
しばらくして、一番太い糸が、ある一点でぴたりと止まる。
土の奥で、無数の小さな命が潰れるような揺れを捉えた。
ラーチェの輪郭が、その場所の上で強く震える。
「……そこですか」
わたしが足元を見る。
見た目には、他の場所とほとんど変わらない。
同じような草。
同じような土。
同じような水の色。
ただ、川の音だけが、そこでは少し違って聞こえた。
ごうごうという表面の流れの音の奥で、低く、ぐぐっと何かを押し広げるような唸りが混じる。
「ここから、下へ向かってえぐれているようだ」
神父様が言う。
「水が下の土を抜きとり、道を作りかけている。これがさらに土を削り、やがては………」
神父様は、白い傘の一部をすっと細く伸ばした。
糸束の一本が、傘の縁から垂れ下がり、土手の少し内側の地面へと突き刺さる。
刺さった先から、白い糸が、土の中へと潜っていった。
「今から土を固め、岩にする」
低く呟く。
「これをいくつも作って水に削られて空いた隙間を、これで塞いで埋める」
足元の土が、かすかに震えた。
川の音が、ほんの少しだけ変わる。
ごうごうという流れの中の、重たい唸りが和らいだ気がした。
ラーチェが、同じ場所に黒い糸を沿わせる。
黒は、土の中で広がり、まだ柔らかい部分を嗅ぎ分ける。
白い糸は、その“柔らかさ”を感じ取るたび、そこへ力をかけて押し固めていく。
「ここだけを支えても、意味はない」
神父様は、土手から少し離れた場所にも、同じように白い糸を打ち込んだ。
「両脇と、そのまた少し先にも、支えを作る」
ラーチェの黒い糸が、白い糸の先導役のように動く。
崩れかけている層をなぞり、その上から白が蓋をする。
わたしとアリシアは、その一部始終を、白い傘の下から黙って見ていた。
雨が白い膜に弾かれ、土と水と魔力の動きだけが、はっきりと目に入る。
「覚えておきなさい」
神父様が言う。
「アギューのとき、お前たちは血の中の“黒い点”の渦を見た。今日は、水の下で土をえぐる“流れ”を見ている」
「どちらも、“線を越えてくるもの”なんですね」
アリシアが、小さく呟いた。
「そうだ」
神父様は、土手から白い糸を引き抜いた。
「結界も土手も、“こちら側”と“あちら側”を分ける線だ。線を守るには、どこが薄くなっているかを、先に知らなければならない」
ラーチェが、黒い糸を土の中からすべて引き上げる。
輪郭が元の円に戻ると同時に、川の音が、さきほどより少し落ち着いて聞こえた。
「全部を救えるわけではないが」
神父様は、川面を見つめた。
「少なくとも、今夜ここから一気に抜けて村を呑み込む、という道は潰した」
そのあとも、わたしたちは土手に沿って歩いた。
目で見て分かるひびや窪みには、アリシアがすぐに指を伸ばす。
ラーチェは、そのたびに内側を探り、本当に危ない層があるかどうかを示す。
神父様は、白い糸で必要なところだけを圧縮していく。
わたしは、川の音を耳で追いながら、どの音の下に“危ない場所”があったのか、一つずつ身体に刻んでいった。
教会へ戻るころには、雨はさらに激しくなっていた。
白い傘がなければ、目も開けていられないほどだった。
「ここからが、本当の嵐ですね」
アリシアが、外套の裾を絞りながら言う。
「そうだ」
神父様は、白い傘を解きながら頷いた。
「だが、今夜見るべき場所と、耳を澄ますべき音は、もう決まった」
足元で、ラーチェが小さく輪を巻いた。
黒い身体の中には、川の下で揺れていた“危ない層”の感触が、はっきりと残っているように見えた。
わたしたちは、白い傘と黒い探知で土手を押さえた。
あとは、嵐がどこまで来るのかを、見守るしかなかった。




