12 誓い
トマスの葬儀は、翌日の夕方に行われた。
礼拝堂には、いつもより多くの人が集まっていた。ベレスフォード婦人とその使用人たち。川沿いの村から来た人たち。畑仲間らしい男たち。赤ん坊を抱いた若い女の人。
その人が、トマスの妻なのだと、あとでアリシアから聞いた。
神父様の声が、ゆっくりと礼拝堂に響く。
「この者は、よく働き、よく笑い、家族と土を愛した」
その言葉のひとつひとつが、わたしの胸に刺さる。
わたしは後ろの方の長椅子に座っていた。
アリシアが隣にいる。ラーチェは、足元の影に溶け込んでいた。
祈りが終わり、人々が少しずつ礼拝堂から出ていく。
トマスの妻が、赤ん坊を抱いたまま、こちらを一瞬だけ見た。赤ん坊の小さな指が、彼女の服をぎゅっと掴む。
泣きはらした目で、それでも、かすかに首を下げる。
「ありがとうございました」
その口の動きだけが、かろうじて読めた。
わたしは、返事ができなかった。
謝りたかった。
「ごめんなさい」と言いたかった。
けれど、その言葉を口に出したら、何かが壊れてしまいそうで、喉が固まって動かなかった。
人の波が引き、礼拝堂に静けさが戻る。
神父様が、講壇から降りてきた。
「ここに残りなさい」
短くそう言って、扉を閉める。
礼拝堂には、神父様と、アリシアと、わたしと、ラーチェだけが残った。
高い天井の下で、3人と1匹の呼吸音だけが響く。
「……わたしの、せい、ですか」
最初に声を出したのは、わたしだった。
自分でも驚くほど、声が小さく震えている。
「もっと早く、ラーチェを呼べばよかった。もっと強く、白い糸を流せばよかった」
言葉が溢れ出す。
アリシアが「違う」と言いかけたのを、神父様の手が制した。
「アリシア」
「でも」
「今は、先に聞こう」
神父様は、わたしをまっすぐ見た。
「…メアリー。お前は、あの人に何をしてやれたと思う」
問いかけられて、口が詰まる。
「……水を、運んで」
「…他には」
「…汗を、拭いて。それから、…少しだけ、白い糸を」
声がだんだん細くなる。
「何も、足りませんでした」
「……。足りなかったからこそ、今こんなに苦しい」
神父様は、そう言ってから、目を伏せた。
「わたしも同じだ」
その言葉は、意外だった。
「結界を強めれば、もっと救えると思っていた。場を清め、病の進行を遅らせれば、薬も祈りも届く時間を稼げると」
神父様の声が、わずかに掠れる。
「だが、このアギューは、それすら追い越していく」
「アギューは、川と蚊と一緒に来る」
アリシアが、静かに続ける。
「夕方の畑仕事のあと、川のそばで長く立っている人ほど、倒れるのが早い」
結界は、空気と場を守る。けれど、血の中まで選んで掃除することはできない。
その事実が、今さらのように重くのしかかる。
足元で、ラーチェが身じろぎした。
黒い身体が、床の石の上でゆっくりと輪を描く。
神父様が、その動きをじっと見ていた。
「ラーチェも、限界を感じていたのだろう」
「……うん」
アリシアが、小さく頷く。
「最後の方、あの人の足首についたまま、ほとんど動かなかった」
「喰っても、喰っても、足りない」
神父様の声が、ラーチェに向かう。
「お前にとっても、初めての“追いつけない病”だったかもしれないな」
ラーチェは、何も答えない。
ただ、輪郭を少しだけ細くした。
白い糸とは逆の、深い黒。
その黒の中に、わたしはトマスの血の中で渦巻いていた無数の点を思い出していた。
「……次は」
自分の声が出るまで、少し時間がかかった。
「次に、誰かがああなる前に。わたしたちに、できることはありますか」
問いながら、胸の奥が痛んだ。
それが、「まだやれるはずだ」としがみついている声なのか、「もう同じ思いをしたくない」と逃げている声なのか、自分でも分からなかった。
神父様は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「わたし一人の結界では、もう足りない」
その言葉は、敗北宣言のようでいて、どこか違っていた。
「だから、これからは、お前たちと、ラーチェにも、守りの一部を任せる」
アリシアが、はっと顔を上げる。
「わたしたちに、結界を?」
「結界そのものは、わたしの仕事だ」
神父様は首を振る。
「だが、その中で、誰がどこまで持つか、どこまで踏み込めるかを見極める目は、一人分では足りない」
視線が、アリシア、わたし、ラーチェの順に巡る。
「アリシア。お前は、人の弱さと限界に敏い。これからは、誰にどこまで白い力を使うか、その優先を決める手伝いをしてほしい」
アリシアの喉が、ごくりと鳴った。
「……はい」
「ラーチェ」
名前を呼ばれて、黒い影がぴくりと動く。
「お前は、危険な点の揺れを一番早く嗅ぎつけられる。これからは、ただ命じられた患者につくだけではなく、自分で“危ない”と察した者にも先に絡みに行きなさい」
ラーチェは、しばらく動かなかった。
やがて、石の上で輪を一度だけきつく巻き、ほどいた。
了承の合図だと、なぜか分かった。
「メアリー」
最後に、わたしの名が呼ばれる。
「お前は、水と布の手を、これまで以上に確かにしなさい」
意外な言葉だった。
魔力のことを言われると思っていたのに。
「水を運び、汗を拭き、手を握る。そのあいだに、お前の白い糸は、勝手に“何がどこに流れているか”を覚えていく」
神父様の声は、静かだった。
「いきなり病そのものをどうにかしようとするのではない。まずは、“どこが冷たくて、どこが熱いか”を、誰よりもよく知る者になりなさい」
胸の奥で、何かがすとんと落ちた。
トマスの手の甲。額。胸。足首。
触れた場所の温度と硬さが、今も指先に残っている。
「それができるようになったとき、初めて“ここなら糸を通してもいい”場所が分かるようになる」
神父様が、ラーチェの方を見る。
「そして、そのとき、ラーチェが“ここまでは危険だ”と止めてくれる」
アリシアが、小さく笑った。
「3人と1匹の仕事、ですね」
「そうだ」
神父様も、わずかに口元を緩める。
「今日救えなかった命は、戻らない」
その言葉が、礼拝堂に重く響く。
「だが、その重さごと、これから守る命に繋げなければならない」
わたしは、トマスの妻の顔を思い出していた。
赤ん坊を抱きしめた腕。泣きはらした目。それでも「ありがとうございました」と口の形で伝えてくれた唇。
「……次は」
さっきよりも、少しだけはっきりした声で言う。
「次に誰かがここに運び込まれたら、その人の手と額と胸の温度を、ちゃんと覚えます」
「そのとき、危ないと思ったら」
アリシアが続ける。
「遠慮しないで、わたしと神父様とラーチェを呼ぶ」
足元で、ラーチェがわずかに身を寄せてきた。
冷たい輪が、わたしの足首に絡む。
今度は、その冷たさが、少しだけ心強かった。




