16 プロローグ 顔
川沿いの村を訪ねてから、ひと月あまりが過ぎた。
教会の門をくぐる人の顔ぶれも、少し変わってきた。
あの夏の盛りには、川の方角から担がれてくるアギューの患者が、一日に何人もいた。
今も、熱で倒れる人がいないわけではない。
それでも、寝台の半分以上が、アギューで埋まることは、もうなくなっていた。
ある日、川沿いの村から、一人の男が教会にやって来た。
わたしは最初、誰だか分からなかった。
少し痩せてはいたが、顔つきは前よりも穏やかになっている。
「こないだは、村までおいでくださって」
そう言って頭を下げたとき、その声に覚えがあった。
あのとき、入口でわたしたちを迎えた、年配の男の人だった。
「いえいえ、女神の命に従ったまでです。こちらこそ村で案内をしていただき非常に助かりました。そういえばこの前と比べてずいぶんと顔色がよくなられましたね。その後、どうなったかお伺いしてもよろしいですか」
神父様が尋ねる。
「……アギューで寝込む者の数、去年の半分くらいで済んでます」
男は、少し照れたように笑った。
「最初は、あんた方の言う“水たまり潰し”なんぞ、誰も真に受けちゃおりませんでしたがね」
「そうでしたね。そう見えました」
アリシアが、小さく笑う。
男も、苦笑いで返した。
「でも、あの日、うちの前のぬかるみを見てもらった婆さんがおりましてな。あれから、孫が前ほど足を腫らさんって言い出したもんで」
それが、村の空気を少しずつ変えたらしい。
「女衆が先に動きました。家の前や井戸のそばの水たまりを、勝手に崩して回りまして」
男は、ゆっくりと言葉を続ける。
「そのうち男どもも、畑から帰る道すがら、ついでみたいな顔して土を崩すようになりましてな」
ラーチェが、足元で小さく身を震わせた。
その黒い身体には、教会の周りで喰ってきたものと同じ匂いが、かすかにまとわりついていた。
「もちろん、全部が全部、アギューのせいじゃねえかもしれません」
男は、そう前置きしながらも、深く頭を下げた。
「でも、今年の夏を超えられた者が、確かに何人かはいます。あんた方が来てくれなきゃ、どうなっていたか分からん者たちが」
その言葉に、胸の奥で白い糸が静かに震えた。
トマスの顔。
あの少年の手の温度。
守れなかった者たちの名前が、一度に浮かび上がる。
「村の者を代表して、お礼を言わせてもらいに来ました」
男は、もう一度頭を下げる。
「ありがとうございます、神父様。そして……」
視線が、アリシアとわたし、それから足元の影へと順番に向いた。
「不思議な黒いのも、一緒に」
ラーチェは、輪郭をほんの少しだけ細くした。
それが照れ隠しなのかどうか、わたしには分からない。
神父様は、静かに頷いた。
「礼は、女神と、ここまで歩いてきたあなた方自身にも伝えてください」
男は笑い、そして村へ戻っていった。
その背中を見送りながら、アリシアが小さく息を吐く。
「数じゃなくて……顔が浮かぶお礼でしたね」
「そうだな」
神父様の声には、わずかに安堵が混じっていた。
夏は、ゆっくりと姿を引き始めていた。
空の色が、日に日に青から鈍い灰色へと傾いていく。
畑では、早く実った野菜が次々と収穫されていた。
丸く太った根菜。
干し場に並ぶ豆の莢。
少し遅れて、穀物の穂も、風に重たく揺れ始める。
「今年は、畑の方はどうですか」
ある日、教会に立ち寄った村人に尋ねると、こう返ってきた。
「アギューは去年より楽だが、空の機嫌が少し悪くてな」
その言葉どおり、ここしばらくの空は、落ち着きなく雲を走らせていた。
西の方角に、低く厚い雲の帯が、日に日に濃くなっていく。
風はまだ冷たくない。
けれど、湿り気を含んだ重い空気が、胸のあたりにのしかかるようだった。
ある夕方、礼拝堂の窓から外を眺めていたわたしの隣に、神父様が立った。
「風が、変わり始めている」
小さく呟く。
「アギューの夏が過ぎれば、次は畑の季節だ」
その声には、別の種類の緊張が滲んでいた。
「嵐が来るのですか」
わたしが問うと、神父様はすぐには答えなかった。
代わりに、遠くの空の形をじっと見つめる。
「まだ分からない」
やがて、静かにそう言う。
「だが、この時期に西からこういう雲が続くときは、たいてい“何か”は来る」
アリシアも、窓辺にやって来た。
「アギューは、少しだけ減りました」
彼女が言う。
「でも、もし嵐で畑をやられたら、今年を越えられない家がまた増えます」
「病だけが人を倒すわけではないからな」
神父様は、遠くの畑の方角に視線を向けた。
「わたしたちが守ろうとしているのは、寝台の上の命だけじゃない。畑で立っている背中や、冬を越すための俵もだ」
足元で、ラーチェが静かに身じろぎした。
黒い身体が、窓から見える雲の影と重なる。
「ラーチェには、嵐は喰えませんね」
アリシアが、苦笑まじりに言う。
「風も、雨粒も」
「だが、嵐のあとに現れる “別のもの”なら、いくらかは喰えるかもしれない」
神父様の言葉に、ラーチェがわずかに身を細くした。
それが、了承の合図のように見えた。
「もう一度、備えを考えなおさなければならない」
神父様は、窓から目を離す。
「アギューの夏を越えたからといって、今年が楽になるとは限らない。むしろ、ここからが“収穫を守る季節”の始まりだ」
窓の外で、遠くの雲が鳴った気がした。
まだ音にはならない、低い震え。
それでも、胸の奥の白い糸は、それをはっきりと感じ取っていた。
アギューの黒い点ではない、もっと大きく、鈍い揺れ方。
――次は、どんな形で人を試すのだろう。
そう思いながら、わたしは窓越しに空を見上げた。
季節が、またひとつ歯車を進める音がしたような気がした。
その先にあるものを、まだ誰も知らないまま。




