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水鏡のメアリー  作者: 風太郎
灯火

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14/50

13 試練

 トマスの葬儀から、そう日は経たないうちだった。

 また、アギューの患者が運び込まれた。

 今度は、アルノという少年だった。

 十にも満たないくらいの、小さな身体。腕や脚は細いのに、膝や肘には土でできた固い痂がついている。畑の手伝いをしていたのだと、一目で分かった。

 「川上の村からだ」

 神父様が低く言う。

 「家族は?」

 「父親と、祖父母がひと晩かけて連れてきたそうです」

 アリシアが答える。

 「今は宿舎で、少し休んでもらっています」

 アルノの額に手を当てる。

 熱い。

 トマスのときよりも、最初から熱が高かった。

 胸の奥で、白い糸がざわつく。

 足元で、ラーチェがアルノの足首にそっと絡みついた。

 黒い輪が、血の中を流れる黒い点を確かめる。

その瞬間、ラーチェはわずかに身を固くした。

 「……多いの?」

 わたしが、思わず尋ねる。

 ラーチェは、アルノの足下で身を固めた。

 その動きだけで、十分だった。

 「………メアリー」

 アリシアが、静かに言う。

 「さっき決めたこと、覚えてる?」

 「はい」

 胸の奥で、一度深く息を吸う。

 「………。この子の……。この子の手と額と胸の温度を…。ちゃんと…覚えます」

 アルノの揺らぎに合わせてわたしの白い糸が揺らぐ。

 わたしは、水盆と布を持って、アルノのそばに腰を下ろした。

 額。首筋。胸。手の甲。足首。

 一つ一つに触れながら、その温度と硬さと、皮膚の下のざわつきを、白い糸の先で記憶に刻んでいく。

 アリシアは、少年の手を握って、小さく白い糸を流していた。

 「…苦しみを、少しだけ鈍らせる」

 それが、今のアリシアにできる一番確かなことだった。

 その日の夜、少年の父親が教会に着いた。

 痩せた顔に、無理やり笑みを貼り付けたみたいな男の人だった。

 「……フッ…。こいつ、アギュー、なんだってな」

 寝台の横で、男の人の手がアルノの手を覆う。

 アルノは、うわごとのように何かを言っていたが、はっきりした言葉にはならなかった。

 「こいつはな。…川で、網を打つのが、好きでな」

 父親は、誰にともなく話し始める。

 「…本当は、まだ水際まで行かせたく、なかったんだ。…けど、こいつ。俺の後ろを勝手についてきて…」

 アリシアが、黙って聞いていた。

 神父様は、少し離れた場所から、その様子を見守っている。

 ラーチェは、少年の足首から離れない。

 わたしは、水と布を持つ手を止めないようにしながら、胸の奥で白い糸の動きを押さえ込んでいた。

 この子は、たぶん、トマスよりも危ない。

 それは、指先と糸の両方で分かった。

 でも、だからといって、わたしたちが何もしないわけにはいかなかった。

 夜も更けたころ、神父様が決断した。

 「父親を、一度村へ戻す」

 アリシアが顔を上げる。

 「でも、まだ」

 「必ず、明日の朝にもどるように伝えなさい」

 神父様の声は、いつもより少しだけ固かった。

 「この子が、この夜を越えられるかどうかは、分からない」

 その言葉に、胸がぎゅっと縮む。

 「だが、もし越えられなかったとき。父親が何も知らないまま、川のそばで網を打っているのは、あまりにも酷だ」

 アリシアは、唇を噛んでから頷いた。

 「分かりました」

 彼女は父親のところへ行き、短く事情を伝えた。

 男の人は、しばらく少年の顔を見下ろしていたが、やがてゆっくりと立ち上がる。

 「必ず、明日の朝に戻ります」

 そう言って、少年の額に唇を押し当てた。

 わたしたちは、夜通し少年のそばにいた。

 アリシアが何度も白い糸を流し、わたしは何度も水を替えた。

 ラーチェは、足首だけでなく、時折、少年の腕や脇腹にもするりと移り、血の中を泳ぐ黒い点を喰い続けた。

 それでも、夜明け前、少年の呼吸は一度大きく乱れた。

 胸が、大きく上下する。

 ひゅう、と息を吸い込んだかと思うと、そのあとが続かない。

 「ラーチェ!」

 アリシアの声より先に、ラーチェが動いていた。

 黒い身体が、一瞬だけ細く尖る。

 鎌のような形になった先端が、ふっと上の空間を薙いだ。

 何もないように見える空中で、小さな羽音が途切れる。

 薄い翅が、光を受けてかすかにきらめいた。

 蚊だった。

 少年の顔のすぐ上を飛んでいた小さな影が、真っ二つに切り裂かれ、床に落ちる。

 その瞬間、少年の胸が、ひくりと震えた。

 「メアリー!」

 神父様の声が飛ぶ。

 「胸を支えなさい!」

 わたしは、言われる前に動いていた。

 少年の背中に手を差し入れ、上体を少し起こす。

 胸の奥の白い糸が、少年の胸から上がってくる熱とぶつかった。

 熱の中に、黒い渦がある。

 ラーチェがその渦の縁で踊り、黒い点を喰っていた。

 「まだだ」

 アリシアが、少年の手を握りしめる。

 白い糸が、痛みを鈍らせるためだけに流れる。

 「ここで苦しみだけを置いていかせるわけにはいかない」

 少年の呼吸は、しばらく不規則に荒れた。

 それから、少しずつ、浅く静かな波に変わっていった。

 夜明けが近づくころ、少年の顔から、苦痛の歪みだけが、すっと消えた。

 代わりに、ただの眠りのような穏やかさが残る。

 わたしは、その変化を、手の中で感じていた。

 熱はまだ高い。

 けれど、さっきまで胸の中で暴れていた何かが、今は、奥の方で静かにうずくまっている。

 ――時間が、できた。

 誰かが、そう囁いたような気がした。

 ラーチェは、少年の胸の上からゆっくりと退き、足首へ戻った。

 黒い身体が、わたしの方へちらりと向く。

 その視線の意味は、分からない。

 けれど、「ここまではやった」という線引きだけは、はっきり伝わった。

 朝、少年の父親が戻ってきた。

 夜明けと同時に門を叩いたのだろう。息を切らし、服には朝露が濡れついていた。

 「どう、ですか」

 息の合間に、絞り出すように問う。

 「まだ、息をしています」

 アリシアが答える。

 「でも………」

 その先は、言葉にならなかった。

 父親は、うなずいた。

 寝台のそばに座り、少年の手を握る。

 少年の手を握る父親の指は、土で固くなっていた。

 「……おい」

 声は震えていたが、優しかった。

 「ほら。……起きろ。今日は………畑じゃなくて、川に行くって……言ったろ」

 少年のまぶたが、わずかに震えた。

 開くことはなかった。

 それでも、わたしには、その震えが返事に思えた。

 アリシアが、静かに白い糸を流す。

 わたしは、水と布を持ったまま、二人を見守っていた。

 ラーチェは、少年の足首に寄り添っている。

 神父様は、少し離れた場所で祈りの言葉を紡いでいた。

 それから、半日ほどして、少年は息を引き取った。

 父親は、その瞬間に立ち会えた。

 少年の手を握ったまま、静かに泣いた。

 声をあげるでもなく、ただ、肩を震わせた。

 「ありがとう……ございました」

 別れ際、父親は、わたしたち全員に向かって頭を下げた。

 「せめて……こいつの最後の夜に、そばにいてやれました」

 わたしは、胸が詰まって返事ができなかった。

 代わりに、アリシアが深く頭を下げる。

 神父様は、目を閉じたまま祈りを続けていた。

 ラーチェは、足元の影に溶けていく。

 少年の父親が去ったあと、礼拝堂には、また3人と1匹だけが残った。

 「……助けられなかった」

 わたしが言うと、神父様は首を振った。

 「命そのものは、救えなかった」

 それは、揺るぎない事実だった。

 「だが、アギューに奪われるだけだった時間の一部を、父親に返すことはできた」

 アリシアが、少年の寝台を見つめる。

 「ラーチェが、少年のそばにいてやらなければ」

 「メアリーが、胸の熱の変わり目を感じ取れなければ」

 神父様が続ける。

 「父親は、間に合わなかったかもしれない」

 わたしは、少年の手の温度を思い出していた。

 夜明け前の、あの一瞬。

 狂ったように熱かった熱が、ほんの少しだけ落ち着きに変わった、その境目。

 「……それでも」

 声が、少し震えた。

 「やっぱり、悔しいです」

 「その悔しさは、捨てなくていい」

 神父様の声は、静かだった。

 「アギューは、まだここにいる。川にも、村にも、そしておそらくは、この結界の内側にも」

 足元で、ラーチェがわずかに身を固くする。

 「これからも、救えない命は出るだろう」

 それは、残酷な未来予告だった。

 「だが、そのたびに、“何ができたか”と“何が足りなかったか”を、今日のようにきちんと見直しなさい」

 アリシアが、小さく息を吐く。

 「今日、わたしたちは、“最後の時間”を守ることができた」

 「次は」

 わたしが言う。

 「その前の時間を、少しでも伸ばせるように」

 「そうだ」

 神父様が頷く。

 「そして、いつかは――」

 言いかけて、言葉を飲み込む。

 「今はまだ、口にするには早すぎる願いだ」

 それでも、胸の奥で、白い糸がひと筋だけ明るく光った。

 ラーチェが、そのすぐそばを、冷たい黒でなぞる。

 アリシアは、わたしとラーチェを見比べて、小さく笑った。

 「三人と一匹」

 その言葉が、静かな礼拝堂に落ちる。

 それはまだ、頼りない、小さな守りだった。

 けれど、アギューに奪われるばかりだった時間の中に、細いながらも一本、逆向きの線が引かれた気がした。



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