14 蚊帳
アギューで倒れる人が少しずつ増え、教会の寝台はほとんど埋まっていた。
結界を強めても、追いつかない。
ある夕方、神父様は他の司祭たちを集めた。
「今夜から数日は、境界の結界の維持を、あなた方に任せたい」
ざわめきが走る。
「村へ出るのですか」
年配の司祭が問う。
「川沿いの村を回る。アギューの“筋”を少しでも断たねば、ここだけを固めても意味がない」
そう言って、神父様はわたしとアリシア、それから足元のラーチェを見る。
「三人と一匹で行く」
わたしの胸が、高鳴った。
怖さと、少しの誇らしさとが混ざった音だった。
教会を出るとき、神父様は深く息を吸い、目を閉じた。
白い糸が、彼の胸の奥から溢れ出す。
それは、見えない薄布のように広がり、わたしたち三人と一匹を包み込んだ。
「細かな網だと思いなさい」
神父様が言う。
「この網の目の内側には、なるべく蚊を入れない。外にいるものは……」
言葉を切って、足元の黒い影を見る。
ラーチェは、かすかに身を震わせた。
川へ向かう道は、ぬかるんでいた。
日が傾き、草むらからはすでに、かすかな羽音が立ち始めている。
肌の上を、じりじりとした気配が撫でていく。
――来る。
そう思った瞬間だった。
ラーチェの胴体から、すっと何かが細く伸びた。
鎌だった。
黒い糸の束が一方向にまとまり、薄く光を反射する刃のような形になる。
次の瞬間、その鎌が、わたしたちの前の空気を横薙ぎに切った。
空中で、小さな影がばらばらに砕ける。
蚊だった。
見えないほど細い翅が、夕陽を受けて一瞬だけ白く光り、土に吸い込まれる。
「今の、見えました?」
わたしが小声で問うと、アリシアはこくりと頷いた。
「ラーチェ、さっきからずっと、音を追ってる」
ラーチェは、足元の影から何度も一部を突き出し、鎌のようにして周りの空気を切り払っていた。
時には、鎌ではなく、細い筒のような形にも変わる。
水だ。
道端の水たまりから、細い水の糸を吸い上げ、それを圧縮して一気に放つ。
高い圧の水の矢のように、その水が空中の一点を正確に撃ち抜く。
蚊の胴体に、小さな穴が開く。
翅がばらばらに散り、黒い点が糸に絡まって落ちていく。
「すごい」
思わず声が漏れた。
「やはりそうだったか…。ようやく確信が持てた」
神父様は続ける。
「アギューの原因は蚊だ。正確には蚊の中にいる“何か”だが。ラーチェは、あの小さな身体の中にいる“黒いもの”まで見えている」
神父様が、息を整えながら言う。
「わたしには、ただの羽音にしか聞こえないがな」
それでも、神父様の張る“細かな網”の内側に、蚊が入ってくることはほとんどなかった。
白い網の目が、蚊の翅に触れるたび、ふわりと弾く。
弾かれた蚊は、外側でぐるりと旋回し、その先で待っている鎌か水の矢に切り裂かれる。
「村の人は、こんな中を毎日歩いているんですね」
わたしが言うと、アリシアは表情を曇らせた。
「夕方の川道は、ほとんど“蚊の道”みたいなものだから」
だから、アギューが絶えない。
それを、今日ようやく、目で見て理解した気がした。
村が近づくと、茅葺きの屋根の向こうに、川面がちらちらと見え始めた。
子どもたちの笑い声と、桶を運ぶ音が混じり合う。
神父様は、そこで一度立ち止まり、細かな網を少し広げ直した。
「ここから先は、村の者たちの目にも触れる」
低い声でそう言って、歩を進める。
村の入り口で、年配の男が待っていた。
「教会の神父様だな」
「ご無沙汰している」
神父様は、一礼した。
「アギューで倒れる者が多いと聞いた。今日は、様子を見せてもらいに来た」
男は、深く頭を下げた。
「こんなところまで、わざわざ」
その背後で、何人もの村人が、心配そうにこちらを見ていた。
わたしとアリシアは、神父様の少し後ろに控えた。
ラーチェは、足元の影に溶け込んだまま、村の周りの水たまりや草むらに、時折鎌と水の矢を伸ばしている。
何も知らない村人たちの頭上で、小さな羽音が一つ、また一つと途切れていった。
村の入口で年配の男と挨拶を交わしたあと、神父様は短く頭を下げた。
「まず、川べりを見せてもらえますか」
男は少し驚いた顔をしたが、「こちらです」と先に立って歩き出した。
村の家々の間を抜けると、すぐに川音が近づいてくる。
夕方の光が川面に跳ね、湿った風が肌にまとわりついた。
地面には、無数の小さな水たまりがあった。
踏み固められた土のくぼみ。桶からこぼれた水。家々の影に残る、浅い泥の溜まり。
そこから、細かな羽音が、うすく立ちのぼっている。
「ここを、少し片づけたいのです」
神父様が、足元を見ながら言った。
「片づける?」
案内役の男が首をかしげる。
「川の水が悪いんで?」
「水そのものが悪いわけではありません」
神父様は首を振る。
「水が、こうして少しだけ溜まって、日陰でぬるくなったところに、アギューを運ぶ小さな虫が増えるのです」
男は眉をひそめた。
「小さな虫……?」
アリシアが、言葉を選びながら口を開いた。
「さっきも、村まで来る道でたくさん飛んでいました。刺されると痒くなる、あの羽音の細かい虫です」
「蚊か」
男は、ようやく合点がいったように言った。
「蚊なんて、昔からおる。今さらどうこう言うようなもんでも」
「昔からいるからこそ、アギューも昔から絶えないのです」
神父様の声は静かだった。
「ここをすべて変えることはできません。ですが、せめて、人がよく通る道と、子どもたちが遊ぶところぐらいは」
そう言って、近くの水たまりにしゃがみ込む。
指先で、泥と水の境目を少しだけ崩した。
浅い溜まりが崩れて、ぬるい水が川の方へ細い筋を作って流れていく。
その瞬間、足元の影からラーチェがすっと伸びた。
鎌の形になった黒い先端が、水面すれすれを薙ぐ。
しゅっ、と小さな影が数匹、水と一緒に流されながら切り裂かれた。
「……見えたか」
神父様が、男の方を振り返る。
男は、わずかに顔を引きつらせていた。
「なんだ、今のは」
「わたしの連れです」
神父様は、淡々と答える。
「アギューを運ぶ虫や、“その中にいるもの”を喰う存在だと思ってください」
男の視線が、わたしとアリシアの間をさまよった。
疑いと、不安と、少しの恐れ。
「そんな不気味なもんを、なんで村に連れてきたんで?」
言葉の端に、かすかな敵意が混じる。
アリシアの肩が、ぴくりと強張った。
わたしも、思わず一歩前に出そうになったが、神父様の手がそれを制した。
「連れてきたのは、こいつの“喰う元”を“断つ”ためです」
神父様は、足元の細かな水たまりを指さす。
「このぬるい水を減らし、草を少し刈る。それだけで、ここを通る子どもたちが刺される数は少し減る」
男は、納得しかねる表情だった。
「アギューは、女神の罰だって、昔から言われてる。そんなもの信じられるか」
「女神は、怠け者には厳しいが、働く者にいきなり罰を与えたりはしない」
神父様の声が、少しだけ強くなる。
「ここを片づけるのは、女神に喜ばれる“掃除”でもある」
「掃除で病が減るってのか。冗談きついぜ」
男は鼻を鳴らした。
「神父様、それはあんた方の教えかもしれんが、うちの村じゃ、アギューは川の精霊の機嫌次第だって」
「精霊がいるなら、なおのこと」
アリシアが、思わず口を挟んだ。
「こんなぬかるみで蚊が増えて、人が苦しむのを、精霊は喜ぶでしょうか」
男は、言葉に詰まったように口を閉じる。
周りで聞いていた村人たちも、ひそひそと囁き合っている。
「しかしよぉ。水をいじると、かえって怒らせるんじゃないか」
「あんな黒い化け物を連れてきて、何をする気だ」
「アギューがここから教会に移るだけじゃあねえのか」
不安と疑いが、薄い霧のように広がっていく。
わたしの胸の奥で、白い糸がきゅっと縮んだ。
――どう言えば、伝わるだろう。
神父様は、しばらく黙って村人たちの顔を見渡した。
それから、近くにいた少年を一人、手招きした。
アギューで倒れた少年より、少し年上くらいの子だ。
「君は、ここを毎日通るか」
「……通ります」
少年は、おそるおそる答える。
素足は泥で汚れ、ふくらはぎにはいくつもの刺し跡が赤く残っていた。
神父様は、その足元のすぐ横にしゃがみ込んだ。
神父様が、指先でそっと地面を撫でる。
浅いくぼみが崩れ、水が川の方へと流れ出す。
同時に、足元の影からラーチェが伸び、水面すれすれを一度だけ薙いだ。
少年は、不安そうにわたしたちを見る。
「刺されますか」
「さっきまでよりは、少しだけ減るはずです」
アリシアが、優しく言った。
「全部は無理。でも、少しだけ」
神父様は、周りの村人たちの方を向く。
「今すぐにアギューを消すことはできません。ですが、こうした水たまりを少しずつ潰していけば、ここを通る子どもたちが刺される数は、確かに減る」
村人たちは、まだ半信半疑の顔をしていた。
「本当に、それで病が減るのか」
誰かがぽつりと言う。
「やってみなければ、分からない」
神父様は、正直に答えた。
「わたしたちは、教会のまわりで同じことを始めています。そこでアギューがどれだけ減るか、自分たちの目でも確かめるつもりです」
言いながら、足元の細かな水たまりを一つ一つ崩していく。
ラーチェが、そのたびに水面を薙ぎ、小さな影をいくつも切り落としていた。
わたしとアリシアも、黙って手伝った。
土を崩し、石をどかし、溜まった水を川の方へ流す。
村人たちは、その様子をしばらく黙って見ていた。
やがて、一人の女の人が、恐る恐る声をあげる。
「……うちの家の前のも、見てもらえますか」
年老いた女だった。
「毎年、孫が足を刺されて腫らす水たまりがあって」
神父様は、その人の方を向き、静かに頷いた。
周りの村人たちの目は、まだ完全には信じていない。
けれど、その疑いの奥に、ほんの少しだけ、別の色が混じり始めていた。
期待とも、祈りともつかない、細く揺れる光。
わたしは、それを胸の奥の白い糸で、そっと確かめた。
――きっと、すぐには分かってもらえない。
でも、この細かな網と、黒い鎌と、水を流す手を、何度もここに通わせることはできる。
アギューに向かって引いた細い線は、まだ頼りない。
けれど、その線を見て、不審そうに眉をひそめながらも目をそらさない人たちが、ここにいる。
村人たちの揺れる視線を見つめながら、 胸の奥で、白い糸の“気配”がかすかに揺れた。
魔力を使ったからではない。
ただ、心の揺れが、糸の奥のどこかをそっと震わせた。




