表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水鏡のメアリー  作者: 風太郎
灯火

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/50

14 蚊帳

 アギューで倒れる人が少しずつ増え、教会の寝台はほとんど埋まっていた。

 結界を強めても、追いつかない。

 ある夕方、神父様は他の司祭たちを集めた。

 「今夜から数日は、境界の結界の維持を、あなた方に任せたい」

ざわめきが走る。

 「村へ出るのですか」

 年配の司祭が問う。

 「川沿いの村を回る。アギューの“筋”を少しでも断たねば、ここだけを固めても意味がない」

 そう言って、神父様はわたしとアリシア、それから足元のラーチェを見る。

 「三人と一匹で行く」

 わたしの胸が、高鳴った。

 怖さと、少しの誇らしさとが混ざった音だった。

教会を出るとき、神父様は深く息を吸い、目を閉じた。

 白い糸が、彼の胸の奥から溢れ出す。

 それは、見えない薄布のように広がり、わたしたち三人と一匹を包み込んだ。

 「細かな網だと思いなさい」

 神父様が言う。

 「この網の目の内側には、なるべく蚊を入れない。外にいるものは……」

 言葉を切って、足元の黒い影を見る。

 ラーチェは、かすかに身を震わせた。

 川へ向かう道は、ぬかるんでいた。

 日が傾き、草むらからはすでに、かすかな羽音が立ち始めている。

 肌の上を、じりじりとした気配が撫でていく。

 ――来る。

 そう思った瞬間だった。

 ラーチェの胴体から、すっと何かが細く伸びた。

 鎌だった。

 黒い糸の束が一方向にまとまり、薄く光を反射する刃のような形になる。

 次の瞬間、その鎌が、わたしたちの前の空気を横薙ぎに切った。

 空中で、小さな影がばらばらに砕ける。

 蚊だった。

 見えないほど細い翅が、夕陽を受けて一瞬だけ白く光り、土に吸い込まれる。

 「今の、見えました?」

 わたしが小声で問うと、アリシアはこくりと頷いた。

 「ラーチェ、さっきからずっと、音を追ってる」

 ラーチェは、足元の影から何度も一部を突き出し、鎌のようにして周りの空気を切り払っていた。

 時には、鎌ではなく、細い筒のような形にも変わる。

 水だ。

 道端の水たまりから、細い水の糸を吸い上げ、それを圧縮して一気に放つ。

 高い圧の水の矢のように、その水が空中の一点を正確に撃ち抜く。

 蚊の胴体に、小さな穴が開く。

 翅がばらばらに散り、黒い点が糸に絡まって落ちていく。

 「すごい」

 思わず声が漏れた。

「やはりそうだったか…。ようやく確信が持てた」

神父様は続ける。

 「アギューの原因は蚊だ。正確には蚊の中にいる“何か”だが。ラーチェは、あの小さな身体の中にいる“黒いもの”まで見えている」

 神父様が、息を整えながら言う。

 「わたしには、ただの羽音にしか聞こえないがな」

 それでも、神父様の張る“細かな網”の内側に、蚊が入ってくることはほとんどなかった。

 白い網の目が、蚊の翅に触れるたび、ふわりと弾く。

 弾かれた蚊は、外側でぐるりと旋回し、その先で待っている鎌か水の矢に切り裂かれる。

 「村の人は、こんな中を毎日歩いているんですね」

 わたしが言うと、アリシアは表情を曇らせた。

 「夕方の川道は、ほとんど“蚊の道”みたいなものだから」

 だから、アギューが絶えない。

 それを、今日ようやく、目で見て理解した気がした。

 村が近づくと、茅葺きの屋根の向こうに、川面がちらちらと見え始めた。

 子どもたちの笑い声と、桶を運ぶ音が混じり合う。

 神父様は、そこで一度立ち止まり、細かな網を少し広げ直した。

 「ここから先は、村の者たちの目にも触れる」

 低い声でそう言って、歩を進める。

 村の入り口で、年配の男が待っていた。

 「教会の神父様だな」

 「ご無沙汰している」

 神父様は、一礼した。

 「アギューで倒れる者が多いと聞いた。今日は、様子を見せてもらいに来た」

 男は、深く頭を下げた。

 「こんなところまで、わざわざ」

 その背後で、何人もの村人が、心配そうにこちらを見ていた。

 わたしとアリシアは、神父様の少し後ろに控えた。

 ラーチェは、足元の影に溶け込んだまま、村の周りの水たまりや草むらに、時折鎌と水の矢を伸ばしている。

 何も知らない村人たちの頭上で、小さな羽音が一つ、また一つと途切れていった。


 村の入口で年配の男と挨拶を交わしたあと、神父様は短く頭を下げた。

 「まず、川べりを見せてもらえますか」

 男は少し驚いた顔をしたが、「こちらです」と先に立って歩き出した。

 村の家々の間を抜けると、すぐに川音が近づいてくる。

 夕方の光が川面に跳ね、湿った風が肌にまとわりついた。

 地面には、無数の小さな水たまりがあった。

 踏み固められた土のくぼみ。桶からこぼれた水。家々の影に残る、浅い泥の溜まり。

 そこから、細かな羽音が、うすく立ちのぼっている。

 「ここを、少し片づけたいのです」

 神父様が、足元を見ながら言った。

 「片づける?」

 案内役の男が首をかしげる。

 「川の水が悪いんで?」

 「水そのものが悪いわけではありません」

 神父様は首を振る。

 「水が、こうして少しだけ溜まって、日陰でぬるくなったところに、アギューを運ぶ小さな虫が増えるのです」

 男は眉をひそめた。

 「小さな虫……?」

 アリシアが、言葉を選びながら口を開いた。

 「さっきも、村まで来る道でたくさん飛んでいました。刺されると痒くなる、あの羽音の細かい虫です」

 「蚊か」

 男は、ようやく合点がいったように言った。

 「蚊なんて、昔からおる。今さらどうこう言うようなもんでも」

 「昔からいるからこそ、アギューも昔から絶えないのです」

 神父様の声は静かだった。

 「ここをすべて変えることはできません。ですが、せめて、人がよく通る道と、子どもたちが遊ぶところぐらいは」

 そう言って、近くの水たまりにしゃがみ込む。

 指先で、泥と水の境目を少しだけ崩した。

 浅い溜まりが崩れて、ぬるい水が川の方へ細い筋を作って流れていく。

 その瞬間、足元の影からラーチェがすっと伸びた。

 鎌の形になった黒い先端が、水面すれすれを薙ぐ。

 しゅっ、と小さな影が数匹、水と一緒に流されながら切り裂かれた。

 「……見えたか」

 神父様が、男の方を振り返る。

 男は、わずかに顔を引きつらせていた。

 「なんだ、今のは」

 「わたしの連れです」

 神父様は、淡々と答える。

 「アギューを運ぶ虫や、“その中にいるもの”を喰う存在だと思ってください」

 男の視線が、わたしとアリシアの間をさまよった。

 疑いと、不安と、少しの恐れ。

 「そんな不気味なもんを、なんで村に連れてきたんで?」

 言葉の端に、かすかな敵意が混じる。

 アリシアの肩が、ぴくりと強張った。

 わたしも、思わず一歩前に出そうになったが、神父様の手がそれを制した。

 「連れてきたのは、こいつの“喰う元”を“断つ”ためです」

 神父様は、足元の細かな水たまりを指さす。

 「このぬるい水を減らし、草を少し刈る。それだけで、ここを通る子どもたちが刺される数は少し減る」

 男は、納得しかねる表情だった。

 「アギューは、女神の罰だって、昔から言われてる。そんなもの信じられるか」

 「女神は、怠け者には厳しいが、働く者にいきなり罰を与えたりはしない」

 神父様の声が、少しだけ強くなる。

 「ここを片づけるのは、女神に喜ばれる“掃除”でもある」

 「掃除で病が減るってのか。冗談きついぜ」

 男は鼻を鳴らした。

 「神父様、それはあんた方の教えかもしれんが、うちの村じゃ、アギューは川の精霊の機嫌次第だって」

 「精霊がいるなら、なおのこと」

 アリシアが、思わず口を挟んだ。

 「こんなぬかるみで蚊が増えて、人が苦しむのを、精霊は喜ぶでしょうか」

 男は、言葉に詰まったように口を閉じる。

 周りで聞いていた村人たちも、ひそひそと囁き合っている。

 「しかしよぉ。水をいじると、かえって怒らせるんじゃないか」

 「あんな黒い化け物を連れてきて、何をする気だ」

 「アギューがここから教会に移るだけじゃあねえのか」

 不安と疑いが、薄い霧のように広がっていく。

 わたしの胸の奥で、白い糸がきゅっと縮んだ。

 ――どう言えば、伝わるだろう。

 神父様は、しばらく黙って村人たちの顔を見渡した。

 それから、近くにいた少年を一人、手招きした。

 アギューで倒れた少年より、少し年上くらいの子だ。

 「君は、ここを毎日通るか」

 「……通ります」

 少年は、おそるおそる答える。

 素足は泥で汚れ、ふくらはぎにはいくつもの刺し跡が赤く残っていた。

 神父様は、その足元のすぐ横にしゃがみ込んだ。

 神父様が、指先でそっと地面を撫でる。

 浅いくぼみが崩れ、水が川の方へと流れ出す。

 同時に、足元の影からラーチェが伸び、水面すれすれを一度だけ薙いだ。

 少年は、不安そうにわたしたちを見る。

 「刺されますか」

 「さっきまでよりは、少しだけ減るはずです」

 アリシアが、優しく言った。

 「全部は無理。でも、少しだけ」

 神父様は、周りの村人たちの方を向く。

 「今すぐにアギューを消すことはできません。ですが、こうした水たまりを少しずつ潰していけば、ここを通る子どもたちが刺される数は、確かに減る」

 村人たちは、まだ半信半疑の顔をしていた。

 「本当に、それで病が減るのか」

 誰かがぽつりと言う。

 「やってみなければ、分からない」

 神父様は、正直に答えた。

 「わたしたちは、教会のまわりで同じことを始めています。そこでアギューがどれだけ減るか、自分たちの目でも確かめるつもりです」

 言いながら、足元の細かな水たまりを一つ一つ崩していく。

 ラーチェが、そのたびに水面を薙ぎ、小さな影をいくつも切り落としていた。

 わたしとアリシアも、黙って手伝った。

 土を崩し、石をどかし、溜まった水を川の方へ流す。

 村人たちは、その様子をしばらく黙って見ていた。

 やがて、一人の女の人が、恐る恐る声をあげる。

 「……うちの家の前のも、見てもらえますか」

 年老いた女だった。

 「毎年、孫が足を刺されて腫らす水たまりがあって」

 神父様は、その人の方を向き、静かに頷いた。

 周りの村人たちの目は、まだ完全には信じていない。

 けれど、その疑いの奥に、ほんの少しだけ、別の色が混じり始めていた。

 期待とも、祈りともつかない、細く揺れる光。

 わたしは、それを胸の奥の白い糸で、そっと確かめた。

 ――きっと、すぐには分かってもらえない。

 でも、この細かな網と、黒い鎌と、水を流す手を、何度もここに通わせることはできる。

 アギューに向かって引いた細い線は、まだ頼りない。

 けれど、その線を見て、不審そうに眉をひそめながらも目をそらさない人たちが、ここにいる。

 村人たちの揺れる視線を見つめながら、 胸の奥で、白い糸の“気配”がかすかに揺れた。

魔力を使ったからではない。

 ただ、心の揺れが、糸の奥のどこかをそっと震わせた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ