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水鏡のメアリー  作者: 風太郎
灯火

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15 帳面

 川沿いの村を訪ねた日から、いくつもの夕暮れが過ぎた。

 わたしたちは教会の周りでも、水たまりを潰すことを続けていた。

 雨のあと、石畳の隙間にできる浅い溜まり。

 裏庭の樽の影に残るぬるい水。

 桶からこぼれたまま踏み固められた泥。

 神父様が土を崩し、わたしたちが水を川へ流す。

 ラーチェは、その上を静かに薙ぎ、小さな影をいくつも切り落としていく。

 そんな日々のあとで、あることに気がついたのは、わたしよりも先にアリシアだった。

 「……羽音が、前より少ない」

 ある夕方、教会の門を閉めながら、アリシアがぽつりと言った。

 「門のあたりで肌を刺す感じも、ほんの少しだけ弱い」

 言われてみれば、確かにそうだった。

 去年の夏は、夕暮れどきになると、門番の人たちがいつも腕を掻いていた。

 今年は、それが少しだけ減っている。

 「教会に運び込まれるアギューも、前よりは少しだけ減っているように見える」

 宿舎の帳面をめくりながら、若い司祭が言った。

 「川沿いの村から来る者の数も、この十日ほどは少し落ち着いています」

 数字だけを見れば、確かに、変化はあった。

 でも、寝台の列は、まだ全部は空かない。

 新しく運び込まれてくる人のうち、誰かは回復し、誰かは戻らない。

 アギューは、減りはじめたかもしれない。

 けれど、「いなくなった」と言うには、あまりにも多くの息づかいが、まだここで上下していた。

 ある夜、神父様が礼拝堂の片隅で帳面を広げていた。

 わたしは、ランプを持って隣に座る。

 帳面には、日付と、名前と、病の種類と、簡単な経過が書かれていた。

 「神父様。アギューでここに運び込まれた者の数を、数え直しているのですか」

 そう尋ねると、神父様は首を横に振った。

 「メアリーか。数だけなら、とっくに出ている」

 そう言って、帳面の端を指で押さえた。

 そこには、日ごとの「アギューの患者数」と「亡くなった者の数」が、きちんと並んでいる。

 「では、何を数えているんですか」

 「名前だ」

 短い答えだった。

 「この夏、アギューでここに運ばれてきた者の名前を、最初から一人ずつ、書き直している」

 帳面の別のページには、日付も病名も抜きで、ただ名前だけが縦に並んでいた。

 トマス。

 アルノ。

 川から担がれてきた老女。

 名も聞けないまま、虚ろなうわごとだけを残して息を引き取った男。

 「……どうして、ですか」

 わたしの声は、自分でも驚くほど小さかった。

 「数が減るのは、大事なことだ」

 神父様は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 「教会には寝台の数に限りがある。村には働き手の数に限りがある。アギューで倒れる者が減れば、その分だけ、守れる生活が増える」

 それは、頭で考えればすぐに分かる話だった。

 「だが、数だけを追いかけていると、やがて“元の数”がぼやけてしまう」

 神父様の指が、トマスの名前の上で止まる。

 「去年の夏、アギューで倒れた者が何人いたか、正確に言えるか」

 答えられなかった。

 「今年、ここに運ばれてきた者の中で、誰をもう一度救いたかったか、一人ひとり言えるか」

 それは、すぐにいくつもの顔が浮かんだ。

 「だから、もう一度、数え直している」

 神父様は、穏やかな声で続ける。

 「“五人減った”“十人減った”ではなく、“トマスと、あの少年と、その父親と”――そうやって、名前で数え直す」

 胸の奥で、白い糸の気配が、かすかに痛んだ。

 「もし、来年の夏に、ここに運び込まれてくるアギューの者が半分になったとしても」

 神父様は、帳面から顔を上げる。

 「わたしは、“半分になった”とは言わないつもりだ」

 「なんて、言うんですか」

 「“この名前の人たちと、その家族の分だけ、今年は守れた”と言う」

 ランプの火が、神父様の横顔を照らした。

 その影は、いつもより少しだけ深く見えた。

 「ここに並んでいるのは、すでに守れなかった者たちの名前だ」

 その言葉の重さに、喉が固くなる。

 「だからこそ、この先守れる者の名前は、心の中で同じ行に書いておかなければならない」

 「同じ行に…」

 「トマスの行の横に、“来年、畑に立つ誰か”の名前を」

 神父様は、空の行を指でなぞる。

 「アルノの行の横に、“来年の川辺で網を打つ誰か”の名前を」

 アリシアが、いつの間にか近くに立っていた。

 「減った数じゃなくて、増えた未来の方を見るということですね」

 彼女の声は静かだった。

 「そういう言い方もできる」

 神父様は、小さく笑う。

 「だが、どれだけ未来を数えようとも、ここに並んだ名前が消えるわけではない」

 わたしは、帳面の文字を見つめた。

 トマス。

 アルノ。

 アギューで倒れた人たちの名前。

 「……わたしも、覚えて……おきます」

 そう言うと、神父様がこちらを見る。

 「わたしは、まだ字がうまく書けません。でも、手で触った人たちの温度なら、きっと忘れません」

 あの額の熱。

 あの胸の硬さ。

 あの手のひらの冷え。

 「今年、アギューでここに来た人たちの温度を、来年も、その次の年も、ちゃんと覚えておきたいです」

 「それは、良い帳面だ。紙には写せない、大事な帳面だ。」

 神父様の声が、少しだけ柔らかくなった。

 「わたしの紙の帳面と、お前の手の中の帳面。両方があれば、きっと数を間違えずに済む」

 足元で、ラーチェが静かに身を寄せてきた。

 黒い身体が、わたしの影に重なる。

 アギューを運ぶ黒い点を喰う、その同じ黒が。

 「ラーチェも、覚えているんでしょうか」

 わたしが尋ねると、ラーチェは輪郭を少しだけ震わせた。

 返事の代わりのように、石の床を一度だけ撫でる。

 その動きだけで、「はい」と言われた気がした。

 教会の外では、夏の終わりの風が、羽音の数を少しだけ減らしながら吹いていた。

 アギューは、まだいる。

 けれど、ここで数え直された名前たちが、少しずつ、来年の行を埋めていくのだと信じたくなる夜だった。


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