13 試練
トマスの葬儀から、そう日は経たないうちだった。
また、アギューの患者が運び込まれた。
今度は、アルノという少年だった。
十にも満たないくらいの、小さな身体。腕や脚は細いのに、膝や肘には土でできた固い痂がついている。畑の手伝いをしていたのだと、一目で分かった。
「川上の村からだ」
神父様が低く言う。
「家族は?」
「父親と、祖父母がひと晩かけて連れてきたそうです」
アリシアが答える。
「今は宿舎で、少し休んでもらっています」
アルノの額に手を当てる。
熱い。
トマスのときよりも、最初から熱が高かった。
胸の奥で、白い糸がざわつく。
足元で、ラーチェがアルノの足首にそっと絡みついた。
黒い輪が、血の中を流れる黒い点を確かめる。
その瞬間、ラーチェはわずかに身を固くした。
「……多いの?」
わたしが、思わず尋ねる。
ラーチェは、アルノの足下で身を固めた。
その動きだけで、十分だった。
「………メアリー」
アリシアが、静かに言う。
「さっき決めたこと、覚えてる?」
「はい」
胸の奥で、一度深く息を吸う。
「………。この子の……。この子の手と額と胸の温度を…。ちゃんと…覚えます」
アルノの揺らぎに合わせてわたしの白い糸が揺らぐ。
わたしは、水盆と布を持って、アルノのそばに腰を下ろした。
額。首筋。胸。手の甲。足首。
一つ一つに触れながら、その温度と硬さと、皮膚の下のざわつきを、白い糸の先で記憶に刻んでいく。
アリシアは、少年の手を握って、小さく白い糸を流していた。
「…苦しみを、少しだけ鈍らせる」
それが、今のアリシアにできる一番確かなことだった。
その日の夜、少年の父親が教会に着いた。
痩せた顔に、無理やり笑みを貼り付けたみたいな男の人だった。
「……フッ…。こいつ、アギュー、なんだってな」
寝台の横で、男の人の手がアルノの手を覆う。
アルノは、うわごとのように何かを言っていたが、はっきりした言葉にはならなかった。
「こいつはな。…川で、網を打つのが、好きでな」
父親は、誰にともなく話し始める。
「…本当は、まだ水際まで行かせたく、なかったんだ。…けど、こいつ。俺の後ろを勝手についてきて…」
アリシアが、黙って聞いていた。
神父様は、少し離れた場所から、その様子を見守っている。
ラーチェは、少年の足首から離れない。
わたしは、水と布を持つ手を止めないようにしながら、胸の奥で白い糸の動きを押さえ込んでいた。
この子は、たぶん、トマスよりも危ない。
それは、指先と糸の両方で分かった。
でも、だからといって、わたしたちが何もしないわけにはいかなかった。
夜も更けたころ、神父様が決断した。
「父親を、一度村へ戻す」
アリシアが顔を上げる。
「でも、まだ」
「必ず、明日の朝にもどるように伝えなさい」
神父様の声は、いつもより少しだけ固かった。
「この子が、この夜を越えられるかどうかは、分からない」
その言葉に、胸がぎゅっと縮む。
「だが、もし越えられなかったとき。父親が何も知らないまま、川のそばで網を打っているのは、あまりにも酷だ」
アリシアは、唇を噛んでから頷いた。
「分かりました」
彼女は父親のところへ行き、短く事情を伝えた。
男の人は、しばらく少年の顔を見下ろしていたが、やがてゆっくりと立ち上がる。
「必ず、明日の朝に戻ります」
そう言って、少年の額に唇を押し当てた。
わたしたちは、夜通し少年のそばにいた。
アリシアが何度も白い糸を流し、わたしは何度も水を替えた。
ラーチェは、足首だけでなく、時折、少年の腕や脇腹にもするりと移り、血の中を泳ぐ黒い点を喰い続けた。
それでも、夜明け前、少年の呼吸は一度大きく乱れた。
胸が、大きく上下する。
ひゅう、と息を吸い込んだかと思うと、そのあとが続かない。
「ラーチェ!」
アリシアの声より先に、ラーチェが動いていた。
黒い身体が、一瞬だけ細く尖る。
鎌のような形になった先端が、ふっと上の空間を薙いだ。
何もないように見える空中で、小さな羽音が途切れる。
薄い翅が、光を受けてかすかにきらめいた。
蚊だった。
少年の顔のすぐ上を飛んでいた小さな影が、真っ二つに切り裂かれ、床に落ちる。
その瞬間、少年の胸が、ひくりと震えた。
「メアリー!」
神父様の声が飛ぶ。
「胸を支えなさい!」
わたしは、言われる前に動いていた。
少年の背中に手を差し入れ、上体を少し起こす。
胸の奥の白い糸が、少年の胸から上がってくる熱とぶつかった。
熱の中に、黒い渦がある。
ラーチェがその渦の縁で踊り、黒い点を喰っていた。
「まだだ」
アリシアが、少年の手を握りしめる。
白い糸が、痛みを鈍らせるためだけに流れる。
「ここで苦しみだけを置いていかせるわけにはいかない」
少年の呼吸は、しばらく不規則に荒れた。
それから、少しずつ、浅く静かな波に変わっていった。
夜明けが近づくころ、少年の顔から、苦痛の歪みだけが、すっと消えた。
代わりに、ただの眠りのような穏やかさが残る。
わたしは、その変化を、手の中で感じていた。
熱はまだ高い。
けれど、さっきまで胸の中で暴れていた何かが、今は、奥の方で静かにうずくまっている。
――時間が、できた。
誰かが、そう囁いたような気がした。
ラーチェは、少年の胸の上からゆっくりと退き、足首へ戻った。
黒い身体が、わたしの方へちらりと向く。
その視線の意味は、分からない。
けれど、「ここまではやった」という線引きだけは、はっきり伝わった。
朝、少年の父親が戻ってきた。
夜明けと同時に門を叩いたのだろう。息を切らし、服には朝露が濡れついていた。
「どう、ですか」
息の合間に、絞り出すように問う。
「まだ、息をしています」
アリシアが答える。
「でも………」
その先は、言葉にならなかった。
父親は、うなずいた。
寝台のそばに座り、少年の手を握る。
少年の手を握る父親の指は、土で固くなっていた。
「……おい」
声は震えていたが、優しかった。
「ほら。……起きろ。今日は………畑じゃなくて、川に行くって……言ったろ」
少年のまぶたが、わずかに震えた。
開くことはなかった。
それでも、わたしには、その震えが返事に思えた。
アリシアが、静かに白い糸を流す。
わたしは、水と布を持ったまま、二人を見守っていた。
ラーチェは、少年の足首に寄り添っている。
神父様は、少し離れた場所で祈りの言葉を紡いでいた。
それから、半日ほどして、少年は息を引き取った。
父親は、その瞬間に立ち会えた。
少年の手を握ったまま、静かに泣いた。
声をあげるでもなく、ただ、肩を震わせた。
「ありがとう……ございました」
別れ際、父親は、わたしたち全員に向かって頭を下げた。
「せめて……こいつの最後の夜に、そばにいてやれました」
わたしは、胸が詰まって返事ができなかった。
代わりに、アリシアが深く頭を下げる。
神父様は、目を閉じたまま祈りを続けていた。
ラーチェは、足元の影に溶けていく。
少年の父親が去ったあと、礼拝堂には、また3人と1匹だけが残った。
「……助けられなかった」
わたしが言うと、神父様は首を振った。
「命そのものは、救えなかった」
それは、揺るぎない事実だった。
「だが、アギューに奪われるだけだった時間の一部を、父親に返すことはできた」
アリシアが、少年の寝台を見つめる。
「ラーチェが、少年のそばにいてやらなければ」
「メアリーが、胸の熱の変わり目を感じ取れなければ」
神父様が続ける。
「父親は、間に合わなかったかもしれない」
わたしは、少年の手の温度を思い出していた。
夜明け前の、あの一瞬。
狂ったように熱かった熱が、ほんの少しだけ落ち着きに変わった、その境目。
「……それでも」
声が、少し震えた。
「やっぱり、悔しいです」
「その悔しさは、捨てなくていい」
神父様の声は、静かだった。
「アギューは、まだここにいる。川にも、村にも、そしておそらくは、この結界の内側にも」
足元で、ラーチェがわずかに身を固くする。
「これからも、救えない命は出るだろう」
それは、残酷な未来予告だった。
「だが、そのたびに、“何ができたか”と“何が足りなかったか”を、今日のようにきちんと見直しなさい」
アリシアが、小さく息を吐く。
「今日、わたしたちは、“最後の時間”を守ることができた」
「次は」
わたしが言う。
「その前の時間を、少しでも伸ばせるように」
「そうだ」
神父様が頷く。
「そして、いつかは――」
言いかけて、言葉を飲み込む。
「今はまだ、口にするには早すぎる願いだ」
それでも、胸の奥で、白い糸がひと筋だけ明るく光った。
ラーチェが、そのすぐそばを、冷たい黒でなぞる。
アリシアは、わたしとラーチェを見比べて、小さく笑った。
「三人と一匹」
その言葉が、静かな礼拝堂に落ちる。
それはまだ、頼りない、小さな守りだった。
けれど、アギューに奪われるばかりだった時間の中に、細いながらも一本、逆向きの線が引かれた気がした。




